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刺客、疾風のごとく

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黒鉄街の夜は、肺を焼き焦がすような石炭の煤煙と、腐った泥の臭いに満ちている。


 不二(ふじ)は、割れた扉から吹き込む冷たい夜風を背に浴びながら、廃鍛冶小屋の薄暗い炉の横で、土鍋から立ち上る黒い湯気を見つめていた。おトキの薬舗から命懸けで持ち帰った『粗悪な鉄骨薬湯』が、ぐつぐつと不気味な音を立てて煮立っている。その強烈な苦みと金属に似た生臭い香りが、狭い小屋の中に充満していた。


「……あ、あに……さま……」


 布団の上で、サクラが再び激しく身を震わせ、喉の奥から乾いた喘鳴を漏らした。青白い肌には、まるで枯れ木の根のような細い経絡の筋が、黒ずんだ紫色となって浮き出ている。「経絡枯渇症」の急性発作――全身の気が枯れ果て、脈が内側から萎縮していく死の病が、十四歳の妹の小さな命を今まさに毟り取ろうとしていた。


「喋るな、サクラ。今、薬ができる」


 不二は土鍋を素手で掴み、粗末な木椀に注ぎ分けた。沸騰した熱湯が手の平の皮膚を焼くが、剛太との死合で麻痺した彼の痛覚は、その熱をただの鈍い刺激としてしか感知しない。不二はサクラの身体を優しく抱き起こし、その凍えるような唇に、黒い薬湯を少しずつ流し込んでいった。


「ごほっ……う、うぅ……!」


 強烈な苦みにサクラが顔を歪め、激しく咽せた。しかし、喉元を通り抜けた生薬の力が、彼女の縮み上がっていた経絡に一時的な生命力を補給していく。呼吸が徐々に平穏を取り戻し、肌に浮き出ていた紫色の筋が、ゆっくりと皮膚の奥へと沈んでいくのを見届けて、不二は静かに息を吐き出した。サクラは疲れ果てたように、不二の羽織の裾を握りしめたまま、深い眠りへと落ちていった。


「……すまない、サクラ。俺がもっと強ければ」


 不二は妹の首元に揺れる亡き母の形見――『真鍮の首飾り』に触れ、その冷たさに己の無力さを噛み締めた。剛太に勝利し、銀次郎への借金は返済した。だが、それは一時しのぎに過ぎない。サクラの病を根本から治すためには、中原の巨大都市『千華城』に眠る伝説の霊薬を手に入れねばならず、そのためには、この辺境を支配する興行主・金蔵(かねぞう)の包囲網を突破しなければならなかった。


 不二は自らの身体を点検した。剛太の『剛腕大鉄拳』を受け止めた右胸は赤黒く腫れ上がり、呼吸をするたびに、ヘアライン骨折を起こしている左肋骨が肺を突き刺すような激痛を訴える。さらに、足首に嵌められた片足二十キロの『鉄造の鉄の足枷』の周囲の皮膚は、衝撃を大地に逃がした際の摩擦熱で赤く爛れていた。内功を持たない彼の身体は、他者の暴力を受け止めるたびに、確実に内側から削り取られているのだ。


 その時、廃鍛冶小屋の周囲の空気が、不自然に冷え切った。


 風の音が消えた。いや、風そのものが、何者かの意志によって不気味に静止したかのような、異様な静寂が小屋を包み込む。不二は澄んだ瞳を僅かに細め、だらりと下げた両手の包帯を握り直した。


 ――来る。


 不二がサクラに布団をかけ、静かに立ち上がった瞬間、割れた扉の向こう、闇に沈むスラムの路地から、一条の緑色の影が「滑る」ように現れた。


 それは、細身でしなやかな体躯を持った十七歳ほどの少年だった。夜風にそよぐ緑色の軽装を纏い、足元には風の抵抗を極限まで減らすための特殊な軽量ブーツを履いている。その手には武器はない。だが、彼の全身から放たれる気配は、獲物の喉元を狙う飢えた獣そのものだった。男の名は――『疾風のハヤテ』。


「お前が、あの剛太を自滅させたっていう『動くサンドバッグ』か」


 ハヤテは薄暗い月光の下、傲慢な笑みを浮かべて不二を見下ろした。その瞳には、最底辺の奴隷に対する容赦のない蔑みと、自らの「速度」に対する絶対的な自信が宿っている。


「金蔵の旦那が慌てていたからどんな化け物かと思えば、ただの痩せこけた泥人形じゃないか。剛太のやつ、あんな鈍重な拳を自慢しているから、お前の安っぽい受け身に引っかかって自爆するんだ」


 ハヤテは一歩も動かない不二の周囲を、音もなく歩き始めた。彼の足元からは、摩擦の音が一切聞こえない。まるで、大気そのものが彼の動きを避けているかのようだった。


「俺の暗殺術『疾風脚功』は、あの大男のような生易しい一撃じゃない。お前のようなのろまなカメが、俺の速度に『呼吸同期』を合わせられるか、ここで試してやるよ」


 不二は無言で立ち尽くしていた。養父・鉄造の「絶対に先に殴るな」という遺訓が、彼の肉体に絶対の制約を課している。自分から手を出すことはできない。ただ、敵の暴力をその身で受け止めることしか、彼には許されていないのだ。


「死ね、泥人形」


 ハヤテの姿が、一瞬でかき消えた。


 残像すら残さない超高速の移動。不二は即座に、敵の気の流れを視覚的に捉える『勁力視認の法』を試みようとした。しかし、視神経に意識を集中した瞬間、脳裏に強烈な目眩が走り、視界が赤く染まった。剛太戦で蓄積した経絡の摩擦熱と、肋骨の激痛が、彼の精密な知覚を狂わせていたのだ。


(速い……! どこだ!?)


 風が鳴った。いや、音が届いた時には、すでにハヤテは不二の死角である左後方に回り込んでいた。ハヤテの細い脚が、鞭のようにしなって放たれる。狙いは、不二の最も脆弱な脇腹――ヒビの入っている左肋骨だった。


 不二は着弾のコンマ一秒前、無意識の「肉体誘導」で僅かに身体を捻り、最も筋肉の厚い背部で蹴りを受け止めようとした。そして、衝撃を吸収するための『呼吸同期』を行おうと、肺の空気を一気に吐き出そうとした。


 だが、遅かった。


 ハヤテの蹴りの速度は、不二の呼吸の伸縮速度を完全に凌駕していた。空気を吐き出しきる前に、ハヤテの鋭い爪先が、不二の左脇腹に突き刺さった。


 ドガァッ!


 鈍く重い衝撃音が小屋に響き、不二の身体が木の葉のように吹き飛んだ。背後の鍛冶台に激しく叩きつけられ、古い鉄屑が音を立てて崩れ落ちる。不二の口から、どっと鮮血が噴き出した。


「がはっ……!」


 同期が失敗した。ハヤテの蹴りの衝撃波は、不二の「空の器」に吸い込まれることなく、その生身の肉体と、骨折しかけていた左肋骨を直撃した。骨が悲鳴を上げ、内臓が激しく揺れる。全身の経絡が、冷たい劇薬を流し込まれたように激しく痙攣した。


「あははは! どうした、不倒の盾とやらはその程度か!」


 ハヤテは再び、不二の視界から消えた。風が右から、左から、上から、不規則に不二の皮膚を切り裂く。不二が立ち上がろうとするたびに、目にも留まらぬ高速の連撃が、彼の肩、背中、大腿部へと容赦なく叩き込まれた。


 ドッ! バキッ! ドゴォッ!


 不二の肉体は、ただの木偶人形のように一方的に蹂躙され、血飛沫が廃屋の泥壁を赤く染めていく。衝撃を大地に逃がそうにも、ハヤテの打撃が多角的に連打されるため、足首の「鉄の足枷」を固定する暇すらない。ノックバックを抑えられず、不二の身体は何度も地面を転がった。


「のろまなカメめ。お前の呼吸のタイミングは、俺の速度の前じゃただの止まった標的だ。次の死合がお前の葬式になる。金蔵の旦那がお前を惨殺するショーを楽しみにしているぜ。それまで、そのボロボロの身体を大事に温めておくんだな」


 ハヤテは冷酷な嘲笑を残し、再び緑色の残像となって、闇の路地へと消え去っていった。


 静まり返った小屋の中で、不二は泥まみれの床に両手をつき、荒い呼吸と共に血を吐き出した。全身の骨が軋み、視界が歪む。完敗だった。ハヤテの「速度」は、これまでの剛太のような直線的な物理破壊力とは根本的に異なる。呼吸を同期させる時間すら与えない無限の連撃――それこそが、自ら攻撃できない不二にとって、最悪の天敵だった。


(このままでは、次の死合で確実に殺される。サクラを守ることも、鉄造との約束を果たすこともできない……)


 不二は、眠るサクラの穏やかな寝顔を静かに見つめた。そして、決意を秘めた目で、小屋の奥に保管されていた古い道具袋を引きずり出した。その中から取り出したのは、かつて炭鉱労働の際に親方から渡された、ずっしりと重い高密度の『鉛の錘』だった。


 不二は、血に濡れた包帯を解き、自らの両肩、両肘、腰、そして両膝に関節を締め付けるようにして、その鉛の錘を固く縛り付けた。足首の四十キロの足枷に加え、さらに数十キロの重圧が、彼の満身創痍の肉体にのしかかる。一歩を踏み出すだけで、関節の骨が砕けるような激痛が走った。


「……行くぞ」


 不二はサクラに毛布をかけ直すと、崩れかけた小屋の扉から外へと這い出した。目指すは、黒鉄街の背後にそびえる、一般人の立ち入りを拒む急斜面だらけの荒涼とした岩山――『薬草が自生する裏山』だった。


 深夜の裏山は、有毒な火山ガスと鋭い岩肌が牙を剥く地獄の底だった。不二は、鉛の錘の重圧に耐えながら、崖を這い登った。一歩進むたびに、ヒビの入った左肋骨が悲鳴を上げ、全身の筋繊維が断裂していく。


 絶壁の頂上に達した不二は、目の前にある、鉄分を多く含んだ漆黒の巨岩の前に立ち塞がった。彼は深く息を吸い、自らの身体を、その巨岩に向けて激しく叩きつけた。


 ゴッ!


 凄まじい衝撃が不二の肉体を貫き、骨に微細なヒビが入る。激痛で視界が白く染まる中、不二は懐から『粗悪な鉄骨薬湯』の残りの生薬を取り出し、生のまま口に含んで噛み砕いた。強烈な金属毒と苦みが口内に広がり、体内の生命力が暴走を始める。これこそが、骨を破壊し、薬の力で強引に再生させることで骨密度を金属並みに高める過酷な禁忌――『鉄骨鍛錬法』だった。


 不二は目を閉じた。ハヤテの速度に対抗するには、目で見ていては間に合わない。敵が踏み込む際の大地の微細な振動を足裏で捉え、筋肉が軋む音を耳で聴き、気の流れを肌で感じなければならない。不二は全身の関節の錘を軋ませながら、再び巨岩へとその身を叩きつけ、骨の破壊と再生を繰り返した。全身から血と汗の混ざった蒸気が立ち上り、彼の骨格は、叩かれる鉄のように密度を増していく。


 その時だった。


 深夜の静まり返った裏山の藪から、カサリ、と微かな草の擦れる音が響いた。


 不二は巨岩に身体を打ち付ける動作を止め、静かに振り返った。鉛の錘の重圧で喘ぐ不二の澄んだ瞳の先に、一人の少年が立っていた。


 それは、闘技場で金蔵たちに虐待されていた、あの気弱な奴隷の少年――新太(しんた)だった。新太はボロボロの麻衣を纏い、細い身体を小刻みに震わせながらも、不二が自らを破壊し、血を吐きながら立ち続ける狂気的な特訓の様子を、食い入るように、何かに救いを求めるような強い眼差しで見つめていた。


 二人の視線が、暗闇の中で静かに交錯した。

HẾT CHƯƠNG

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