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自滅の鉄拳

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黒鉄街の地下闘技場は、人間の欲望と血の臭いが煮こごった奈落の底だった。


 石炭の煤煙と安価な獣脂蝋燭の煙が立ち込める薄暗い大空洞。その中央に鎮座する鉄格子のリングを、熱狂する数百人の観客が取り囲んでいる。彼らが放つ怒号と罵声は、地響きとなって湿った岩壁を揺らし続けていた。


「殺せ!」「叩き潰せ!」「血を見せろ!」


 不二(ふじ)は、リングの隅で静かに佇んでいた。首に嵌められた「血塗られた鉄首輪」が、松明の赤い炎を反射して鈍く光っている。ボロボロの麻衣に包まれた細い身体は、昨夜、闇金業者の銀次郎とその部下たちから受けた暴行の傷跡で満ちていた。特に左脇腹の肋骨のヒビは、呼吸をするたびに灼熱の針で刺されたような激痛を訴えている。口内に上ってくる鉄の味を、不二は静かに飲み下した。


(痛むな……だが、まだ耐えられる)


 不二の脳裏に、鍛冶小屋で熱に浮かされながら自分を呼んでいた妹・サクラの青白い顔が浮かぶ。彼女の命を繋ぐ「枯渇補気湯」の薬草を手に入れるため、そして銀次郎に握られた生死請負書を破棄するためには、今日の死合を生き延びねえわけにはいかねえのだ。


 ジャリ、と不二がわずかに足を動かすと、両足首に固定された「鉄造の鉄の足枷」が重苦しい金属音を立てた。片足二十キロ、合わせて四十キロに及ぶ漆黒のアンクルガード。敏捷性を完全に奪うこの呪わしい重りは、同時に不二にとって、衝撃を大地へと逃がすための唯一の「錨」でもあった。


「さあ、本日のメインイベントだ!」


 興行主・金蔵(かねぞう)の息のかかった審判が、肥った手を掲げて叫ぶ。貴賓席の最上段では、金糸の刺繍を施した長衣を着た金蔵が、脂ぎった笑みを浮かべながらワイングラスを傾けていた。その隣には、不二を嘲笑うように睨みつける銀次郎の姿もある。


「無敗のサンドバッグ、不二! 対するは、期待の超新星、岩をも砕く剛腕――剛太(ごうた)だ!」


 鉄格子が乱暴に開かれ、対戦相手がリングへと足を踏み入れた。観客席から割れんばかりの歓声が沸き起こる。


 剛太。十九歳。身長は不二を頭二つ分上回り、発達した肩幅と丸太のような両腕は、それ自体が凶器の風格を備えていた。全身の皮膚は「剛体外功」の鍛錬によって黒光りしており、両手には鉄鋲がびっしりと埋め込まれた特製の革手袋を嵌めている。


「おいおい、こんな痩せこけた泥人形が俺の相手かよ」


 剛太は不二の細い体躯を見下ろし、下卑た笑声を上げた。彼は鉄鋲の手袋を激しく打ち合わせ、火花を散らしてみせる。


「金蔵の旦那から聞いてるぜ。お前は絶対に殴り返してこない『動く肉塊』なんだってな? サンドバッグの誓約とかいうくだらねえルールの陰に隠れて、よくもまあ今まで生き残ってこれたもんだ」


 剛太が一歩踏み出すと、リングの土が大きく跳ね上がった。彼の全身から、獲物を嬲り殺そうとする純粋な暴力の気配が立ち上る。


「だが、俺の『剛腕大鉄拳』は、並のサンドバッグじゃ一撃で中身が弾け飛ぶ。お前のその薄汚いあばら骨を、何秒で粉々にできるか、金持ちどもが賭けてんだよ。大人しく殴られろ!」


 不二は何も答えなかった。ただ、包帯が幾重にも巻かれた両手をだらりと下げ、澄んだ瞳で剛太の動きを見据える。亡き養父・鉄造の言葉が、胸の奥で静かに響いていた。


『不二、絶対に自分から殴るな。暴力を放つ者は、いつか自らの暴力によって滅びる。お前はただの器となり、因果のブーメランを返す盾となれ』


 カーン!


 死合開始の鐘が鳴り響いた。その瞬間、剛太の巨体が爆発的な勢いで突進してきた。巨躯に似合わぬ神速。剛太は右拳を大きく引き、不二の顔面に向けて、風を切り裂くストレートを放った。


 まともに喰らえば、頭蓋が消し飛ぶ破壊力。不二の視界の中で、鉄鋲の手袋が急激に迫ってくる。足枷の重量のせいで、回避は不可能。だが、不二は動揺しなかった。極限まで研ぎ澄まされた感覚が、剛太の拳の軌道を捉える。


(右、わずかに上。拳の軌道が直線的すぎる。狙いは顔面だが、前のめりになりすぎて重心が浮いている)


 着弾のコンマ一秒前、不二は上半身をわずかに、呼吸の隙間ほどの角度で左へと傾けた。生存術「肉体誘導」。最も筋肉が厚く、衝撃に耐えうる右大胸筋の境界へと、剛太の拳の着弾点をずらしたのだ。


 ドゴォッ!


 肉と鉄が激突する、鈍く重い音が響き渡る。剛太の拳が、不二の右胸に突き刺さった。


「ぐっ……!」


 その瞬間、不二は深く、鋭く息を吸い込んだ。鉄造直伝の「逆天勁力・基礎呼吸法」――「呼吸同期」の起動。敵の拳が皮膚に触れた刹那、肺の空気を完全に吐き出し、体内の内圧を一時的にゼロ(真空)にする。これにより、剛太が放った破壊的な勁力は、抵抗を失った不二の肉体という「空の器」へと吸い込まれていく。


 しかし、昨夜の銀次郎の部下たちによる暴力のダメージが、ここで牙を剥いた。左脇腹の肋骨のヒビが、衝撃の余波によって激しく軋み、あばら全体に灼熱の激痛が走る。肺が圧迫され、一時的な呼吸困難が不二を襲った。


(呼吸が……乱れる……!)


 同期がわずかに遅れ、衝撃波の数割が逃げ場を失って不二の体内に滞留した。喉元までせり上がってくる血の泡を、不二は歯を食いしばって強引に飲み下す。足元がぐらつき、一歩後退しかけた。


「ひゃはは! どうした、もうお終いか? やっぱりただのゴミ屑だな!」


 剛太は不二の動揺を見逃さず、下卑た歓声を上げながら、さらに激しい連撃を繰り出してきた。左ボディ、右フック、そして顎を狙い上げる強烈なアッパーカット。


 ドカッ、バキッ、ドゴォッ!


 暴力の嵐が不二の肉体を襲う。不二は「肉体誘導」を必死に繰り返し、致命的な急所(頭部や心臓)への直撃だけは避け続けたが、連続する打撃のエネルギーは、確実に彼の肉体を蝕んでいった。殴られるたびに、皮膚が裂け、筋肉が断裂し、内臓に微細なダメージが積み重なっていく。


(このままでは……経絡が破裂する。足場を固定し、衝撃を逃がさなければ……!)


 不二は昨夜の泥の床での失敗を思い出していた。衝撃を大地に逃がすには、強固な足場が絶対条件。このリングの床は、固く踏み固められた土。これならいける。


 不二は両足の「鉄造の鉄の足枷」に意識を集中させた。関節を固定し、重心を大地の奥深くへと一直線に落とす技術――「鉄枷の重力固定」。四十キロの足枷が、不二の肉体をリングの床へと物理的に溶け込ませるように、強固に固定した。


「これで終わりだ、泥人形! 脳天ごと叩き割ってやる!」


 剛太が咆哮した。彼は全身の筋肉を限界まで緊張させ、内功「剛体外功」の気を右拳に極限まで集中させる。拳の周囲の空気が、その質量と熱によって歪んでいた。岩をも粉砕する、剛太の最大奥義「剛腕大鉄拳」のストレート。


 観客たちは、不二の死を確信して狂ったように叫び声を上げた。銀次郎は勝利を確信して笑い、サクラを奴隷市場に売る計算を始めていた。


 だが、不二の瞳は、驚くほど静かだった。目前に迫る巨大な鉄拳。その恐怖の渦中で、不二は自らの心を完全に「空」にした。


(今だ――)


 剛太の拳が、不二の胸板に激突した。まさにその刹那、不二は完璧なタイミングで「呼吸同期」を合わせた。


 フッ、と不二の肉体から一切の抵抗が消えた。まるで水か、実体のない影のように、剛太の拳の全エネルギーを「空の器」へと無抵抗で吸い込んでいく。


 ゴウッ!


 次の瞬間、不二の足元から凄まじい衝撃波が放たれた。不二の背骨から大腿骨を通り、足枷を通じて大地へと一直線に伝導した剛太の打撃エネルギー。その五十パーセントが、リングの土を蜘蛛の巣状に激しく叩き割り、埃を円状に吹き飛ばした。不二の肉体は、一ミリも、一分も後退していない。


「な……に……!?」


 剛太の瞳に、初めて底知れぬ恐怖が宿った。手応えがない。まるで底なしの深淵を殴ったかのような、不気味な虚無感。それと同時に、剛太の拳は、不二の肉体に完全に「密着」したまま、動かせなくなっていた。


 不二の体表面の経穴が、赤く小さな光の点となって皮膚の下で発光する。蓄積された、剛太の最大の一撃のエネルギー。


(返せ――因果のブーメランを)


 不二は、自らの頑丈な筋肉の「跳ね返り(弾性)」を、体内にプールしたエネルギーに上乗せした。逆天勁力の核心――「双倍反射(基礎)」。


 キィィン!


 その瞬間、不二の全身の骨格から、鍛冶屋のハンマーが冷たい鉄を叩いたような、澄んだ金属共鳴音が響き渡った。不二の肉体が、極限の衝撃を耐え抜いたことで「鉄骨境・初門」へと覚醒した証だった。


 ドグォォォン!!!


 爆発的な衝撃波が、剛太の拳の着弾点から、剛太の腕へと逆流した。剛太が放った最大の一撃の、正確に「二倍」の物理破壊力。


 バキバキバキバキッ!!!


 凄まじい骨折音が、闘技場全体に響き渡った。剛太の鉄鋲が埋め込まれた手袋が内側から弾け飛び、彼の極太の右腕の骨が、手首から肘、そして肩にかけて、不自然な角度で次々と突き破るように砕け散っていく。筋肉が断裂し、血の霧がリング上に噴き出した。


「ぎゃあああああああああああああああッ!!!」


 剛太は、自らの骨が自らの力によって粉砕されるという、あり得ざる激痛に絶叫した。彼は自らが放った二倍の衝撃波によって、後ろへと激しく吹き飛ばされ、リングの鉄格子に叩きつけられて、そのまま白目を剥いて崩れ落ちた。右腕は、完全に原形を留めないほどに mangled されていた。


 静寂。


 さっきまでの狂気的な怒号が嘘のように、闘技場全体が、水を打ったような静まり返った。


 不二は、ただ静かにそこに立っていた。血に汚れた麻衣を纏い、一歩も動かず、息一つ乱さずに。彼の首の鉄首輪は、傷一つなく、ただ静かに冷たい光を放っている。彼は一切の手を返していない。ただ、そこに「立ち続けていただけ」だった。


 観客たちは、目の前で起きた「怪異」に、声も出せずに立ち尽くしている。銀次郎は持っていた松明を泥の中に落とし、金蔵のワイングラスは、彼の震える手から滑り落ちて床で砕け散った。


 その大混乱と静寂の渦中、観客席の最暗部、薄汚れた絹の羽織を羽織った男が一人、静かに立ち上がった。男の名は源次(げんじ)。裏の賭け率を操る狡猾な賭博師。彼は、不二の足元に刻まれた蜘蛛の巣状の地割れと、剛太の爆砕した右腕を交互に見つめ、その細い目を不気味に細めた。


(……面白い。ただのサンドバッグじゃねえな、あいつは)


 源次の唇が、暗闇の中で邪悪に歪んだ。不二の放った「反射」の因果が、この泥濘の地下街に、新たな嵐を呼び寄せようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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