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仕組まれた罠、冷徹なるタクト

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鎌倉の竹林が残した静寂は、東京の喧騒と冷たい雨によって一瞬でかき消された。


東洋交響楽団の第一リハーサル室。そこは、かつて私を拒絶した古参楽員たちも戻り、異様な熱気と冷ややかな緊張感が同居する空間へと変貌していた。伝説の老指揮者・滝川惣介が私を「弟子」として認めたという噂は、またたく間に楽壇を駆け巡り、楽員たちの私を見る目に微かな、しかし確実な変化をもたらしていた。侮蔑の奥に、無視できない畏怖が混ざり始めている。


だが、指揮台の傍らに立つ副指揮者、真田雅之の瞳だけは違っていた。神経質そうな細いフレームの眼鏡の奥で、その蛇のような瞳は、私の喉元に固く施錠されたプラチナ製チョーカーを執拗に値踏みしている。


「耳が聞こえないだけでなく、声も出せない不具者」


真田は未だにそう確信している。前回のリハーサルで私が一言も発さず、ただ眼光とタクトだけで楽団を従わせたことを、彼は「喋ることすらできないからだ」と歪んで解釈していた。そして今日、彼は私を完全に引きずり下ろすための、より卑劣な物理的サボタージュを用意していた。


私は周囲の視線を無視し、静かに指揮台へと歩み寄った。漆黒のタキシードの裾を微かに揺らし、室内用のヒールを脱ぎ捨てる。素足が、冷たい「東洋交響楽団特製・吸音寄木床材」に直接触れた瞬間、私の全身の神経が鋭く研ぎ澄まされた。これこそが、私の「足裏の耳(ソール・レゾナンス)」だ。靴という遮蔽物を取り除くことで、床下から伝わる楽器の微細な振動を、直接脳の聴覚野へと送り届ける。鎌倉の防音地下室で、己の鼓動と耳鳴りだけを頼りに刻み続けた「絶対テンポ(インナー・メトロノーム)」が、私の心臓の奥でカチ、カチ、と正確な百二十の脈拍を刻み始める。


第一バイオリン首席の白石律が、楽器を構えながら私に無言の視線を送ってきた。その切れ味の鋭い瞳には、「いつでもいける」という共犯者としての確固たる意志が宿っている。


私は右手に父の形見である黒檀製の指揮棒を握りしめた。手の平に吸い付くような黒檀の重みが、指先に空気の微細な抵抗を伝えてくる。私はタクトを高く掲げた。リハーサル室の空気が、一瞬で氷結する。


曲目はチャイコフスキーの交響曲第五番、第四楽章。運命の不協和音から歓喜へと向かう、激しくドラマチックな名曲だ。


タクトを振り下ろした瞬間、私の視野に、鮮やかな「音の色彩」が広がった。コントラバスとチェロの重低音が、床を通じて私の足裏を震わせ、視野の下部に「深海の青」の美しい同心円状の波紋を描き出す。白石律率いるバイオリンセクションがそれに追随し、鋭い「金色の閃光」が暗闇の視野を切り裂いていく。音が聞こえなくても、私には見える。このオーケストラが今、どのような色彩と調和で鳴り響いているかが。


だが、演奏が中間部の最もダイナミックな展開へと差し掛かったその時、私の視野の色彩が、突如として血のような赤黒いノイズによって激しく歪んだ。


「――ドツンッ!!」


足裏を突き上げるような、不快で重苦しい振動のズレ。それは、本来あるべきタイミングから、正確に半拍遅れて放たれた打撃だった。


ティンパニだ。


真田の指示を受けた野心的な打楽器奏者、黒崎駿。彼はチャラついた笑みを押し殺しながら、意図的にテンポを半拍遅らせてティンパニを強打したのだ。オーケストラの骨格を支える打楽器のズレは、一瞬にして周囲の管楽器セクションに波及した。ホルンとトランペットが動揺し、演奏のテンポが走り始める。アンサンブルが崩壊しかけ、リハーサル室全体に不協和音の泥水が広がっていく。


(仕組んできたわね、真田……!)


私は指揮台の上で、全神経を「読唇・感情スキャン」へと集中させた。十メートル先でティンパニを構える黒崎の顔を射抜くように凝視する。彼の右肩の筋肉が、収縮するタイミング。そして、その口元が微かに歪み、指揮台の横に立つ真田と「ニヤリ」と視線を交わした瞬間を、私は絶対に見逃さなかった。


真田は腕を組み、眼鏡の奥の瞳をギラつかせながら、私の表情を凝視している。音が聞こえない私が、このテンポのズレに気づかずに指揮を振り続け、自滅する瞬間を今か今かと待ち望んでいるのだ。


だが、私の脳内にあるインナー・クロックは、一ミリ秒の狂いもなく百二十のテンポを維持し続けていた。私は「真田のトラップ回避プロトコル」を発動した。動揺する管楽器セクションを一切見ず、視線を白石律だけに固定する。律は私の意図を瞬時に察知し、自らのバイオリンの弓を大きく、力強く引いて、オケ全体のテンポを私の絶対テンポへと強引に引き戻そうとボーイングを誇張した。


しかし、黒崎はさらにテンポを乱そうと、不規則なリズムでティンパニを連打し始める。これ以上演奏を続ければ、楽団全体の信頼関係すら崩壊する。


私は、右手に握った黒檀の指揮棒を、胸の高さでピタリと制止させた。


「無音の支配(サイレント・フリーズ)」――。


私の鋭い眼光が、黒崎の瞳を真っ直ぐに射抜くと同時に、タクトの風圧が完全に静止した。その張り詰めた「静寂の威圧感」は、まるで物理的な氷の壁となってリハーサル室全体に降り注いだ。私の圧倒的なカリスマの前に、楽員たちは吸い込まれるように演奏をピタリと停止させた。不協和音の嵐が消え去り、部屋は心臓の鼓動すら聞こえそうなほどの、息詰まる無音の深淵へと沈んだ。


静寂の中、私は指揮台からゆっくりと降りた。靴を履いていない私の足音は、寄木張りの床に一切の音を立てない。その「音のない足音」こそが、楽員たちにとって何よりも不気味な恐怖の旋律となって響いていた。


私は黒崎駿の譜面台の前まで歩み寄り、彼を冷徹に見下ろした。黒崎は私の射抜くような眼光に気圧され、額から冷や汗を流しながら、言い訳をしようと唇を動かした。その口の動きを、私はスローモーションのように読み取る。


「す、すみません、星野指揮者……。ペダルと機材の調子が急に悪くなって、どうしてもテンポがズレてしまって……」


見え透いた嘘。黒崎は、音が聞こえない私には「機材の不調」と言い訳すれば誤魔化せると思っているのだ。


私は無言のまま、右手の黒檀製指揮棒を黒崎の目の前で鋭く一閃させた。ヒュッ、という鋭い風切り音が彼の鼻先をかすめ、黒崎が恐怖で肩をすくめる。私は、彼が言い訳を終えてから正確に「一点五秒」の間を置いた。そして、極限まで低く、凍りつくような静かな声で、黒崎の言い訳を完璧な論理で粉砕した。


「機材の不調ではないわ、黒崎くん。あなたの右肩の三角筋が収縮するタイミングは、私のタクトから正確に〇・三秒遅れていた。あなたは意図的に、自分の意志でテンポを遅らせて叩いたのよ。私の楽団で、二度と不快なノイズを立てないで」


その低く、しかし凛とした声は、リハーサル室の隅々にまで冷徹に響き渡った。黒崎は、音が聞こえないはずの指揮者が、自分の「筋肉の動き」をミリ単位で観察し、サボタージュを完全に見抜いていたことに恐怖し、言葉を失って狼狽した。


私はゆっくりと振り返り、青ざめて立ち尽くしている真田雅之を、冷ややかな瞳で凝視した。

HẾT CHƯƠNG

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