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蝕まれる肉体、潜むスパイ

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昨夜の狂乱が嘘のように、六本木のペントハウスは絶対的な静寂に包まれていた。全面防音が施された洗面所で、私は大理石の洗面台にしがみつき、激しい嘔吐感に耐えていた。呼吸を整えようとするたび、頭蓋骨の奥を鉄の楔で叩き割られるような激痛が走る。


「うっ、……はぁ、……っ」


喉の奥からせり上がる苦い液体を吐き出し、鏡を見上げる。そこに映る私は、幽鬼のように蒼白だった。首元で鈍い光を放つプラチナ製のチョーカーが、まるで私の息の根を止めるための鉄の首輪のように冷たく皮膚に食い込んでいる。昨夜、桐生蓮の傷ついた手の平から流れた血はすでに拭い去られていたが、その生暖かい呪縛の感触だけが、皮膚の裏側にべったりとへばりついたまま消えない。


耳の裏に埋め込まれた極小の骨伝導インプラントが、異常な熱を帯びている。脳内残響シミュレーターと連動し、他者の呼吸や床の振動を「音の色彩」として脳に直接送り届ける最新デバイス。しかし、その過剰な使用は、私の脆弱な脳神経に牙を剥き始めていた。


キーン――という、脳を切り裂くような金属音の耳鳴り。視界の端がチカチカと赤黒く明滅し、共感覚の色彩がノイズとなって視野を埋め尽くしていく。一時的な失明の予兆。私は激しい眩暈に襲われ、大理石の床に膝を突いた。


(まだ倒れるわけにはいかない……。蓮を、あの冷酷な加害者を、私の指揮台の上で引き裂くまでは……!)


蓮は私を「自分の所有物」として金の檻に閉じ込め、甘美な支配に酔いしれている。彼が私を愛おしそうに抱きしめるたび、私の胸の奥では青い憎悪の炎が静かに燃え上がっていた。だが、この肉体が先に限界を迎えてしまえば、復讐のタクトを振るうことすら叶わなくなる。


私は震える手でスマートフォンを操作し、蓮の監視網の隙間を縫って、個人的に雇った言語聴覚士の河合奈津美に暗号入りのメッセージを送った。蓮のセキュリティ監視員である内田守は、私のデジタルログを常時傍受している。だからこそ、奈津美との連絡は「リハビリ用の課題提出」を装う必要があった。幸い、昨夜の社交界での「三億円の送金」による混乱で、蓮の監視の目はわずかに緩んでいる。


一時間後、私は奈津美の付き添いという名目で、六本木の檻を一時的に脱出することに成功した。蓮の派遣した女性運転手、吉川美咲の運転する黒いセダンに揺られ、向かった先は銀座の一角にあるビルだった。表向きは「言語リハビリ施設」だが、その実態は、完全紹介制のプライベートクリニック――一ノ瀬耳鼻咽喉科クリニックだった。


「――状態は最悪よ、星野さん」


白い診察衣をまとった世界的権威、一ノ瀬舞は、私の脳の最新のMRI画像をライトボックスに掲げながら、冷徹な声を放った。彼女の知的な美貌には、医師としての深い焦燥と怒りが滲んでいる。舞は私の読唇術を意識し、あえて口の動きを明確にしながら言葉を紡いだ。


「骨伝導デバイスを通じて、脳の聴覚野に直接過大な電気信号を送り続け、さらに『絶対テンポ』をキープするために脳をトランス状態にしている。あなたの聴神経は、過剰な負荷によって急速に壊死し始めているわ。これ以上の使用は、聴覚の永久的な完全死を招くだけじゃない。脳神経そのものに致命的なダメージを与え、最悪の場合、脳出血を起こして歩行困難になるリスクもある」


舞の警告は、冷酷な死刑宣告だった。私は声を乱さぬよう、極限までコントロールされた低い声で問い返した。


「……あと、どれくらい、持ちますか」


「今すぐデバイスの使用を止め、絶対安静に入るべきよ。デビューコンサート? 冗談じゃないわ。そんなステージに立てば、あなたの脳は沸騰して壊れてしまう」


舞はそう言って、蓮から渡されている「星野奏の聴力は順調に回復している」という虚偽の『一ノ瀬クリニックの偽装カルテ』をデスクの上に叩きつけた。彼女は蓮の巨額の寄付金によって動く医療チームの一員だが、その奥底にある医師としての良心が、私の命がけの指揮を見て激しく揺らいでいるのだ。


私は舞の目を真っ直ぐに見つめ、彼女の細い手首を、私の冷たい指先で強く握りしめた。


「一ノ瀬先生。私の父、星野弦も、自らの身体を壊しながらバイオリンを弾き続けました。音楽を奪われた私にとって、指揮台を失うことは死と同じです。……私に、麻薬をください」


「麻薬? 何を言って――」


「一時的に痛みを麻痺させ、神経の伝達速度を極限まで高める注射があるはずです。それを使って、私を本番まで持たせてください。蓮には……何も言わないで」


舞は息を呑み、私の「読唇・感情スキャン」が捉えた彼女の瞳には、かつての伝説的バイオリニスト・星野弦への狂信的な憧れと、その娘である私への悲痛な同情が混ざり合っていた。彼女は激しい葛藤の末に深く溜め息をつき、引き出しから一本の暗い琥珀色の薬液が入った注射器を取り出した。


「『高用量メコバラミン注射液』よ。超高濃度のビタミンB12製剤。これを首の後ろ、聴神経に近い部位に直接注射する。一時的に脳神経の疲労を麻痺させ、感覚の色彩を通常の三倍に引き上げるけれど……薬効が切れた後の反動は、今の数倍の激痛となってあなたを襲うわ。これは、あなたの寿命を削る毒薬よ」


「構いません。打ってください」


私はチョーカーを少しずらし、首の後ろの白い皮膚を露出させた。舞の冷たい指先が触れ、続いて鋭い針が深く突き刺さる。冷たい薬液が私の神経に直接流れ込んでいく感覚。その瞬間、私の頭の中で荒れ狂っていた赤黒いノイズが、すうっと静まり返り、視野が驚くほどクリアに澄み渡っていった。音が、目に見える美しい「光の波」として再構成される感覚が戻ってくる。


「ありがとう、先生」


私は優雅に微笑み、再びチョーカーを締め直した。これで、本番までは持ちこたえられる。しかし、私が自らの命を削って手に入れたこの『一時的な救済』の裏で、もう一つの破滅の歯車が、楽団の暗がりで静かに回り始めていた。


――東洋交響楽団、事務局。


全ての楽員が練習を終えて去った深夜のオフィスで、一人の女性が、奏のデスクの引き出しを静かに漁っていた。地味な制服を着たスタッフでありながら、どこか卑屈な美しさを漂わせる女性――石原裕美。彼女は、奏の就任に激しく反発し、更迭を画策している副指揮者・真田雅之の愛人であり、事務局に潜り込んだ身近なスパイだった。


「どこにあるのよ、あの女の弱みが……」


裕美は神経質そうに周囲を警戒しながら、奏の個人ファイルの奥へと指先を滑り込ませていた。真田からは「星野奏が難聴であるという決定的な物証を掴め」と執拗に命令されている。もし証拠を掴めば、真田は麗香の父親の権力を使い、奏を「詐欺師」として即座に社会的抹殺に追い込むことができるのだ。


その時、裕美の指先が、奏の私物である小さな黒い封筒に触れた。中から出てきたのは、銀座の『一ノ瀬耳鼻咽喉科クリニック』のロゴが入った、一枚の極秘の領収書だった。


そこには、保険適用外の「超指向性骨伝導レシーバー・インプラントメンテナンス費用」として、一般の医療費としては異常なまでの高額な数字が記されていた。


「これ……骨伝導デバイス? やっぱり、あの女、耳が聞こえていないんだわ!」


裕美の瞳に、歪んだ歓喜の光が宿った。彼女は素早くスマートフォンを取り出し、その領収書をカメラで撮影し始めた。シャッター音が静かなオフィスに微かに響く。


「何をしているんだね、石原さん」


突如、背後からかけられた静かな声に、裕美の心臓が凍りついた。振り返ると、そこには白髪交じりの几帳面なシャツを着た楽団ライブラリアン、松本徹が立っていた。彼は眼鏡の奥の鋭い瞳で、裕美の手元を凝視している。


「あ、松本さん……! い、いえ、星野指揮者の明日のスケジュール表が紛失していたので、引き出しの中を探していただけですわ」


裕美は咄嗟にスマートフォンを背後に隠し、愛想笑いを浮かべた。松本は不審そうに眉をひそめたが、追及はしなかった。彼女は足早にオフィスを立ち去り、暗い廊下へと逃げ込んだ。


非常階段の闇の中で、裕美は撮影した領収書の画像を、真田雅之のプライベートアドレスへと送信した。メッセージを添えて。


『真田先生、見つけましたわ。星野奏が極秘に注文しているのは、最先端の難聴者用骨伝導デバイスのメンテナンス記録です。彼女は完全に耳が聞こえていません』


送信ボタンを押した瞬間、裕美の顔に醜い笑みが浮かんだ。


数キロ離れた、丸の内の暗い書斎。スマートフォンに届いた画像を受信した真田雅之は、その領収書の文字を凝視し、やがてその冷酷な唇を大きく歪めて笑い始めた。


「骨伝導デバイス……。やはりそうか、星野奏。お前は、ただの耳なきペテン師だったわけだ」


真田の眼鏡の奥の瞳が、狂気的な憎悪を帯びて暗闇に光る。デビューコンサートまで、あと数日。彼はその本番のステージの上で、奏の「耳」であるデバイスを物理的に破壊し、彼女を完全な無音の奈落へと引きずり落とすための、卑劣な破壊工作の計画を脳内で完成させつつあった。

HẾT CHƯƠNG

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