社交界の品評、歪んだ守護
真田雅之の目の前で黒崎のサボタージュを完璧に暴き、楽屋裏の不協和音をねじ伏せた翌日。私を待ち受けていたのは、さらなる勝利の余韻ではなく、桐生蓮が用意した新たなる「金の檻」だった。
六本木の超高級ペントハウス。全面防音の静寂に包まれた寝室で、私は鏡の前に立っていた。鏡の中に映る私は、蓮の手によってあつらえられた、漆黒のシルクで作られたイブニングドレスを身にまとっている。デコルテを大胆に露出させたそのドレスは、私の青白い肌を病的に際立たせていた。
そして、私の首元には、冷たいプラチナ製のチョーカーが固く施錠されている。三年前の雨の夜、気管切開を施された生々しい傷跡を隠すための、美しき「支配の首輪」。蓮がその鍵を握っている限り、私は彼の所有物でしかない。
「よく似合っている、かなで」
背後から、音もなく蓮が近づいてきた。彼の長い指先が私の露出した肩に触れ、冷たい電流のような震えが私の背筋を走る。鼓膜には何の音も届かない。だが、骨伝導レシーバーから伝わる微細な電子のノイズと、彼の唇の動きが、私の脳内で彼の冷徹な声を再生する。
「今夜は、君を私の世界へ招待しよう。桐生財閥の総帥としての、私の隣に立つ資格を、社交界の連中に見せつけてやる」
私は鏡の中の蓮の瞳を見つめ返した。その瞳の奥にあるのは、歪んだ独占欲と、私を自分の手元に縛り付けるための狂気的な熱だった。私は自らの感情を氷の下に押し込み、完璧な「マスカレード・フェイス(欺瞞の微笑)」を浮かべた。
「はい、蓮。あなたの望む通りに」
声のピッチが乱れぬよう、極限までコントロールされた低い声で私は囁いた。耳の聞こえない私が不用意に声を出せば、わずかな発声のズレから難聴が露呈する。だからこそ、私は自らの心拍を「絶対テンポ(インナー・メトロノーム)」で一定に保ち、喉の筋肉の震えを視覚的にセルフコントロールしながら、最小限の言葉だけを紡ぐのだ。
高級リムジンに揺られ、私たちが到着したのは、東京ミッドタウンの最上階に位置するプライベートサロンだった。
桐生財閥が運営する、選ばれた超一流の会員しか立ち入ることを許されない排他的な聖域。重厚な扉が開かれた瞬間、私の視野はきらびやかな色彩の嵐に包まれた。豪華なシャンデリアの光、最高級のシャンパンがグラスに注がれる微細な泡の動き、そして着飾った上流階級の男女が交わす、偽りに満ちた社交の微笑み。
音が聞こえない私にとって、この空間は無音のサイレント映画だった。だが、私は「読唇・感情スキャン」をフル稼働させ、周囲の人間たちの口元の動きと、肩の緊張度を瞬時に読み取っていく。
「あの女が、星野弦の娘か……」
「三年前の事故で終わったはずの神童を、蓮様がわざわざ拾い上げたらしい」
「所詮は、桐生総帥のお気に入りの『愛人』にすぎないわ」
彼らの唇が紡ぐ、棘を含んだ囁きが私の脳内で文字となって浮かんでは消える。私は裸足ではない。ドレスの裾から覗くヒールは、床からの振動を遮断している。だが、私の「絶対テンポ」は、彼らの冷ややかな視線と囁きの中でも、正確に一分間に百二十の拍動を刻み、私の精神を氷のように冷徹に保ち続けていた。
その時、人混みが割れ、一人の女性が私たちに向かって歩み寄ってきた。
九条麗香。二十八歳。政界の黒幕を父に持ち、自身も世界的ピアニストとして名を馳せる、蓮の「許嫁」とされる令嬢。最高級のブランドドレスを完璧に着こなし、冷ややかな美貌を湛えた彼女は、まさにこの社交界の女王だった。
麗香の鋭い瞳が、蓮の隣に立つ私を捉えた。その瞬間、彼女の美しい唇が、歪んだ嘲笑の形を形作った。
「お珍しいことですわね、蓮。そんな『泥棒猫』のようなお飾りを、わざわざ桐生家の神聖なサロンに連れてこられるなんて」
麗香の口の動きは、極めて優雅でありながら、刃のように鋭利だった。彼女は私の正面に立ち、値踏みするように私の全身を凝視した。そして、私の首元で鈍い光を放つプラチナ製のチョーカーに、細い指先を伸ばしてきた。
「まあ、そのお労しい首輪は一体何かしら? まるで、見苦しい傷跡を隠すための哀れな犬の首輪のようですわ。耳が聞こえないだけでなく、首元に醜い傷まで負っているなんて、本当に可哀想な人」
麗香の言葉は、私の耳には届かない。だが、彼女の指先がチョーカーの金属面に触れた瞬間、私の中に激しい嫌悪感が走った。私は「マスカレード・フェイス」を維持したまま、一歩も引かずに彼女の瞳を見つめ返した。
「九条さん。私のタクトは、首元の傷ではなく、楽員の魂を動かすためのものですわ」
私は、心拍数をテンポ六十まで落とし、極限まで静かに、しかし凛とした声で言い返した。
麗香は私の反論に一瞬だけ目を見開いたが、すぐに冷酷な笑みを取り戻した。彼女は蓮に向き直り、サロンに集まるスポンサーたちに聞こえるように、あえて大きな口の動きで宣言した。
「蓮、現実を見なさい。耳の聞こえない指揮者など、クラシック界への冒涜よ。我が九条グループは、そのようなペテン師が指揮を執る『東洋交響楽団』に対し、一円の支援も行わないことを決定いたしました。年間三億円のスポンサー資金は、今夜をもって完全に凍結いたします」
凍結――。
その瞬間、周囲のスポンサーや役員たちの表情が一斉に強張るのが見えた。彼らは私を避け、冷ややかな視線を向けて一歩後退していく。楽団の年間運営費の生命線である三億円が失われれば、東洋交響楽団は即座に破産する。真田雅之が仕組んだ、政治的・経済的な抹殺の罠が、麗香の口を通じて実行されたのだ。
私は自らの音楽的尊厳を守るため、そして楽団の崩壊を防ぐために、自ら言葉を発して麗香に反論しようとした。
「楽団の価値は、スポンサーの都合で決まるものでは――」
しかし、私が次の言葉を紡ごうとした瞬間、私の腰を、鉄の万力のような強い力が引き寄せた。
蓮だ。
彼の逞しい腕が、私のドレス越しに腰を強く抱き寄せ、私の発言を物理的に封じ込めた。ここで私が感情的に声を荒らげれば、発声のピッチが乱れ、難聴の事実が衆人環視の前で完全に証明されてしまう。蓮はそれを防ぐため、そして私を自らの支配下に留め置くために、私の口を塞いだのだ。
蓮の体温が、私の背中に伝わってくる。それは、守護という名の、逃れられない恐怖の感触だった。
「麗香。私の前で、私の所有物をこれ以上侮辱することは許さない」
蓮の唇が、冷酷な絶対零度の形を刻んだ。
その瞬間、蓮は片手に持っていた最高級のクリスタルグラスを、指先の握力だけで「パキィン!」と粉々に握り潰した。
ガラスが砕け散る鋭い振動が、サロンの床を通じて私の足に伝わり、私の視野の中で「鋭利な赤と金色の閃光」となって弾けた。サロン全体が、一瞬にして凍りついたような静寂に包まれる。麗香も、周囲のスポンサーたちも、蓮の突発的な、しかし完璧にコントロールされた狂気に息を呑んだ。
蓮の手の平から、一筋の赤い血が流れ落ち、寄木張りの床にシミを作っていく。だが、彼はその痛みすら感じていないかのように、冷徹な微笑みを浮かべた。
「九条の資金など、最初から不要だ」
蓮は秘書の黒木を視線だけで呼び寄せ、冷酷に命令を下した。
「黒木、今夜中に私の個人資産の口座から、東洋交響楽団へ三億円を即座に送金しろ。これより、あの楽団は桐生財閥の完全なプライベートオーケストラとなる。九条グループの息がかかったスポンサーは、すべて今夜中に排除しろ」
「かしこまりました、蓮様」
黒木は無表情に一礼し、スマートフォンの画面を操作し始めた。
麗香の顔が、屈辱と驚愕で青ざめていく。彼女は蓮の、常軌を逸した財力と、私に対する「狂気的な守護」の前に、自らの政治的カードが完全に粉砕されたことを悟ったのだ。
「蓮……あなた、正気なの? そんな耳の聞こえない女一人のために、九条家との関係を破綻させるというの?」
「麗香。一つ忠告しておく」
蓮は傷ついた手の平を麗香の目の前に突き出し、冷酷に唇を動かした。
「君たちが我がグループのメインバンクである『帝都中央銀行』の株式を買い増そうとしていることは知っている。明日、我が桐生グループは、九条グループのメインバンクの株式を市場で買い占め、君たちの資金調達ルートを完全に遮断する。私に逆らうことが、どのような破滅を意味するか、父親によく聞いておくがいい」
それは、一国の経済をも揺るがしかねない、企業買収という名の「金の支配(桐生蓮の権力)」によるカウンターだった。麗香は唇を激しく震わせ、蓮の圧倒的な威圧感の前に、一言も返せないまま、屈辱にまみれてサロンから立ち去っていった。
周囲のスポンサーたちが、嵐が去った後のように、私たちに向かって深々と頭を下げていく。だが、私の心の中には、勝利の歓喜など一滴も存在しなかった。
蓮が個人資産から三億円を即座に補填したこと。それは、楽団が救われたことを意味すると同時に、私が蓮に対する経済的・法的な債務を、さらに三億円分上乗せされたことを意味していた。私は、彼の「歪んだ守護」という名の金の鎖によって、より深く、逃れられない奈落の底へと引きずり込まれたのだ。
サロンの隅のバルコニーへと連れ出された私は、夜風にドレスをはためかせながら立っていた。
蓮が私の背後から近づき、私の首元にあるプラチナ製のチョーカーに、彼の血に汚れた指先をそっと這わせた。生暖かい血の感触が、私の喉元の皮膚にへばりつく。
「かなで。君の指揮台は、私が一生守ってやる。誰にも君を奪わせはしない」
骨伝導レシーバーから伝わる彼の声は、甘美で、そして背筋が凍るほど冷酷だった。
「君を失うくらいなら、私は財閥すら捨てる」
蓮の唇が、私の耳元でそう囁くのを、私は読唇術と彼の胸の鼓動の振動から、確かに感じ取った。
私は、彼の胸にそっと顔を埋め、完璧な「マスカレード・フェイス」の微笑みを浮かべた。
(溺れなさい、蓮。あなたが私に溺れ、すべてを失うその日まで……私はあなたの完璧な人形でいてあげる)
私をはねた事故の犯人が、この男であるという「最悪の真実」を暴き、彼を奈落へ突き落とするその日まで。私の復讐のタクトは、この歪んだ檻の中で、静かに牙を研ぎ続ける。
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