静寂の底、金の鎖
世界から「音」という名の色彩が剥ぎ取られて、丸三年が経とうとしていた。
東京、下北沢。築四十年を超える木造ボロアパートの片隅で、私は膝を抱えていた。薄暗い六畳間に響くものは何もない。いや、私の脳内には、絶えず「キーン」という不快な金属音の耳鳴りだけが真っ赤なノイズとなって渦巻いている。音が消えたのではない。世界が、私を拒絶して沈黙したのだ。
手元にあるのは、亡き父・星野弦の形見である黒檀製の指揮棒だけ。かつて、この棒一本でオーケストラを支配し、無数の音の色彩を操っていた自分が嘘のようだった。あの雨の夜のひき逃げ事故が、私の鼓膜を、指揮者としての未来を、そして人生のすべてを叩き潰した。
「絶望の静寂(パニック・サイレンス)」――音が聞こえないという底なしの恐怖は、日を追うごとに私の精神を蝕み、今や一小節のテンポすら脳内で維持できなくなっている。自死の二文字が頭をよぎった、その時だった。
床板から、微細な「振動」が伝わってきた。
規則的で、容赦のない、重い革靴の響き。一人ではない。複数。義母の冴子が千鳥足で帰ってきた時の乱雑な揺れとは明らかに違う。直感的に、身体が危険を察知して強張った。
安物の鍵が、暴力的な力によって内側から弾け飛ぶ。錆びた鉄の扉が開き、雨の冷気と共に、黒いスーツを纏った男たちが狭い部屋に踏み込んできた。その中心に立つ男を目にした瞬間、私の呼吸は完全に凍りついた。
桐生蓮。日本の政財界を裏から牛耳る桐生コンツェルンの若き総帥。仕立ての良い漆黒のスーツ、冷徹な美貌、そして獲物を品定めするような支配的な眼差し。彼の佇まいは、この薄汚れたアパートの空気そのものを凍結させるほどの圧倒的な威圧感を放っていた。
私は声を失ったまま、父の指揮棒を強く握りしめて立ち上がった。彼らに私の「障害」を悟られてはならない。耳が聞こえない指揮者など、この世界ではただの廃棄物だ。私は全神経を彼の「唇の動き」に集中させた。留学時代から死に物狂いで叩き込んだ読唇術だけが、今の私の唯一の耳だった。
蓮の薄い唇が、静かに、そして冷酷に動く。
「無様なものだな、星野奏。かつての神童が、このような泥の中で息を潜めているとは」
私は声を聴き取ることはできない。だが、彼の唇の形から、その傲慢な言葉が脳内に直接再生された。私は乾いた喉を震わせ、自分の声のピッチが狂っていないことを祈りながら、極めて冷淡に問い返した。
「何の用ですか、桐生さん。私のような引退した人間に、あなたのような大富豪が何の御用でしょう」
蓮はかすかに目を細めた。私の声が、彼の予想よりも凛としていたからだろうか。彼は無言で傍らに立つ有能な秘書・黒木に視線を送った。黒木が静かに一歩前へ出、ローテーブルの上に一束の書類を叩きつけるように置いた。
そこにあったのは、見覚えのある、しかし最悪の数字が記された紙片だった。
「義母冴子の借用書(総額5000万円)」
私の心臓が、ドクンと激しく跳ね上がった。tatamiを通じてその鼓動の振動が全身に響くようだった。冴子がパチンコとホスト狂いで作ったヤミ金の借金。その債権者が、いつの間にか桐生グループの傘下にある「荒木興業」に書き換えられている。
「冴子は逃げた。だが、この債務の連帯保証人には、お前の名が記されている。そして……」
蓮は懐から一枚の写真を取り出し、借用書の上に重ねた。私の視野が、一瞬で血の気が引くように白くなった。写真に写っていたのは、私の唯一の家族であり、血の繋がらない純粋な妹・星野芽衣の姿だった。彼女が高校の校門を出る瞬間、その後ろには、荒木興業の男たちが乗る黒いセダンが不気味に待ち伏せしている。
「お前の可愛い妹、芽衣はどうなるかな。5000万の代償として、ヤミ金の連中が彼女をどこへ連れて行こうか、今この瞬間も思案している」
彼の唇の動きを読み取った瞬間、私の頭の中で何かが千切れる音がした。怒りと恐怖で全身が震える。私は蓮に掴みかかろうとしたが、屈強なボディーガード、長谷川に一瞬で両腕を組み伏せられた。冷たいコンクリートのような力。抵抗すら許されない。
「警察に……通報する」
私が絞り出した声に、蓮は心底退屈そうに首を振った。彼の唇が動く。
「警察か? この地区の担当刑事である遠藤は、すでに我がグループの『友人』だ。お前の通報など、握りつぶされるだけだ。星野奏、お前に逃げ道など最初から存在しない」
絶対的な権力。国家権力すらも彼の金の前にひざまずいている。私は絶望の深淵に叩き落とされた。耳が聞こえず、金もなく、守るべき妹の命すら握られている。これが、桐生蓮という男の「救済」の正体なのか。
蓮は私に近づき、床に膝をついて、私の目線にその冷徹な顔を合わせた。彼の細い指先が、私の首元にそっと触れる。事故の際の気管切開の生々しい傷跡。その傷をなぞる彼の指先は、凍りつくように冷たかったが、奇妙なほどに優しくもあった。その二面性に、私は生理的な恐怖を覚えた。
「だが、私はお前に選択肢を与えに来た」
黒木が、もう一枚の書類を私の前に提示した。そこには、金色の文字でこう記されていた。
「桐生蓮との『無条件支援契約書』」
「お前の全医療費、冴子の借金5000万円の肩代わり、そして『東洋交響楽団』の常任指揮者の座。お前が望むすべてを私が与えよう。お前は再び、あの光り輝く指揮台に立つことができる」
信じられない言葉だった。音が聞こえない私に、プロのオーケストラを指揮しろと言うのか。それは罠だ。私を公衆の面前で恥晒しにするための、悪趣味なゲームに違いない。
「代償は……何ですか」
私が唇を噛み締めながら問うと、蓮は私の顎を強引に掴み上げ、自らの漆黒の瞳に私の視線を固定した。彼の唇が、ゆっくりと、呪いのように動く。
「お前の私生活、身体、そしてお前が生み出す音楽のすべてを、私の管理下に置くことだ。お前は私の所有物となり、私の金の鳥籠の中でだけ歌う小鳥となる。お前の音楽は、私だけのものだ」
耳元で囁かれたわけではない。だが、彼の強い視線と、顎を掴む手の熱量を通じて、その言葉が私の魂に直接刻み込まれた。契約書は、美しく輝く金の鎖だった。サインをすれば、私は一生、この男の操り人形として生きることになる。
だが、拒絶すれば、芽衣の未来は今夜中に破壊される。そして、私はこの薄汚れたアパートで、音のない絶望に溺れて死ぬだけだ。
(私は……まだ死ねない。もう一度、あの指揮台の上で、世界のすべての音を支配するまでは。そして、私からすべてを奪ったこの運命に、復讐するまでは)
私は、長谷川に解放された右腕を震わせながら、ペンを握った。契約書の署名欄に、自らの名前「星野奏」を血の混じったインクで書き込む。ペン先が紙を削る微細な振動が、指先を通じて私の脳に伝わってきた。それは、私が人間としての自由を捨て、悪魔に魂を売った瞬間だった。
蓮は満足そうにかすかな微笑を浮かべ、私の署名が入った契約書を回収した。彼は立ち上がり、私を見下ろしながら、冷酷な命令を下した。
「荷物は不要だ。黒木、彼女を車へ」
私はボディーガードたちに囲まれ、下北沢の古いアパートから連れ出された。外は激しい雨が降っていた。冷たい雨粒が私の頬を叩くが、その音すらも私には聞こえない。
黒い高級リムジンの後部座席に押し込まれ、ドアが重く閉まった瞬間、世界は再び完全な「無音の深淵」へと戻った。車窓から遠ざかっていく下北沢の街並み。私は、自分がどこへ運ばれていくのかを知っていた。
六本木。東京の夜空にそびえ立つ、桐生蓮の牙城。そこは、私を一生閉じ込めるための、外部との連絡を一切遮断された「金の鳥籠」だった。車が静かに走り出す。私の足元には、すでに逃れられない金の鎖が、冷たく、重く絡みついていた。
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