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毒と裏切り

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黒鉄街の地下闘技場を揺るがした、疾風のハヤテとの死闘。その熱狂の余韻が冷めやらぬ闇夜、不二(ふじ)は錆びたトタン屋根の廃鍛冶小屋へと帰り着いていた。勝利の代償は、彼の肉体に深く、重く刻まれていた。


「ごほっ、ごほっ……!」


 不二は胸を押さえ、激しく咳き込んだ。口の端から赤黒い血が泥床へと滴り落ちる。ハヤテの放った神速の三連撃を『蓄積許容量・二段』の経絡で受け止め、倍加して跳ね返したものの、その衝撃波の残滓は不二の体内で暴れ回っていた。右肩の骨には蜘蛛の巣のような微細なヒビが走り、左肋骨の亀裂は呼吸をするたびに肺を圧迫する。全身の経絡が過熱し、まるで内臓が沸騰しているかのような熱が彼を苛んでいた。


「兄様……! また血が……」


 薄暗い部屋の隅、粗末な藁布団の上から、妹のサクラが青白い顔を半分起こして悲痛な声を上げた。彼女の胸元で、亡き母の形見である真鍮の首飾りが微かに揺れる。経絡枯渇症の発作は、おトキの薬湯によって一時的に落ち着いているものの、彼女の細い呼吸はいつ途切れてもおかしくないほど弱々しかった。


「心配ない、サクラ。いつものことだ」


 不二は痛む肋骨を庇いながら、優しく微笑んだ。そして、懐からおトキの薬舗で仕入れた黒い生薬――『粗悪な鉄骨薬湯』を取り出した。ヒビの入った骨を急速に修復するためには、この強烈に苦い煎じ薬がどうしても必要だった。


 不二が土竈に火を起こし、大釜に水を張って薬草を投げ入れようとしたその時、大破した木製の扉が、泥を孕んだ夜風と共に小さく軋んだ。


 滑り込んできたのは、一人の少年だった。痩せこけ、全身に無数の古い殴られ傷を刻んだ十七歳の少年――鉄平(てっぺい)だ。不二と同時にこの地獄の闘技場に売り落とされ、共に「動くサンドバッグ」として酷使されてきた同期の男だった。


 だが、今の鉄平の様子は明らかに異常だった。その瞳は恐怖と卑屈な焦燥に濁り、薬草を包む手を小刻みに震わせている。額からは、冷たい脂汗がだらだらと流れ落ちていた。


「ふ、不二……身体の具合は、どうだ?」


 鉄平はかすれた声で問いかけ、不二の顔をまともに見ようとせず、土竈の上の大釜へと視線を泳がせた。その呼吸は異常に浅く、心臓の鼓動が不自然なほど速く脈打っているのが、耳を澄まさずとも不二には伝わってきた。


「骨が少し軋むだけだ。鉄平、こんな夜更けにどうしたんだ?」


「あ、いや……お前がハヤテとの死合で酷い傷を負ったって聞いたからよ。おトキの婆さんから手に入れた薬草を煎じるんだろ? 俺に手伝わせてくれ。お前は座って休んでろよ」


 鉄平は這うようにして土竈へと近寄り、不二の手から『粗悪な鉄骨薬湯』の包みを半ば強引に奪い取った。そして、釜の湯の中に薬草を放り込み、棒でかき混ぜ始める。その背中は、まるで見えない刃物を突きつけられているかのように、ピンと不自然に張り詰めていた。


 不二は、ただ静かに鉄平の背中を見つめていた。彼の「空の丹田」は、周囲の気の揺らぎに対して極めて敏感だった。鉄平が懐から何かを取り出し、大釜の湯の中に素早く落とした瞬間、大気の中に一筋の「異質な冷気」が混ざり合うのを、不二の鋭敏な感覚は逃さなかった。


 湯気と共に立ち上る、不自然に甘く、粘り気のある死の臭い。それは薬草の苦味とは明らかに異なる、経絡を麻痺させるための遅効性の筋肉麻痺毒――金蔵(かねぞう)が裏社会から調達した、卑劣な暗殺薬の気配だった。


 不二の脳裏に、数時間前の出来事が蘇る。ハヤテを自滅させた不二に恐怖した興行主・金蔵が、裏の手段を囁いていた姿。そして、鉄平の唯一の肉親である幼い妹が、金蔵の部下たちによって拉致されたというスラムの噂。


(そうか……。鉄平、お前は……)


 不二はすべてを悟った。鉄平は嫉妬や悪意で毒を盛ったのではない。妹の命を人質に取られ、金蔵の非道な命令に屈せざるを得なかったのだ。弱者ゆえの、泥臭く、引き裂かれるような裏切り。


「……鉄平」


 不二が静かに名前を呼ぶと、鉄平の肩がびくりと跳ね上がった。かき混ぜる棒が、大釜の縁に当たって甲高い音を立てる。


「な、なんだよ、不二……。もうすぐ、薬湯が沸くからよ……」


「お前の妹は、どこにいる?」


 その静かな一言は、鉄平の張り詰めていた精神の糸を、一瞬で叩き切った。


「え……?」


 鉄平は振り返り、幽霊でも見たかのように目を見開いた。その顔から完全に血の気が引き、持っていた棒が泥床へと転がり落ちる。


「なぜ、それを……。いや、俺は、何も……!」


「鉄平。お前の呼吸の乱れ、そしてその薬湯から立ち上る毒の匂い。隠す必要はない。金蔵に、何を脅された?」


 不二の澄んだ瞳が、まっすぐに鉄平の絶望を見つめていた。そこには、裏切られたことへの怒りも、憎しみも、一滴すら存在しなかった。ただ、すべてを受け入れる、深海のような静寂があるだけだった。


「あ、ああ……!」


 鉄平は膝から泥床へと崩れ落ちた。両顔を泥にまみれた手で覆い、獣のような慟哭を上げる。


「すまない、不二! すまない……! 金蔵の奴らが、妹の首に刃物を突きつけて……『不二の薬にこれを混ぜろ、さもなくば妹を細切れにする』って……! 俺には、他にどうしようもなかったんだ! 俺を、俺を殴り殺してくれ! お前を裏切った俺を、その拳で叩き潰してくれよ!」


 鉄平は不二の足元にすがりつき、ボロボロの麻衣を掴んで泣き叫んだ。同じ殴られ役として、不二が一度も拳を振るわずに立ち続けてきたこと、そして自分たちがどれほど無力な存在であるかを、誰よりも知っているからこその絶望だった。


 サクラが布団の上で息を呑み、小さな手を口に当てて震えていた。小屋の中に、鉄平のむせび泣く声だけが響き渡る。


 だが、不二は拳を握らなかった。養父・鉄造の遺訓「絶対に先に殴るな」は、彼の魂の奥底に刻まれた絶対の戒律だった。不二はだらりと下げた両手の包帯を見つめ、それから静かに腰を落とした。そして、泥にまみれて泣き崩れる鉄平の肩を、温かい両手で優しく抱き寄せた。


「お前が悪いんじゃない、鉄平」


 不二の声は、夜風のように穏やかだった。


「お前は妹を守りたかっただけだ。その心を、誰も責めることはできない。……俺も、同じだからな」


「不二……? なにを言って……逃げてくれ、金蔵の奴らは本気だ! お前がこの薬を飲まなきゃ、俺の妹は殺される、だけど、飲んだらお前は……!」


 不二は鉄平の言葉を遮るように、静かに首を振った。彼の頭脳は、極限の肉体的苦痛の中で、驚くほど冷徹に次の戦術を計算していた。


(ここで俺が毒を拒めば、金蔵は鉄平の妹を即座に殺すだろう。そして、俺が健康なままであれば、金蔵はさらに卑劣な手段でサクラを狙う。……ならば、あえて罠に堕ちるのが最善だ)


 不二には『空の丹田』があった。自ら気を練ることができない彼の肉体は、他者の気を受け流す「空の器」である。侵入した毒素や麻痺の気も、一時的に『痛覚一時遮断法』で脳への伝達を麻痺させ、次の死合の衝撃の反作用を利用して『汗腺還流法』で毛穴から一気に体外へ排出できる計算があった。肉体の崩壊を伴う綱渡り。だが、それこそが、誰も傷つけずに全員を救うための、唯一の「不倒の盾」の戦い方だった。


「兄様、だめ……! 飲まないで!」


 サクラが布団から身を乗り出し、掠れた声で叫んだ。だが、不二はサクラに向けて静かに微笑み、安心させるように頷いた。


「大丈夫だ、サクラ。兄様は絶対に倒れない」


 不二は大釜から、漆黒に濁り、毒々しい冷気を放つ『鉄骨薬湯』を器に汲み上げた。器を持つ両手は、ハヤテの衝撃の余波で激しく震えていたが、その瞳に迷いは一微塵もなかった。


 不二は、泣き叫ぶサクラの目の前で、そして驚愕に目を見開く鉄平の目の前で、その毒入りの薬湯を静かに口へと運び、一気に飲み干した。

HẾT CHƯƠNG

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