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血塗られた真実の端緒

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第一リハーサル室の重厚な防音扉が閉まった瞬間、私の世界は再び完全な無音の深淵へと沈んだ。白石律が私の耳元で囁いた言葉――「あなたの指揮には、耳のいらない完璧な美しさがある」――その言葉の残響だけが、私の視野の奥で銀色の光の粒子となって揺らめいている。


「はぁ、はぁ……っ……」


誰もいない廊下を歩きながら、私は壁に手を突いた。極限の集中が解けた途端、こめかみを太い針で突き刺すような激しい偏頭痛が襲いかかる。裸足で冷たい寄木張りの指揮台を踏みしめ、全身の骨と筋肉でオーケストラの振動を感じ取り続けた代償だ。耳の裏に埋め込まれた骨伝導レシーバーからは、ザーという不快なホワイトノイズが脳神経を直接削るように鳴り響いている。私は首元に施錠されたプラチナ製チョーカーを冷たい指先で弄り、呼吸を整えた。この「金の檻」の中で、私はまだ指揮者として立っていられる。それだけが、今の私を支える唯一の酸素だった。


常任指揮者専用の「第一控え室」の前に辿り着き、鍵を開けて中に入る。しかし、安らぎを求めて入ったその部屋には、すでに先客がいた。


ソファに深く腰掛け、室内の禁煙ルールなど無視して細い煙草を燻らせている女。派手なメイクで隠しきれない肌の衰えと、これみよがしに置かれたブランド物の下品なバッグ。私の義母、星野冴子だった。


冴子は私が部屋に入ってきたことに気づくと、唇を歪めて卑屈で邪悪な笑みを浮かべた。私は無言のままドアを閉め、彼女の正面に立った。私の世界には音がない。だからこそ、私は彼女の唇の動きを、飢えた猛獣のように凝視する。


「やっと戻ったかい、かなで。大したもんだねえ、耳が聞こえない不具者のくせに、よくもまああんな大層な指揮台に立てるもんだ」


冴子の唇が、私を嘲笑うように動く。私は声を出さない。自分の声のピッチが狂うのを防ぐため、そしてこの醜悪な女に私の動揺を悟らせないために、完璧な「マスカレード・フェイス(欺瞞の微笑)」を貼り付ける。ただ、右手に握りしめた父の形見である黒檀製の指揮棒だけを、指先が白くなるほど強く握りしめていた。


冴子は煙草を灰皿に押し付けると、バッグから一通の封筒を取り出し、テーブルの上に叩きつけた。中から覗いたのは、私の難聴の噂が書き連ねられたゴシップ記事のゲラだった。


「週刊誌の知り合いがね、面白いネタを仕入れたって見せてくれたんだよ。かなで、お前が本当は一音も聴こえていないっていう確たる証拠をね。これが世間に出たらどうなるかい? 桐生財閥の支援も、その偉そうな指揮台も、一瞬で消えてなくなるんだよ」


冴子の唇が、金銭への異常な飢えを乗せて激しく動く。


「嫌なら、今すぐ一千万円用意しな。お前を囲ってるあの若い総帥にとっては、小銭みたいなもんだろう?」


私は怒りで奥歯を噛み締めた。声の出ない焦燥が胸を焦がす。私は冴子の口を塞ごうと、自ら手を伸ばしかけた。しかし、音が聞こえない私には、自分の行動がどれほどの雑音を立てているのか分からない。楽屋の外にいるスタッフに、この醜いやり取りを聞かれるわけにはいかない――その身体的な限界が、私の動きを一瞬だけ鈍らせた。


その隙を見逃さず、冴子はさらに一歩踏み込んできた。彼女の唇が、勝ち誇ったように歪む。


「そんなにあの男が怖いかい? 桐生蓮が聖人君子だとでも思ってるのかい? 笑わせるんじゃないよ。あいつはね、三年前の事故の直後、私に一億円の口止め料を支払ったんだよ!」


――一億円の、口止め料?


私の脳裏に、凄まじい衝撃が走った。カラー・シンセサイザーの視覚が真っ赤に染まり、視界が激しく歪む。蓮が私を救うために冴子の借金を肩代わりしたことは知っていた。だが、事故の直後に「一億円の口止め料」を支払っていた? なぜ、事故の隠蔽に桐生家が関わっているのだ?


「あいつはね、最初からお前の事故を――」


冴子がそれ以上の言葉を紡ごうとした瞬間、控え室の重厚な木製ドアが、凄まじい衝撃と共に蹴破られた。鍵がかかっていたはずのドアノブが引き千切れ、床に転がる。


入ってきたのは、屈強な体躯をした寡黙な男――蓮の専属ボディーガード、長谷川卓だった。彼の鋭い眼光が冴子を捉えた瞬間、部屋の温度が氷点下まで下がったかのような錯覚を覚えた。


「な、何よあんた……っ!」


冴子が悲鳴を上げる間もなく、長谷川は一瞬で距離を詰め、彼女の細い腕を背後に捻り上げた。関節がミキミキと軋む物理的な痛みが、冴子の表情を苦悶に歪ませる。長谷川は感情を一切見せない冷徹な声で、しかし的確に冴子に宣告した。その唇の動きは、私にもはっきりと読み取れた。


「星野冴子。これ以上かなで様に接触すれば、桐生アートファンデーションから支給されている星野芽衣の奨学金を即座に剥奪する。さらに、あなたの残りの債務を、荒木興業の最も容赦のない部署に引き渡す。これは総帥からの直接の警告だ」


芽衣の名を出された瞬間、冴子の顔から血の気が引いた。彼女にとって、私の妹である芽衣は、桐生家から金を搾り取るための人質であると同時に、自らの破滅を防ぐ最後の防壁だったのだ。長谷川の暴力的なまでの威圧感の前に、強欲な吸血鬼は完全に沈黙した。


「出て行け」


長谷川が腕を放すと、冴子は床に無様に転がった。彼女は這うようにしてバッグを拾い上げ、長谷川の冷酷な視線に怯えながらドアへと向かう。しかし、部屋から引きずり出されるその刹那、冴子は私を振り返り、狂気的な憎悪を瞳に宿して、喉を引き裂くようにして絶叫した。


「かなで! 騙されるんじゃないよ! お前をはねたあのトラックの運転手・松井はね、とっくに刑期を終えて、今じゃ蓮の関連会社で雇われてるんだよ! あいつがお前の耳を――!」


バタン、と凄まじい音を立ててドアが閉められた。長谷川が冴子を完全に楽屋から排除し、通路の向こうへと連行していったのだ。部屋には、再び絶対的な無音の静寂が戻ってきた。


私は指揮台から降りたばかりの素足で、冷たい床の上に立ち尽くしていた。


頭の中が、真っ白なノイズで埋め尽くされている。冴子が去り際に放った言葉が、鋭利なガラスの破片となって、私の胸の奥深くに突き刺さっていた。


松井健治。三年前の雨の夜、私のヨーロッパ行きを控えた前夜に、隅田川沿いの濡れたアスファルトの上で、私をトラックではねて聴力を奪った男。私の人生のすべてを破壊した、あのひき逃げの実行犯。


その男が、すでに刑期を終え、蓮の関連会社で雇われている?


偶然であるはずがなかった。蓮は、私が事故に遭った直後、まるで待ち構えていたかのように世界最高峰の医療チームを引き連れて病院に現れた。そして、絶望の底にいた私に「無条件の支援」を申し出、この首元のチョーカーと、骨伝導レシーバーという名の美しき檻を与えた。


もし、あの事故そのものが、蓮によって仕組まれたものだったとしたら?


私がヨーロッパへ旅立ち、彼の元から永遠に去ってしまうのを防ぐために。私の指揮者としての翼をもぎ取り、自分の手元に一生縛り付けるために、彼があの雨の夜の惨劇を裏で演出したのだとしたら――。


「あ……、あ……」


喉の奥から、声にならない悲鳴が漏れそうになる。私は首元のプラチナ製チョーカーを両手で強く締め付けた。冷たい金属の感触が、皮膚を通じて私の指先に蓮の体温を思い出させる。今まで「救済の温もり」だと信じていたその感触が、一瞬にして、私の肉体を蝕む冷酷な「毒」へと変貌していくのを感じた。


その日の夕方、私は黒い送迎車に揺られ、六本木の超高級ペントハウスへと戻った。


全面防音の、美しく静まり返ったリビング。窓の外には、東京のきらびやかな夜景が広がっているが、私にとってはただの金の鳥籠にすぎない。ソファに腰掛けていた桐生蓮が、私が部屋に入ってきたことに気づき、ゆっくりと立ち上がった。


完璧に仕立てられたスリーピーススーツ。冷徹な美貌に、すべてを見透かすような支配的な眼差し。彼は無言で私に近づき、私の細い肩をその長い腕で優しく抱き寄せた。彼の胸から伝わる、規則的で静かな鼓動の振動。それは、かつて私を絶望から救い出してくれた、唯一の安心のメトロノームだったはずだった。


蓮の冷たい指先が、私の首元のチョーカーにそっと触れ、その鍵を確かめるように愛撫する。彼は私の耳元に顔を寄せ、その唇を優しく動かした。


「おかえり、かなで。今日のリハーサルは素晴らしかったと、黒木から聞いた。君はやはり、私の手元でこそ最も美しく輝く」


彼の唇の動きを読み取りながら、私は完璧な「欺瞞の微笑(マスカレード・フェイス)」をその顔に貼り付けた。彼の胸に顔を埋め、従順な人形のように身を委ねる。


しかし、私の心は、完全に氷結していた。


この男は、私を奈落の底から救い出してくれた唯一の救済者なのか。

それとも、私の翼をもぎ取り、この無音の地獄へと突き落とした、血塗られた悪魔なのか。


抱擁の最中、私の脳裏には、父の遺した古いメトロノームの針の動きが、復讐への秒読みを開始する不気味なリズムとなって、静かに、しかし確かに鳴り響き始めていた。

HẾT CHƯƠNG

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