三連撃の罠
「なぜ、殴られても、殴り返さないのですか……?」
石炭の煤煙が低く垂れ込める裏山の絶壁。全身に重苦しい『鉛の錘』を食い込ませ、血を吐きながらも漆黒の巨岩に身体を打ち付け続けていた不二(ふじ)の背中に、震える声が投げかけられた。
振り返ると、そこにいたのは新太(しんた)だった。闘技場に売られてきたばかりの気弱な奴隷少年は、細い身体を夜風に震わせながら、不二の自虐的とも言える特訓を暗闇から見つめていた。その瞳には、恐怖と、それ以上の圧倒的な憧憬が宿っている。
「……先に手を出せば、それは暴力の螺旋に囚われるということだ」
不二は、鉛の錘の重圧で軋む関節を鳴らしながら、静かに息を整えた。
「養父が教えてくれた。暴力を放つ者は、いつか自らが放った暴力によって滅びる。俺はただの空の器。放たれた因果を受け止め、放った者へと返す盾に過ぎない」
不二は新太の前に歩み寄り、その細い胸元にそっと手の平を当てた。内功を持たない不二だが、その手の平は驚くほど温かい。
「息を吸う時に、己の身体を『空』にしろ。衝撃が来たら、それを押し返すのではなく、大地の底へと受け流すんだ。これが、生き残るための呼吸だ」
不二が授けた初歩の呼吸法。新太は涙を堪えながら、必死にその呼吸を胸に刻み込んだ。それが、この過酷な黒鉄街で、弱者が暴力に抗うための唯一の知恵であることを、直感的に理解したのだ。
そして――ハヤテとの再戦の夜が訪れた。
地下闘技場『黒鉄街』は、数千人の観客が放つ熱気と怒号で、割れんばかりに揺れていた。中央にそびえる鉄格子のリング。その周囲を取り囲む群衆の最前列で、賭け師の源次(げんじ)が不敵な笑みを浮かべ、不二の勝率を極限まで操作した裏の帳簿を握りしめている。上方の特等席からは、興行主の金蔵(かねぞう)が、脂ぎった顔を歪めて不二の死を確信した視線を送っていた。
リングに上がった不二は、特訓用の鉛の錘をすべて外していた。両足首に嵌められた片足二十キロの『鉄造の鉄の足枷』だけが、鈍い金属光を放っている。錘を外した不二の肉体は、驚くほど軽かった。大地の微細な振動、空気の揺らぎが、足裏を通じて脳裏へと鮮明に伝わってくる。
「おいおい、泥人形。前回の傷も癒えていないのに、よくもまあノロノロと這い出てきたな」
対角線上に立つ『疾風のハヤテ』が、緑色の軽装を翻して嘲笑した。彼の足元には、風の抵抗を無に帰す特殊な軽量ブーツが輝いている。ハヤテの全身から立ち上る『疾風脚功』の気は、前回の比ではない。彼は完全に不二を嬲り殺すつもりだった。
「その鈍重な身体じゃ、俺の影を踏むことすらできずに切り刻まれるぞ!」
カーン、と死合開始の鐘が鳴り響いた瞬間、ハヤテの姿がリングからかき消えた。
残像すら残さない超高速の移動。観客たちが息を呑む中、不二は目を閉じた。目で追っては間に合わない。不二が頼りにしたのは、特訓で研ぎ澄ませた足裏の感覚だった。木製のリングの床板を伝う、ハヤテが踏み込む微細な振動。そして、大気を切り裂く筋肉の軋み音。
(――右後方、上角!)
キィン、と風が鳴る。ハヤテの鋭い蹴りが、不二の死角から放たれた。不二は『不動の踏み込み』を起動し、両脚の筋肉を爆発的に緊張させて大地を掴んだ。着弾の瞬間、完璧に『呼吸同期』を合わせ、衝撃を吸い込む。
ドゴォッ!
重い衝撃音が響くが、不二は一歩も退かない。ハヤテの瞳に驚愕が走る。だが、ハヤテは即座に身体を捻り、空中から無限とも思える高速の連撃を繰り出した。
「これならどうだ! 三連撃!」
ハヤテの必殺の爪先が、残像を伴って不二の胸、左肩、右脇腹へと、コンマ数秒の間に同時に叩き込まれた。一撃、二撃、三撃。あまりの速さに、通常の衝撃吸収では追いつかない。
その瞬間、不二の体内で、かつてない経絡の変革が起きた。蓄積の経穴が強制的に拡張され、新たな境界――『蓄積許容量・二段(連撃限界)』へと達したのだ。不二の皮膚の下、胸、肩、脇腹の三つの秘孔が同時に赤黒く発光した。ハヤテが放った三つの巨大な物理エネルギーが、体内の異なる経穴へと分割され、一時的にホールドされる。不二の全身の血管が破裂寸前まで充血し、皮膚から白い蒸気が噴き出した。
「ぐ、あぁっ……!」
内臓が沸騰するような高熱と過負荷。不二の口から、鮮血が噴き出す。肩の骨には微細なヒビが入った。だが、不二は倒れない。彼は溜まりに溜まった余剰エネルギーを逃がすため、足首の鉄の足枷を激しく踏み鳴らした。――『地割れの踏み鳴らし』!
ズドォォォン!
不二の足元から、爆発的な衝撃波がリングの床へと突き抜けた。厚い木製の床板がクモの巣状に激しく裂け、周囲の埃や木屑が円状に吹き飛ぶ。闘技場全体が、まるで地震が起きたかのように激しく揺れた。観客席から、地鳴りのような悲鳴が上がる。
「な、何だと……!? 床を叩き割りやがった!」
ハヤテが着地したその一瞬。彼の呼吸の乱れ、三連撃を放ち終えた直後のわずかな静止――それこそが、不二が狙い澄ました『死点』だった。
「因果を……返す」
不二は、体内の三つの秘孔にホールドしていたハヤテ自身の三連撃の全エネルギーを、一気の一点へと集中させた。――『衝撃の波状蓄積』。
ハヤテが追撃のために再び不二の胸を蹴りつけたその瞬間、不二の肉体から、黄金色の衝撃波が爆発的に逆流した。ハヤテが放った三連撃の総量、その二倍(実質六倍)の物理破壊力が、ハヤテの蹴り足へと一直線に逆流していく。
グシャァッ!!!
闘技場に、肉と骨が爆砕する凄まじい破壊音が響き渡った。ハヤテの軽量ブーツが一瞬で消し飛び、彼の両脚の骨が内側から粉砕され、靭帯と腱が千切れ飛ぶ。血飛沫を上げながら、ハヤテの細い身体が鉄格子へと激しく叩きつけられた。
「ぎゃああああああああっっ!!!」
ハヤテは両脚を異常な角度に曲げ、血の海の中で悶絶しながら絶叫した。再起不能。自らの速度と威力によって、自らの脚を完全に爆砕されたのだ。
静まり返る闘技場。不二は、血に濡れた衣服を纏いながら、一歩も動かずに立ち尽くしていた。その瞳は、どこまでも澄んでいる。
特等席でそれを見つめていた金蔵の顔から、完全に血の気が引いていた。その脂ぎった額から冷や汗が流れ落ちる。彼は確信した。この怪物には、いかなる強力な闘士をぶつけても、自滅させられるだけだと。
「……おい」
金蔵は、背後に控える冷酷な部下たちを呼び寄せ、震える声で囁いた。
「もはや、公式の死合で奴を殺すことはできん。……裏の手段を使え。毒を盛るか、あるいは、あの病気の妹を……」
闘技場の狂騒の裏で、不二を抹殺するための卑劣な暗殺計画が、静かに動き出そうとしていた。
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