麗しき檻と不協和音
高級リムジンの重いドアが閉まった瞬間、世界から一切の音が消失した。下北沢のボロアパートから連れ去られた私は、ただ車の微細なエンジンの振動だけを腰のあたりに感じながら、六本木にそびえ立つ超高層マンションの最上階へと運ばれた。
「六本木の超高級ペントハウス」
そこが、桐生蓮が私に与えた新しい牢獄の価値だった。エレベーターを降り、二重の指紋認証付きの重厚な扉が開いた先に広がっていたのは、大理石の床と全面ガラス張りのリビング。窓の向こうには、宝石をぶちまけたような東京の夜景が広がっている。しかし、そのきらびやかさは、私にとってただの冷徹な記号に過ぎなかった。窓は一枚たりとも開かず、外気すら入らない。ここは、完璧に密閉された防音の鳥籠だ。
「星野様。桐生代表の指示により、お荷物を確認させていただきます」
私の前に立ちふさがったのは、髪をきっちりとまとめた初老の女性だった。蓮が用意した専属ハウスキーパー、佐藤芳子。彼女の無表情な唇が、機械的に動く。私の読唇術は、彼女の冷淡な言葉を正確に翻訳した。
彼女は私の返事を待つことなく、私が下北沢から持ってきた古びたバッグから、液晶の割れたスマートフォンを取り出した。そして、それを金属製のトレイの上にそっと置く。
「外部との通信はすべて、この部屋の管理システムを通じて制限されます。個人的なご連絡は一切お控えください」
「……妹の、芽衣との連絡もですか?」
私は自分の声のピッチが狂わないよう、喉の震えを指先で確認しながら、できるだけ冷淡に問いかけた。しかし、佐藤芳子はただ一瞬、軽蔑とも同情ともつかない視線を私の首元の傷跡に向けただけで、無言のままスマートフォンを持ち去ってしまった。リビングの固定電話の受話器を上げようとしたが、ダイヤルした瞬間に回線が切れる電子的な感触が指先に伝わってきた。完璧な通信遮断。私は完全に、この「金の鳥籠」に隔離されたのだ。
私はリビングの奥にある、防音仕様の重い防音扉を開けた。そこは、蓮が私のために用意したという専用の練習室だった。
部屋の中央には、漆黒の光沢を放つ最高級スタインウェイのグランドピアノが鎮座していた。その圧倒的な存在感に、私は息を呑む。音が聞こえなくなってから、私は楽器に触れることすら恐れていた。しかし、今の私には、失われた「絶対テンポ」と身体感覚を取り戻すことだけが、生き残るための唯一の道だった。
私は室内用のヒールを脱ぎ捨て、裸足になった。冷たい寄木張りの床の感触が、足の裏から直接脳へと伝わってくる。スタインウェイに近づき、その冷徹な鍵盤にそっと指先を触れた。そして、体重をかけて重厚な低音の鍵盤を一つ、深く押し下げる。
鼓膜には何も届かない。キーンという脳内の金属音ノイズが、その沈黙を嘲笑うように鳴り響くだけだ。
しかし、指先から、そしてペダルを踏みしめた右足の裏から、ピアノの筐体全体が震える「低周波のうねり」が、津波のように私の身体に流れ込んできた。木と弦が共鳴し、空気を動かす物理的なエネルギー。それは、音が「振動」という皮膚感覚として、私の肉体に再定義された瞬間だった。
(聴こえる……皮膚が、骨が、このスタインウェイの声を聴いている)
私は狂ったように鍵盤を叩き始めた。ラフマニノフ、ベートーヴェン、ショパン。頭の中にあるスコアを脳内で3D立体再現しながら、その打鍵が床を伝って足裏に届く振動のパターンを脳に記憶させていく。これこそが、滝川惣介から授かるべき「目で、身体で音を聴く」ための、孤独なマッピング訓練の始まりだった。テンポ120、テンポ60……。自らの鼓動とピアノの振動を同期させようと、全神経を研ぎ澄ます。どれほどの時間が経っただろうか。
突如、床の振動のパターンが変わった。
規則的で、静かで、圧倒的な支配力を持った足音。ドアが開く風圧が、私の背中の皮膚を冷たく撫でた。振り返る必要はなかった。私の視野の端に、漆黒のスーツを着こなした男の影が投影されたからだ。
桐生蓮。深夜に帰宅した彼は、防音室の入り口に立ち、汗ばんでピアノにしがみついている私を、冷ややかな、しかし異常なまでに熱を帯びた瞳で見つめていた。
彼は音もなく私に近づき、背後から私の身体を包み込むように影を落とした。彼の長い指先が、私の濡れた黒髪をそっとかき分け、首元に触れる。事故の際の気管切開の生々しい傷跡。その凸凹とした皮膚をなぞる彼の指先は、氷のように冷たく、私の背骨に鳥肌を立たせた。私は恐怖で身体を硬直させたが、彼はそれを楽しむように、さらに深く指を這わせる。
「美しいな、奏。音を失っても、君の指先はこれほど激しく木を震わせる」
彼の唇の動きが、私の視野の隅で動く。私は声を絞り出そうとしたが、彼の指が私の喉元を優しく圧迫し、それを制した。蓮は懐から、眩いプラチナの光沢を放つチョーカーを取り出した。それは、パリのジュエラーに特注したという、極小の鍵穴が付いた「支配の首輪」だった。
「君のその醜い傷跡は、私以外の誰にも見せる必要はない。君のすべては、私の管理下にあるのだから」
「……やめて」
私が拒絶しようと身をよじった瞬間、蓮の指先に冷酷な力がこもった。首元が締め上げられ、呼吸が詰まる。彼は私の耳元に顔を寄せ、読唇術すら不要なほど、その冷たい眼差しで私の魂を射抜いた。彼の唇がゆっくりと動く。
「忘れるな、奏。君の妹、芽衣の来期の学費と生活費の送金ボタンは、私の指先一つにかかっている。君が私の人形でいる限り、彼女は完璧に保護される」
芽衣の名を出された瞬間、私のすべての抵抗力が指先から抜け落ちた。私は屈辱に震えながら、ただ目を見開いて彼を見つめることしかできなかった。蓮は満足そうにかすかな微笑を浮かべ、私の首元にプラチナのチョーカーを巻き付けた。冷たい金属が皮膚に密着し、気管切開の傷跡を完璧に覆い隠す。「カチリ」という、施錠の重い金属的な振動が、私の首の骨を通じて脳にダイレクトに響き渡った。鍵は、蓮の細い指先の手の中に消えた。
「よくできたな、私の小鳥」
蓮が合図を送ると、防音室の影から秘書の黒木賢治が静かに一歩前へ出た。黒木は完璧な黒スーツを着用し、いつものように感情を排した表情を崩さなかったが、私の首元のチョーカーと、形見の指揮棒を握りしめる私の指先を見た瞬間、ほんの一瞬だけ、痛みに耐えるように目を伏せた。その不自然な視線の回避を、私は見逃さなかった。彼は何かを知っている。この事故の、もみ消しの裏側を。
しかし、黒木はすぐに事務的な態度に戻り、蓮の前に一つの極小の金属ケースを提示した。蓮はそのケースを開け、中に収められた、髪の毛ほどの極細のワイヤーが付いた小さなデバイスを取り出した。
「隠しマイクロ骨伝導レシーバー」
「これが君の新しい耳だ、奏。耳の裏の骨にこれを密着させれば、鼓膜を介さずに音が脳へ届く。明日からの東洋交響楽団でのリハーサルで、君が『聞こえている』ように偽装するための欺瞞の鎧だ」
黒木が、レシーバーに特製の高容量リチウム電池を挿入する。それは、週に一度、黒木からしか支給されない、私を蓮に肉体的に依存させるための「命のバッテリー」だった。
蓮の手によって、私の耳の裏のインプラント磁石にレシーバーが装着された。その瞬間――。
脳内で、キーンという激しい金属音の不協和音が爆発した。それと同時に、サーという奇妙な電子のホワイトノイズが、私の脳の聴覚野を強引に揺さぶり始める。三年ぶりに私の脳が捉えた、物理的な「音」の幻影。それは、美しくも恐ろしい、機械的な世界の産声だった。
「聴こえるか、奏」
蓮の唇が動くと同時に、私の脳裏に、彼の声が砂嵐の混じった不気味な電子音となって響き渡った。それは彼が私に与えた、彼の許可なしには一秒たりとも維持できない、歪んだ救済の始まりだった。
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