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楽壇の洗礼、裸足の指揮台

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翌朝、重い防音扉の向こうから連れ出された私は、桐生蓮の用意した黒いセダンに揺られていた。首元を締め付けるプラチナ製のチョーカーは、冷たい皮膚の一部のように馴染みつつあり、耳の裏に埋め込まれた骨伝導レシーバーは、常にサーという微細な電子のホワイトノイズを私の脳に送り届けている。鼓膜を通さないその音の幻影は、私が「聞こえている」ように偽装するための欺瞞の鎧。しかしそれは、蓮の許可なしには一秒たりとも維持できない、依存の鎖そのものだった。


「東洋交響楽団」


正面玄関に掲げられた、格式高い金文字の看板を見上げた瞬間、私の胸の奥で冷たい火花が散った。かつて世界的なバイオリニストだった亡き父・星野弦が何度もそのステージに立ち、喝采を浴びた名門楽団。だが今や財政難に陥り、桐生財閥の完全な支配下に入った場所。そして、私が常任指揮者として再起を遂げ、蓮への復讐を果たすための、最初の戦場だった。


一歩、建物の中へ足を踏み入れる。私の耳には、周囲の喧騒も、床を叩く足音も届かない。レシーバーが拾う電子的なノイズと、頭蓋骨を揺らす不快な金属音だけが脳を支配している。だが、私の目は死んでいない。通路を歩きながら、私は周囲の楽員たちに「読唇・感情スキャン」を稼働させた。


すれ違う楽員たちの口元が、スローモーションのように動く。


「おい、あれが例の……事故で潰れたはずの『悲劇の神童』か?」

「桐生代表の個人的な『お気に入り』らしいぞ。ただのお飾り指揮者さ」

「耳が聞こえないって噂、本当なのか? 不具者の操り人形に指揮をされるなんて、楽団への冒涜だ」


かつて首席オーボエだった長浜たちが、冷ややかな視線を投げかけながら、通路の隅で卑屈な笑みを浮かべている。彼らの肩の緊張度、口元の歪み。そこに宿る剥き出しの悪意と嫉妬が、視覚情報として私の脳を直接殴りつける。私は首元のプラチナチョーカーをそっと指先でなぞった。皮膚に食い込む冷たい金属の感触が、私に冷徹な現実を思い出させる。


私は、彼らの侮蔑に言葉で応じることはしない。ここで声を発すれば、自分の聴覚フィードバックがないため、声のピッチやトーンが微妙に乱れるリスクがある。それは、周囲に難聴の事実を自ら暴露するようなものだ。私はただ、顎をわずかに上げ、冷徹な仮面――マスカレード・フェイスを崩さずに、第一リハーサル室の重厚な二重扉を押し開けた。


扉の向こうに広がっていたのは、静寂だった。いや、物理的な静寂ではない。がらんとした、異常なまでに人の少ない空間。


通常なら約八十名がひしめき合っているはずの、歴史ある第一リハーサル室。しかし、そこに座っているのは、わずか十数名の若手楽員だけだった。譜面台は寂しく並び、チェロやコントラバス、管楽器のセクションは完全に無人だった。


「これが楽員たちの意思だ、星野指揮者」


指揮台の傍らに、腕を組んで立っている男がいた。副指揮者の真田雅之。二十九歳。学閥「東音会」の代表格であり、私の就任によって常任指揮者の座を奪われた男だ。彼の神経質そうな細いフレームの眼鏡の奥で、蛇のような瞳が怪しく光っている。彼が私に向かって歩み寄り、唇を歪めて言葉を吐き出した。その口の動きを、私は冷徹に読み取る。


「東音会に属する古参の楽員たちは、君のような『事故上がりの不具者』の指揮など受け入れられないとリハーサルをボイコットした。人数不足で演奏は不可能だ。今すぐ常任指揮者を降りるべきだ。君が辞任しなければ、私は理事会への更迭進言を強行する」


真田の言葉には、確信犯的な悪意が満ちていた。彼は私が「耳が聞こえないこと」を疑っており、この揺さぶりで私のパニックを誘発させようとしているのだ。私が言葉を発しないことを、彼は「喋れないのではないか」という新たな疑惑の目で値踏みしている。


私は言葉を返さず、ただ無言のまま、冷ややかな眼光で真田の瞳を射抜いた。緊迫した沈黙が部屋を支配し、若手楽員たちが息を呑むのが空気の震えで伝わってくる。


「声も出ないのか? やはり、噂通り耳が死んでいるから、自分の声のコントロールすらできないわけだ」


真田が冷笑を浮かべ、さらに一歩踏み込んでくる。その時、静寂を破るように、一本のバイオリンの弦が鋭く鳴り響いた。


「指揮者が指揮台に立つなら、私は弾く」


第一バイオリンの首席席に座っていた若者が、静かに立ち上がった。コンサートマスターの白石律。切れ味の鋭い瞳と、しなやかな指先を持つ美しい若きコンマス。彼は真田の挑発的な視線を平然と受け流し、バイオリンを肩に当てた。


「真田副指揮者。人数が足りなかろうが、第一バイオリン首席がここにいる。アンサンブルは成立する。それとも、あなたは指揮者がタクトを振る前に、敵前逃亡を勧めるつもりですか?」


律の言葉に、真田の顔が屈辱でわずかに歪んだ。学閥の力を背景に持つ真田であっても、楽団の精神的支柱であるコンサートマスターの言葉を無視することはできない。私は律を見つめた。彼は私を救うために発言したのではない。ただ、純粋に「音楽家としての品格」を試しているのだ。私という指揮者が、この孤立無援の指揮台でどう振る舞うのかを。


私は静かに、指揮台へと歩みを進めた。


このリハーサル室の床は、桐生蓮が私のために極秘に施工させた「東洋交響楽団特製・吸音寄木床材」だった。低周波の振動を逃がさず、指揮台に集中させるための特殊な木材。私は指揮台の前に立ち、自らの黒いヒールを見つめた。革の靴底とストッキング。それらは、床から伝わる微細な振動を遮断する「ノイズ」に過ぎない。


私は躊躇うことなく、右足のヒールを脱ぎ捨てた。続いて左足。さらに、肌を覆うストッキングを指先で静かに引き裂き、完全に素足になった。


リハーサル室に、息を呑むような微細な空気が走った。裸足で立つという異様な規律――「裸足の接地規律(アース・ルール)」を見せた私に、若手楽員たちは困惑と畏敬の混ざった目を向け、真田は眉をひそめて言葉を失った。


私は周囲の視線を一切無視し、裸足で、冷たい木の指揮台の上に直接足の裏を密着させた。


その瞬間、世界が変わった。


冷たい木肌を通じて、白石律がバイオリンを構える瞬間の衣服の微細な摩擦、若手楽員たちの張り詰めた呼吸、そして部屋全体の空気の揺らぎが、足の裏の皮膚感覚――「足裏の耳(ソール・レゾナンス)」を通じて、私の背骨を駆け上がり、脳の聴覚野へと直接流れ込んできた。


(聴こえる……。音が、床の震えとして、私の肉体に満ちていく)


私は右手に、父の形見である黒檀製の指揮棒を握りしめた。鉛の仕込まれた重厚なタクトが、私の指先に空気の微細な抵抗を伝える。私は、白石律の胸元に視線を固定した。彼の呼吸の上下動、弓を当てる角度。一切の言葉を排除した、無音の支配。私はタクトを高く掲げ、律が弓を弦に当てる最初の一撃に、全神経を集中させた。

HẾT CHƯƠNG

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