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深夜のサントリーホール、沈黙の同盟

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深夜三時。東京・赤坂に佇むサントリーホールは、大いなる沈黙の底に沈んでいた。


昼間の華やかな喝采も、重厚なパイプオルガンの残響も、今はすべてが消え去っている。ただ、巨大な木造の葡萄棚を思わせる客席が、暗闇の中で息を潜めるようにステージを取り囲んでいた。


その静寂の聖域に、私は音もなく足を踏み入れた。


「……高橋さん、ありがとうございます」


私は声を出す代わりに、小さく頭を下げた。ステージの袖口に立っていたのは、作業着を着こなした初老の男性――舞台監督の高橋健太だった。彼は私の亡き父、星野弦のステージを何度も支えてくれた、数少ない『過去の理解者』だ。蓮の監視網をかいくぐるため、奈津美の手を借りて深夜の脱出を試みた私に、彼は何も聞かずにホールの裏口の鍵を開けてくれたのだ。


「気にするな、かなでちゃん。弦さんの娘がここで復帰するんだ。このくらいの手伝いは、あの世の弦さんへの義理立てさ。だが……時間は一時間が限界だ。守衛の交代があるからな」


高橋の唇の動きを、私は読唇術で正確に捉えた。私は無言で深く頷き、暗いステージの中央へと歩み出た。


首元を覆うプラチナ製のチョーカーが、冷たく皮膚を締め付けている。そのチョーカーのすぐ上、髪に隠れた首の後ろには、一ノ瀬舞医師によって打たれた「高用量メコバラミン注射液」の赤い針跡が残っていた。薬効はまだ私の脳神経を支配しており、慢性的で激しい偏頭痛を完全に麻痺させている。しかし、その代償として、私の感覚は異常なまでに過敏になっていた。


私はステージの中央、指揮台が置かれるべき位置に立ち、黒いパンプスを静かに脱ぎ捨てた。


タイツも脱ぎ、素足になる。冷たい、しかしどこか温もりを秘めたアラスカヒバの床材が、私の足裏の皮膚に直接触れた。


私はその場にゆっくりと膝を突き、やがて床の上に横たわった。これが、引退した伝説の指揮者・滝川惣介から伝授された過酷な空間把握技術――「ホール床面残響・足裏マッピング法」だった。


目を閉じ、世界のすべての『音』を遮断する。耳の裏の骨伝導レシーバーの電源は、あえて切っていた。今の私には、機械の電子音すらノイズでしかない。


素肌を床に密着させたまま、私は全身の神経を足裏と背骨に集中させた。


じっと待つ。すると、静寂の奥から、ホールの『呼吸』が物理的な振動となって私の肉体に流れ込んできた。


ゴゴゴ……という、ビル全体の空調システムが発する超低周波の地響き。地下深くを通過する地下鉄の微細な震え。そして、誰もいない二千の客席から跳ね返ってくる、空気の微弱な対流の圧力。


(……ここが、音の集約点)


私は脳内で、サントリーホールのステージの床面をグリッド状にマッピングしていった。どの位置にチェロが座り、どの位置にコントラバスが位置するか。彼らが奏でる低音が、床の木目を伝って指揮台に届くまでのミリ秒単位の伝達速度と、壁から跳ね返る残響の角度。耳の聞こえない私が、本番中に音が遅れて聞こえる「音響の空白」に惑わされないため、ホールの物理的特性を身体に直接叩き込むのだ。


どれほどの時間が経っただろうか。突然、床面を伝わる振動のパターンが変化した。


規則的で、しなやかで、迷いのない足音。それは、寄木張りの床を滑るようにして、私に向かって近づいてきた。私は目を開け、ゆっくりと上体を起こした。


暗闇の向こうから、一人の青年が歩み寄ってくる。切れ味の鋭い瞳と、しなやかな指先。東洋交響楽団のコンサートマスターであり、私の難聴を看破しながらも「共犯者」となることを誓った男――白石律だった。


彼はバイオリンケースを手にしていた。私と目が合うと、彼は言葉を発することなく、ただ静かに一礼した。音が聞こえない私に対する、彼なりの最大の敬意と配慮だった。


律はケースから、使い込まれたオールド・バイオリンを取り出した。そして、懐から重厚な金属製の器具を取り出し、バイオリンの駒(ブリッジ)へと慎重に装着した。


「白石 律のバイオリン用「銀製消音器(ミュート)」」――。


それを取り付けた瞬間、バイオリンの空気への音響伝達は極限まで抑え込まれる。しかし、代わりに弦と弓が擦れ合う物理的な「摩擦の振動」は、駒を通じて楽器の筐体、そして床へとダイレクトに増幅されて伝わるのだ。


律はバイオリンを肩に当て、弓を構えた。彼の瞳が、暗闇の中で私の目を真っ直ぐに見つめる。


『音を出さずに、私に指示を出してください』


彼の唇が、音のない言葉を紡いだ。私は静かに立ち上がり、形見の黒檀製指揮棒を右手に握りしめた。裸足のまま、即席の指揮台となる床を踏みしめる。ここからは、言葉も、機械も、一切の欺瞞も介さない、二人の魂の対話だった。


私はタクトを掲げ、目を閉じた。脳内の「絶対テンポ(インナー・メトロノーム)」が、正確にテンポ百八(アレグロ・コン・ブリオ)を刻み始める。


すう、と息を吸い込む。私の胸の上下動(ブレス)に、律の肩の筋肉が完全に同期した。次の瞬間、私は右手首を鋭くしならせ、黒檀の指揮棒を振り下ろした。


シュッ、という微かな風切り音。それが、私の放った「指揮棒の風圧シグナル(タクト・ウインド)」だった。


鋭い空気の渦が、律の頬を正確に撫でる。彼はその風圧の速度だけで、私が求めた完璧なテンポを瞬時に理解した。彼の右腕が動き、弓が弦に押し当てられる。


キィ、という、耳栓を突き抜けるような極小の擦過音。しかし、私の足裏には、それとは比較にならないほどの巨大な「振動の波」が床を通じて津波のように押し寄せてきた。


(――きたわ!)


ベートーヴェン交響曲第五番「運命」の、冒頭のあのモチーフ。


ジャジャジャジャーン――。


音としては一音も聞こえない。しかし、私の視野には、床からの重厚な低周波振動が「カラー・シンセサイザー(共感覚)」の色彩となって鮮やかに弾けた。深い、深海の青のような同心円状の波紋が床から立ち上り、律の弓が描く「銀色の光の軌跡」と空中で激しく交差する。


私はタクトを休めることなく、左手で次のフレーズを指示した。律のバイオリンは消音器によって囁きのような音しか立てていないはずなのに、私の脳内には、サントリーホールの空間全体がフルオーケストラの金色の残響で満たされていく完璧な3Dシミュレーションが広がっていた。


律の弓の角度、その引きの強さ、そして彼の胸元から立ち上る「呼吸の糸」が、私のタクトの先端と見えない線で結ばれている。私たちは、完全な絶対無音の空間の中で、一ミリ秒の狂いもなくベートーヴェンの「運命」を演奏し、同調し合っていた。


(聞こえる。あなたのバイオリンの鼓動が、私の骨を震わせている……!)


私はタクトを振り続け、律もまた、自らの魂を削るようにして弓を滑らせた。それは、桐生蓮という絶対的な支配者が用意した「金の檻」に対する、私たちの静かな、しかし最も過激な反逆の同盟だった。もし本番で、真田の仕掛ける罠によって骨伝導デバイスが破壊され、完全な無音の奈落に突き落とされたとしても――この白石律の「同調の弓」さえあれば、私は指揮を通しきることができる。その絶対的なバックアップ体制が、この深夜の暗闇の中で、血の滲むようなアンサンブルを経て完成しつつあった。


最後の音が、床の微細な震えとなって収束していく。私はタクトを静かに止め、胸を激しく上下させた。


額から一筋の汗が流れ、首元のチョーカーを濡らす。脳神経が過熱し、こめかみに微かな拍動の痛みが戻りかけていたが、私の胸は、かつてない芸術的な充足感で満たされていた。


律はバイオリンをゆっくりと下ろし、肩の力を抜いた。彼は無言のまま、私の裸足の足元を見つめ、それから私の目を凝視した。


「完璧です、星野指揮者」


彼の唇の動きが、私の脳に直接、震えるような信頼の言葉として届いた。私たちは言葉を交わすことなく、固い握手を交わした。彼の指先の温もりが、冷え切った私の手に熱を灯す。


「戻りましょう。これ以上は危険です」


高橋の合図を伝えるように、律が合図を送った。私はパンプスを履き、チョーカーの位置を直して、形見の指揮棒をバッグに収めた。私たちは深夜のホールの裏口へと向かい、静かにその場を後にした。


重厚な防音扉が、カチリと冷たい音を立てて閉じる。


しかし――。


二人が去った直後の、暗闇に包まれたサントリーホールの天井裏。


ステージのはるか真上、数十メートルの高さに架けられた鉄製の「キャットウォーク」の隙間から、一台のカメラの超望遠レンズが、静かに引っ込められた。


カシャリ――。


無音の闇の中に、極小の、しかし決定的なシャッターの駆動音と、冷酷な電子の残響が、不気味に響き渡っていた。

HẾT CHƯƠNG

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