毒針の狂犬
黒鉄街の地下闘技場、その薄暗い選手控室の空気は、湿った土と鉄錆の臭いに満ちていた。壁の松明がパチパチと音を立てて揺れるたび、不二(ふじ)の影が歪に伸び縮みする。
「不二、本当に、本当に行くのか……?」
背後で、同期の殴られ役である鉄平(てっぺい)が、今にも泣き出しそうな声で問いかけてきた。彼の両手は泥にまみれ、自らの犯した裏切り――不二の薬湯に筋肉麻痺毒を混入させたという罪悪感に、全身を激しく震わせている。
「気にするな、鉄平。お前の妹は、源次が必ず安全な場所へ逃がしてくれる」
不二は静かに振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。その声には、一切の恨みも怒りも含まれていない。しかし、不二の肉体は、すでに金蔵(かねぞう)の放った遅効性の筋肉麻痺毒によって、内側から確実に蝕まれ始めていた。
喉の奥から食道、そして全身の経絡へと広がる、凍りつくような冷気。指先が微かに痺れ、自らの意志に反して筋肉が強張る。両足首に嵌められた片足二十キロの『鉄造の鉄の足枷』が、いつもの数倍もの鉛のような重さとなって、不二の肉体を地面へと縫い留めていた。自ら気を練ることのできない『空の丹田』は、毒を排斥するための内功を持たない。毒素は抵抗を受けることなく、不二の太い経絡を静かに、確実に凍らせていく。
「時間だ。出てこい、泥人形!」
鉄格子の扉の向こうから、監視員の骸骨が冷酷な声を張り上げた。不二は深く息を吸い込み、強張る身体を強引に動かして歩き出した。一歩進むたび、鉄の足枷が「重く、鈍い音」を泥床に響かせる。控室の隅では、病弱な妹サクラが、兄の無事を祈るように、胸元の真鍮の首飾りを握りしめて震えていた。
地下闘技場のリングへと続く薄暗い通路を抜けると、そこは狂気と熱狂が渦巻く巨大な空洞だった。すり鉢状の観客席からは、数千人の観客が飢えた獣のような歓声を上げている。
「おい、今日のサンドバッグは動きが妙に遅いぞ!」
「おいおい、ハヤテに切り刻まれて、もう限界なんじゃないか?」
不二の異変は、観客の目にも明らかだった。足取りは鈍く、関節の動きはどこかぎこちない。リングの上、審判の片岡(かたおか)が冷ややかな目で不二を見下ろし、その奥の特等席では、興行主の金蔵が脂ぎった顔に卑劣な笑みを浮かべて、不二の死を確信していた。
そして、対角線上に立つ対戦相手が、不気味な笑い声を上げてリングの床を踏み鳴らした。
「ヒヒッ……。噂の『不倒の盾』が、ずいぶんと無様な姿だな。まるで死にかけの木偶人形だ」
男の名は――『狂犬の牙次郎(がじろう)』。
猫背の体躯に、鋭く剥き出しになった犬歯。その両手には、毒々しい緑色の液体が滴る『五毒の鉄爪』が装着されていた。爪の先からは、触れただけで肉を腐らせる腐食毒の刺激臭が漂っている。牙次郎は不二の強張った立ち姿を一目見ただけで、金蔵の仕込み毒が完璧に効いていることを察知した。
「俺の『狂犬牙功』は、ただの打撃じゃねえ。この鉄爪で、お前のその頑丈な経絡を一本残らず引き裂き、なぶり殺してやるよ!」
カーン、と死合開始の鐘が激しく鳴り響いた。
その瞬間、牙次郎の姿が獣のように低く沈み込み、凄まじい速度で突進してきた。彼は正面から打撃を放つのではなく、不二の死角へと回り込みながら、緑色に光る鉄爪を容赦なく振り下ろした。
「死ねぇ!」
シュウッ! と空気を切り裂く音が響く。不二は筋肉の麻痺により、ハヤテ戦で培った大地の振動感知が僅かに遅れた。回避は間に合わない。鉄爪が不二の左腕を浅く切り裂き、腐食毒が皮膚を焼く。
「ぐっ……!」
激しい激痛が走る。だが、不二は瞬時に『痛覚一時遮断法』を脳内で起動した。氷水に全身を浸すかのような冷徹な精神統一により、神経を伝う激痛の信号を強引に遮断する。瞳から一切の感情が消え、不二の眼差しは完全な無機質へと変化した。
(左腕の経絡、三割が麻痺。だが、骨は無傷。敵の気の動きは――)
牙次郎は不二が悲鳴を上げないことに苛立ち、さらに速度を上げて連続の切り裂きを繰り出してきた。胸、肩、脇腹。不二のボロボロの麻衣が次々と裂け、赤い血と緑の毒液が混ざり合って飛び散る。通常の『呼吸同期』で衝撃を吸収しようとするが、麻痺毒のせいで呼吸の伸縮がコンマ数秒ズレてしまう。吸収しきれなかった爪の風圧が不二の肺を圧迫し、内臓が微細な出血を起こして口元から血が漏れ出た。
「ヒャハハ! どうした、防ぐこともできねえか! ただの肉の塊だな!」
牙次郎は勝ちを確信し、狂ったように笑いながら、不二をリングの端へと追い詰めていく。観客席からは、不二の惨めな姿に怒号と嘲笑が浴びせられていた。金蔵は立ち上がり、我が世の春を謳歌するように杯を掲げている。
だが、不二は諦めていなかった。痛覚を遮断した脳内で、彼は冷徹に計算を続けていた。
(牙次郎の爪は、打撃ではなく『斬撃』。まともに受ければ経絡が引き裂かれる。だが、彼が最後の一撃を放つ瞬間、必ず全体重を乗せた『突き』に変化する。そこが――死点だ)
不二はあえて、じりじりと後退し、自らが完全に追い詰められたように演じた。麻痺した脚を引きずり、鉄の足枷を重く響かせる。その姿は、誰の目から見ても、死を待つだけのサンドバッグだった。
「これで終わりだ、泥人形! その喉笛を掻き切ってやる!」
牙次郎が大きく跳躍し、全体重と全内功を右手の鉄爪に集中させた。狙いは不二の喉元。これまでの『切り裂き』から、一点を貫く致命の『突き』へと、彼の攻撃ベクトルが変化した。物理的な最大エネルギーが、不二に向かって一直線に収束する。
不二の瞳が、暗闇の中で静かに光った。
(来た――)
着弾のコンマ一秒前、不二は『骨格スライド』を起動した。肩関節と鎖骨を意図的に脱臼させるように僅かにスライドさせ、喉元への直撃をミリ単位で回避。同時に、氷晶の包帯が巻かれた右手の平を、牙次郎の突き出された鉄爪の正面へと正確に割り込ませた。
ガギィィン!
肉体と金属が衝突したとは思えない、凄まじい金属共鳴音がリング全体に響き渡った。不二の全身の骨格が一本の鉄柱のように連動し、牙次郎の全体重を乗せた突進エネルギーを100%受け止める。
「な、何だと……!?」
牙次郎の顔が驚愕に染まる。完全に麻痺して動けないはずの不二の身体が、一ミリも揺らぐことなく、自らの全力を正面から受け止めたのだ。
その瞬間、不二は体内で眠らせていた『空の丹田』を逆流させた。これまでに体内に蓄積されていた筋肉麻痺毒、そして今、牙次郎の爪から侵入した腐食毒。それらすべての毒素を、牙次郎から受け取った強烈な物理衝撃の反作用と同期させる。
「――『汗腺還流法(かんせんかんりゅうほう)』」
不二が静かに呼吸を吐き出した瞬間、彼の全身の毛穴が強制的に一斉に開放された。
プシューッ!!!
凄まじい音と共に、不二の全身から、漆黒に濁った毒血の霧が、衝撃波の暴風となって一気に噴き出した。それは、不二の肉体を蝕んでいた麻痺毒と、牙次郎の腐食毒が、2倍の物理破壊力を帯びて合算された「死の霧」だった。
「ぎゃあぁぁぁっ!?」
至近距離でその直撃を受けた牙次郎は、自らが放った以上の凄まじい反作用によって、右腕の骨を内側から爆砕された。それだけではない。不二の毛穴から噴き出した黒い毒霧が、牙次郎の顔面と全身の皮膚を包み込む。さらに、不二が『双倍反射』で跳ね返した衝撃波が、牙次郎の右手の鉄爪を押し戻し、彼の自身の指を逆方向にへし折りながら、その鋭い爪を彼自身の胸元の秘孔へと深く突き刺した。
「あ、が……あ、あぁぁっ!」
牙次郎は白目を剥き、自らの鉄爪が秘孔に刺さったまま、リングの上に崩れ落ちた。彼の全身の皮膚が、自らの超高濃度腐食毒によって一瞬にして黒く変色し、激しい痙攣を起こしながら泥床の上でのたうち回る。
自らの毒と、自らの力によって、狂犬は完全に自滅したのだ。
静まり返る闘技場。観客たちは、何が起きたのか理解できず、ただ黒い霧の中に無傷(むきず)で立ち続ける不二の姿を、恐怖に満ちた目で見つめていた。不二の全身の毛穴からは、毒素が完全に洗い流され、澄んだ皮膚が月光に照らされて微かに光っていた。
「ば、馬鹿な……! 牙次郎が、自らの毒で……!?」
特等席の金蔵が、持っていた杯を取り落とし、ガタガタと震えながら立ち上がった。完璧だったはずの毒殺計画が、目の前の少年の「不気味な反射」によって、完全に粉砕されたのだ。
金蔵の顔が、恐怖から激しい怒りと焦燥へと歪んでいく。この化け物を生かしておけば、自らの利権も、黒鉄会の支配もすべて崩壊する。
「お、おい! 衛兵を呼べ! 大河原(おおかわら)を動かせ! この暴徒を、今すぐここで抹殺するんだ!」
金蔵が狂ったように叫び、リングの周囲の暗闇から、鉄の鎧を纏い、重い得物を持った「辺境衛兵隊」の影が、不気味に動き出し始めた。不二は、激しい過負荷で軋む四肢を支えながら、迫り来る新たな公的権力の脅威を、ただ静かに見つめていた。
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