どん底の取引
闘技場から吐き出された熱気と、石炭の煤煙が混ざり合う黒鉄街の夜。不二(ふじ)は、血に汚れた拳の包帯をきつく締め直しながら、闇金業者・銀次郎(ぎんじろう)の前に立っていた。路地裏の湿った壁に背を預けた銀次郎の顔は、恐怖で青白く引き攣っている。つい先ほど、闘技場の絶対王者であった剛太の剛腕が、不二に触れた瞬間に内側から爆砕した凄惨な光景を、彼は目の前で目撃したばかりだった。
「ひっ……! な、何だ、何の用だ泥人形……! 俺は金蔵(かねぞう)の旦那の命令に従っただけだ!」
不二は何も言わず、懐からずっしりと重い銀貨の袋を取り出し、銀次郎の足元へ投げつけた。金属同士が擦れ合う鈍い音が、静まり返った路地に響く。剛太を自滅させたことで、源次(げんじ)が裏で操作していた大勝負の配当金の一部が、不二の手元に渡っていた。サクラの借金を一括で返済するには十分すぎる額だった。
「……サクラの借用書を渡せ。これで終わりだ」
不二の声は、感情の起伏が削ぎ落とされたように静かだった。だが、その澄んだ瞳に見据えられた銀次郎は、まるで心臓を直接氷の刃で突き刺されたかのように身震いした。銀次郎は震える手で懐を探り、サクラの名が書かれた古い借用書を取り出すと、不二に押し付けるように手渡した。
「こ、これで確かに受け取った! もうお前ら兄妹に用はねえ! 二度と俺の前に現れるな!」
銀次郎は捨て台詞を残し、泥水を跳ね上げながら路地の闇へと逃げ去っていった。不二はその背中を追うこともせず、手元に残された借用書を見つめ、それを静かに真っ二つに引き裂いた。紙切れが夜風に舞い、黒い煤煙の彼方へと消えていく。これでサクラを縛る鎖が一つ、確かに消えたはずだった。
だが、安堵の時間は一瞬で崩れ去った。不二が廃鍛冶小屋の重い扉を押し開けた瞬間、耳に飛び込んできたのは、胸をかきむしるような激しい咳き込みの音だった。
「ごほっ、げほっ……う、うう……!」
「サクラ!」
不二は足首の「鉄の足枷」を鳴らしながら、床へ滑り込むように駆け寄った。薄暗い布団の上で、サクラが小さな身体を丸めて激しく悶絶していた。彼女の口元から零れ落ちた鮮血が、ボロボロのシーツを赤黒く染めている。全身の経絡が萎縮し、生命力が急速に失われていく奇病――「経絡枯渇症」の急性発作だった。サクラの肌は氷のように冷たく、呼吸は細く、今にも途切れそうだった。
「兄……様……。わたし、もう……」
「喋るな、サクラ。今、薬を調達してくる。だから、息を整えるんだ。養父の呼吸法を思い出せ」
不二はサクラの細い肩を抱きしめ、彼女の胸元に亡き母の形見である『真鍮の首飾り』が静かに揺れるのを見た。その真鍮の冷たさが、サクラの体温が失われつつある現実を冷酷に突きつけてくる。不二は立ち上がり、血にまみれた身体のまま、夜の黒鉄街へと飛び出した。目指すは、闇市のさらに奥にある、あの偏屈な老婆の薬舗だった。
石炭の煙が立ち込める迷路のような裏路地を、不二は走り続けた。剛太戦で酷使した下半身が、一歩ごとに悲鳴を上げる。足首の「鉄の足枷」が肉に食い込み、左肋骨のヒビが肺を突き刺すような激痛を訴えていたが、不二はその痛みを完全に無視した。サクラを失う恐怖に比べれば、肉体の苦痛など微風に過ぎない。
闇市の最深部、死体のような悪臭を放つ薬草が干された怪しげな店――『おトキの裏路地薬舗』の扉を、不二は乱暴に押し開けた。
「おトキ婆さん! サクラの発作が……!」
店内に充満する紫色の薬草の煙の向こうから、背中の丸まった老婆――おトキが、不気味な頭巾の奥から鋭い目を光らせて現れた。彼女は不二の血まみれの姿と、その呼吸の乱れを一目見ただけで、全てを察したように深い溜息をついた。
「またあの子の発作かい。それにお前、その身体……剛太とかいう大男を自滅させたって噂は本当のようね。こっちへ来な、脈を測るよ」
おトキは不二の細い手首を掴み、その指先を経絡の走る秘孔へと押し当てた。その瞬間、おトキの表情が驚愕と、深い怒りによって凍りついた。
「なんだい、この経絡の有様は……! 内臓がまるで沸騰した大釜のように熱を持っているじゃないか。お前、他人の打撃を体内に蓄積するたびに、どれほどの負荷がかかっているか分かっているのかい!」
「……サクラを救うためなら、俺の身体はどうなろうと構わない。それより、薬を」
不二は痛みを押し殺し、静かに、だが頑なに要求した。おトキは不二の固い瞳を見つめ、再び重い溜息をつくと、棚から一包みの黒い生薬を取り出した。骨の再生力を高める強烈に苦い煎じ薬――『粗悪な鉄骨薬湯』だった。
「これをすぐに煎じて飲ませな。だがね、不二。これは一時しのぎに過ぎない。お前の身体はね、根本的に狂っているんだよ」
おトキは薬を不二の手に握らせながら、彼の胸元を指差した。
「お前の身体にはね、通常の内功を貯めるための『丹田』が最初から存在しない。空っぽなんだよ。だからこそ、他人が放った勁力を一切の抵抗なく、まるで排水溝のように体内に吸い込むことができる。だが、吸い込んだ気は消えるわけじゃない。お前の体内の『蓄積の経穴』に一時的に留まる。その気が放つ摩擦熱が、お前の骨を、内臓を、内側から焼き溶かそうとしているんだ!」
おトキは不二の手首をさらに強く握りしめ、その声を潜めた。
「一度に耐えられる許容量を超えれば、お前の血管は内側から一瞬で破裂して即死する。お前が使っている『逆天勁力』は、自らの命を薪にして燃やす、禁忌の自爆技なんだよ!」
おトキは不二から目を逸らし、薬草をすり潰す手を動かしながら、小さく独り言を呟いた。
「(……自ら気を練れない『空の器』。この異常な経絡の構造……まさか、かつて武聖殿が極秘裏に進めていたという、あらゆる暴力を無効化するための人造兵器……いや、失敗作として廃棄されたはずの『零号』の設計図そのものじゃないか。なぜ、こんな最底辺のスラムに……)」
不二はおトキの呟きを耳にしながらも、表情を変えなかった。自らがどのような歪みを持って生まれてきたとしても、サクラを守り抜くという意志だけは、一ミリも揺らぐことはない。不二が薬を受け取り、店を出ようとしたその時、薬舗の暗闇から、カチリ、と古銭が指先で弾かれる乾いた音が響いた。
「おトキ婆さんの言う通り、命は大切にするもんだぜ、不二」
煙の奥から姿を現したのは、薄汚れた絹の羽織を羽織り、不敵な笑みを浮かべた男――地下闘技場の賭博師、源次(げんじ)だった。不二は静かに足を止め、背後を振り返る。源次は指先で古銭を弄びながら、不二の『空の器』を値踏みするような視線で見つめていた。
「お前、剛太の拳をまともに受けて、一歩も動かずに奴の腕を粉砕したな。俺の目は誤魔化せねえ。お前は自分からは絶対に殴らない。ただ耐えて、相手の暴力を倍にして返す『反射』の武功を使っている」
「……何の用だ。俺はサクラの元へ帰る」
「冷たいねえ。俺はな、お前に『どん底の取引』を持ちかけに来たんだよ」
源次は不二に近づき、声を潜めて囁いた。
「お前のせいで、闘技場の賭け率はめちゃくちゃだ。無敗の剛太が自滅したことで、興行主の金蔵は大損をこいた。あの強欲な豚が、お前のような『思い通りにならないサンドバッグ』をこのまま生かしておくと思うか?」
不二の瞳に、静かな緊張が走る。源次は不敵に笑い、一枚の紙片を不二の前に差し出した。そこには、金蔵が裏社会の暗殺ギルドに宛てた、極秘の抹殺指令の写しが記されていた。
「金蔵が次に放つ刺客の名は『疾風のハヤテ』。剛太のような愚直な一撃とは違う。目にも留まらぬ速さで、お前の死角から無数の連撃を叩き込む、超高速の暗殺術の使い手だ。お前のその鈍重な足枷と、一撃しか耐えられない経絡じゃ、ハヤテの連撃の前に『呼吸同期』のタイミングを合わせる暇もなく、なぶり殺しにされるのがオチだぜ」
おトキが息を呑み、不二の出場を止めようと口を開きかけた。だが、不二はただ静かに、源次の言葉の裏にある「真意」を読み取ろうとしていた。源次がわざわざこの情報を教えに来たのは、不二を救うためではない。彼もまた、この不条理なスラムで生きる、冷徹な計算高さを持った賭博師なのだ。
「……俺に、どうしろと言うんだ」
「簡単な話さ。俺と手を組め。お前が次の死合でハヤテの攻撃を耐え抜き、再び『自滅』させると俺に賭けろ。俺が裏で賭け率を操作し、お前に万に一つの大勝ちをさせてやる。サクラの病を根本的に完治させるには、千華城の百花連盟が独占している、あの伝説の霊薬が必要なんだろう? そのためには、今の黒鉄銅貨じゃ話にならねえ。千華城へ行くための、莫大な『銀票』が必要だ」
源次は古銭をポケットに収め、不二の目を真っ直ぐに見つめた。
「お前が生き残り、サクラを救うための資金を手に入れる。俺は金蔵の鼻を明かし、この黒鉄街の富を根こそぎ奪う。悪い取引じゃねえはずだ」
沈黙が薬舗を支配した。おトキは不二のボロボロの肉体を見つめ、哀しげに首を振った。「およしよ、不二。ハヤテの速度にお前の身体は耐えきれない。今度こそ死ぬよ」。
だが、不二はサクラの苦しむ姿を、引き裂かれた借用書を思い浮かべていた。自分には、退く道など最初から存在しないのだ。不二は『粗悪な鉄骨薬湯』の包みをきつく握り締め、源次に向き直った。
「……サクラの薬代が手に入るなら、俺の身体がどうなろうと構わない。その取引、引き受ける」
「交渉成立だな」
源次は満足そうに唇を歪め、闇の奥へと消えていった。不二はおトキの静止を振り切り、サクラの待つ廃鍛冶小屋へと急いだ。体内で軋む骨の痛みを感じながらも、不二の心には、サクラを救うための新たな、そして最も危険な闘いへの決意が鋼のように固まっていた。だが、源次が去り際に残した言葉が、不二の脳裏に不気味な影を落としていた。
「気をつけろよ、不二。ハヤテの突進は、お前の『不倒の盾』を内側から切り裂くぞ」
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