千斤の枷、奈落の底に目覚む
漆黒。それ以外の色彩を、この世界は拒絶していた。
最果ての流刑地「鉄砂荒野」。その地表のはるか奈落に穿たれた「鉄砂監獄」の最下層、四方を分厚い玄鉄の板で囲まれた「玄鉄の檻(ゲンテツノオリ)」には、微かな光すら差し込まない。ただ、天井の隙間から滴り落ちる地下水の冷たい一滴が、暗闇の中で鋭い音を立てるだけだった。
「――フゥ、――ゥ」
その闇の奥から、細く、長く、糸のように引く呼吸音が聞こえる。
元・朝廷大将軍、榛剛顕(ハリバラ・ゴウケン)。かつて国境を守り抜き、万の兵を率いた名将は今、泥水に塗れた石畳の上に膝を突き、その巨大な体躯を極限まで縮めていた。
彼の肉体を覆っているのは、首から足首までを隙間なく包み込む無骨な黒鉄の鎧――「玄鉄甲(ゲンテッコウ)」である。
重量、千斤(約五百キログラム)。それは単なる防具ではない。朝廷が国家反逆の極悪人を拘束するために鋳造した、呪いの生体枷であった。鎧の裏側に仕込まれた無数の微細な鉄針が皮膚に食い込み、経絡を物理的に圧迫している。これによって、剛顕の体内の真気は完全に封印され、呼び出すことすら叶わない「内力枯渇(ナイリョクコカツ)」の状態に陥っていた。
(動けば、骨が軋む。息を吸えば、肺が裂ける)
剛顕は沈黙の中で、己の五臓六腑を蝕む圧倒的な重力と戦っていた。内力という武芸者の力の源泉を奪われた生身の肉体にとって、五百キロの鉄塊を身に纏い続けることは、毎瞬、巨大な岩石に押し潰され続けるに等しい拷問だった。
だが、剛顕の瞳は死んでいなかった。顔を覆う鉄の兜の細い隙間から、凍てつくような鋭い眼光が闇を射抜いている。
彼は「逆流息(ギャクリュウソク)」を用いていた。肺を限界まで押し潰す玄鉄甲の中で、胸郭を一切動かさず、横隔膜の微細な上下だけで微量な酸素を全身に循環させる特殊な呼吸法。胸を少しでも大きく膨らませれば、鎧の内側に並ぶ鋭い突起が肋骨を突き破る。剛顕は幼少期に叩き込まれた過酷な肉体制御を再現し、死の淵で辛うじて生命を繋ぎ止めていた。
ガギィィィン、と耳を潰すような金属音が響いた。檻の厚い鉄扉が開き、松明の赤い光が湿った空気の中に侵入する。
「おい、まだ息をしていやがるな。さすがは榛家の化け物だ」
下卑た笑い声と共に現れたのは、監獄長「暴君の牙(ボウクンノキバ)」だった。筋骨隆々の巨躯に、囚人たちの血を吸って黒ずんだ棘付き鉄鞭を握りしめた男。その背後には、数人の看守たちが松明を手に控えていた。
「榛剛顕。貴様がどれほど強靭な骨格を持っていようと、この玄鉄甲の前ではただの動けぬ鉄人形よ。司馬無忌様を裏切った代償は、死よりも重いと知れ」
暴君の牙は剛顕の首元から伸びる極太の鎖を掴み、力任せに引きずり回した。石畳と玄鉄甲が擦れ合い、不快な金属音と火花が散る。五百キロの質量が強引に動かされたことで、剛顕の全身の関節に凄まじい物理的負荷がのしかかった。首の骨が鳴り、肩の筋肉が悲鳴を上げる。
看守たちはその無惨な姿を見て、嘲笑の声を上げた。
「おいおい、かつての大将軍が犬のように地を這っているぞ!」
「おい、もっと引っ張れ! その重い甲冑が擦り切れるまでな!」
嘲笑の嵐の中、看守たちの最後尾に立つ一人の老看守がいた。名を「伴(バン)」という。枯れた体躯に擦り切れた制服を纏い、眠そうな目で退屈そうに壁に寄りかかっている。だが、その濁った瞳の奥で、伴は剛顕の足元の動きを冷徹に観察していた。剛顕が一歩を引きずられる瞬間、その足裏が床の石畳を微かに踏み締め、衝撃を大地へと逃がしていることに、伴だけが気づいていた。
(……やはり、この男、折れてはおらん)
伴の脳裏に、かつての戦場の光景がよぎる。剛顕の父、榛烈大将軍の背中。あの偉大な防人が遺した血統は、この暗黒の奈落にあっても、未だその矜持を失っていなかった。伴はさりげなく一歩前に出ると、暴君の牙にへつらうような声を上げた。
「監獄長、そのあたりで。あまり手荒に扱いすぎて、採掘の前に息の根が止まっては、雷震天総督への戦功報告に障ります。こいつにはまだ、掘り出さねばならぬ黒鉄鉱石が山ほどありますからな」
暴君の牙は鼻を鳴らし、鎖を投げ捨てた。剛顕の巨躯がズシンと重い音を立てて石畳に沈む。
「ふん、相変わらず気の利かん老いぼれめ。だが、確かにその通りだ。榛剛顕、貴様には死ぬまであの暗黒の穴蔵で泥を啜ってもらう」
剛顕は床に伏したまま、一切の言葉を発しなかった。ただ、胸の奥で燃え盛る復讐の炎だけが、冷たい鉄の内側で静かに脈動していた。
自分を嵌め、忠義を尽くした部下たちを虐殺した三人の裏切り者。その一人である辺境総督・雷震天が、この監獄の頂上に君臨している。その喉元に、この鉄の拳を叩き込むまでは、絶対に倒れるわけにはいかない。
一瞬、激しい怒りに任せて体内の真気を練り上げようとした。だがその瞬間、玄鉄甲の胸当てが不気味に脈動し、心臓を物理的に締め付けた。経絡が激しく軋み、喉の奥まで血が競り上がる。
(くっ……!)
剛顕は兜の内側で溢れ出そうになる血を強引に飲み下した。内力を少しでも使えば、この鎧は着用者の肉体を内側から破壊する。奇跡の復活も、都合の良い気功の目覚めもない。あるのは、この五百キロの質量と、己の生身の肉体という極限の物理法則のみ。
「立て、国賊め。貴様の仕事場へ連れて行ってやる」
暴君の牙が再び鎖を引く。剛顕は「逆流息」をさらに細く、深く整え、全身の骨格を一本の巨大な鉄柱のように固定した。そして、一歩、また一歩と、重い地響きを立てながら、檻の外へと歩み始めた。
連行された先は、赤黒い砂塵が舞い、無数の囚人たちがうごめく「第一黒鉄坑道」だった。天井からは巨大な鍾乳石が牙のように突き出し、松明の炎が煤煙を上げている。そこは、人間が数年生きるだけで肺が侵される死の穴蔵だった。
坑道の入り口で、彼らを待ち受けていたのは、鉱山監督官「銅山(ドウザン)」だった。筋骨隆々の体躯に、囚人を打ち据えるための鉄製の重鞭を肩にかけ、冷酷な笑みを浮かべて剛顕を見下ろしている。
「監獄長、この化け物が新しい採掘奴隷ですか」
銅山は足元に転がっていた、通常の三倍はあろうかという超重量の「巨鉄のピッケル」を、剛顕の足元へと乱暴に投げ捨てた。重い鉄器が岩肌に当たり、甲高い音を立てる。
「おい、榛剛顕。貴様の今日のノルマはこれだ。内力なしで、その千斤の鎧を着たまま、この岩盤をすべて砕いてもらう。できなければ、貴様の分の水はすべて砂に流してやる」
銅山は鉄鞭をきつく握りしめ、剛顕の無言の兜を睨みつけた。逆らう素振りを見せれば、即座にその頭部を叩き割る構えだった。
剛顕はゆっくりと腰を落とした。五百キロの玄鉄甲が「ギギ……」と不気味な金属摩擦音を立てる。彼は唯一動く右腕を伸ばし、冷たいピッケルの木柄を握りしめた。その瞬間、坑道内の喧騒が嘘のように消え去り、剛顕の周囲に圧倒的な、そして不穏な静寂が満ちていった――。
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