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因果の鞭打ち

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地下拷問室の湿った空気の中に、死神の鎌が空を裂くような、鋭く不気味な鳴動が響き渡った。


「死ねえええっ! この泥人形がァッ!」


 衛兵隊長・大河原(おおかわら)の絶叫は、すでに理性的な尋問者のものではなかった。己の権力を誇示するため、そして何より、どれほど暴力を加えても悲鳴一つ上げず、ただ澄んだ瞳で見つめ返してくる不二(ふじ)という存在への、底知れぬ恐怖。それに突き動かされた狂気の咆哮だった。


 大河原の右腕の筋肉が、怒怒怒と音を立てて膨張する。彼が持つ特製の拷問鞭――細い鉄条網を幾重にも編み込み、肉を抉るための無数の鋭い棘を仕込んだ凶器――が、月光の届かぬ暗闇の中で鈍い銀色の軌跡を描いた。それは大河原が放ち得る、人生で最大にして最悪の質量を乗せた一撃だった。


 天井の鎖に両手首を縛られ、宙吊りにされた不二の背中は、すでに凄惨な裂傷で血の海と化していた。だが、その裂けた皮膚の下で、不気味な変化が起きていた。


 赤黒く発光する経絡の光。これまでの死合で蓄積してきたハヤテの超高速連撃、牙次郎の毒爪の衝撃、そして大河原が加えた数十回に及ぶ鞭打ちのエネルギー。それらすべての「暴力」が、不二の丹田を持たない『空の器』の中に滞留し、限界臨界点である「八割」を超えて、今や爆発寸前の圧力となって脈打っていた。


(来る――)


 不二は、迫り来る鉄鞭の軌道を、濁りのない瞳で冷徹に見据えていた。宙吊りの状態。足首に嵌められた片足二十キロの『鉄造の鉄の足枷』は、ただ重力に従って彼の肉体を下へと引っ張るだけのデバフと化しており、衝撃を大地へと逃がす『不動の踏み込み』は使えない。受け止めた衝撃のすべてを、生身の肉体だけで処理しなければならない極限の制約だった。


 だが、不二の心は、凍てつく湖面のように静まり返っていた。脳内で起動するのは、廃寺の無門老僧から授かった精神統一法――『無門の静寂(むもんのせいじゃく)』。


 恐怖を消す。激痛を消す。己の存在を、ただそこにある一本の枯れ木、あるいは無機質な石碑と同化させる。暴力に対して「抵抗」しようとするわずかな筋肉の緊張こそが、衝撃波を体内で滞留させ、骨を砕き、内臓を破裂させる最大の原因となる。不二は全身の力を完全に抜き、打撃を受け入れるための「完全な空」となった。


 ピシィィィィッ!!!


 拷問室の鼓膜を破らんばかりの破裂音と共に、大河原の全力の鉄鞭が不二の胸元から背中にかけて、斜めに叩き込まれた。鉄条網の棘が肉に食い込み、骨を削る鈍い音が響く。


 だが、その瞬間。不二は完璧なタイミングで『呼吸同期』を合わせた。鞭が皮膚に触れた刹那、肺の空気を最後の一滴まで吐き出し、体内の内圧を完全にゼロにする。大河原の放った数千キロに及ぶ物理的な破壊エネルギーは、不二の肉体という真空の空洞へ、摩擦なく吸い込まれていった。


 さらに、不二は『胸壁クッション』を連動させた。大胸筋と肋骨の弾性を極限まで柔軟に保ち、衝撃が心臓や肺などの致命的な器官へ急激に伝導するのを防ぐ。波打つように凹んだ胸部の中で、鞭の衝撃波は安全に分散され、体内にプールされていた八割のエネルギーと合流――その瞬間、蓄積された暴力は「十割」、すなわち完全な臨界点へと達した。


 不二の背中と胸の経絡が、まるで灼熱の溶岩のように、眩いばかりの赤黒い光を放つ。


(今だ――返せ!)


 不二は、蓄積した全エネルギーに、自らの頑丈な筋肉の『跳ね返り(弾性)』を上乗せする唯一の武技――『双倍反射(そうばいはんしゃ)』を発動した。


 逃げ場のない宙吊りの肉体。大地に衝撃を逃がせない反作用のすべてが、不二自身の肉体をも内側から激しく軋ませる。肺が押し潰され、一時的に心停止に陥るほどの凄まじい過負荷。口からドッと鮮血が吹き出したが、不二の意志は砕けなかった。彼は体内の全衝撃波を、着弾点である鉄鞭の先端へと一直線に逆流させた。


 物理の法則は冷酷である。鞭という道具は、手元の小さな力を先端で何倍にも増幅させる構造を持つ。だが、それは「先端から逆流する力」に対しても同様だった。不二の肉体から放たれた2倍の衝撃波が、鞭の刀身を伝って大河原の手元へと逆流していく。


 キィィィィン!!!


 拷問室全体が激しく共鳴するような、耳を刺す金属音が響いた。大河原の持つ鉄鞭が、不二の放った倍加反射の衝撃に耐えきれず、先端から手元に向けて、粉々の鉄塵となって爆砕していったのだ。


「な、に――」


 大河原が驚愕の声を上げる暇すらなかった。鞭を伝って逆流した目に見えぬ衝撃波の塊が、彼の右手を直撃した。


 ベキ、バキバキバキッ!!!


 凄まじい骨折音が狭い拷問室に響き渡る。大河原の右手首が一瞬で不自然な角度に折れ曲がり、皮膚の下で前腕の骨が粉々に砕け散った。鉄鋲を嵌めた肉が裂け、鮮血と骨の破片が四方に飛び散る。


「ぎゃあああああああああああああああッ!!!」


 大河原は、自らが放った最大の一撃の「2倍の破壊力」をその身に直接受け、拷問室の石壁へと吹き飛ばされた。壁に激突した彼は、砕けた右腕を抱えて床を転げ回り、豚のような悲鳴を上げてのたうち回る。その顔は恐怖と激痛で完全に歪んでいた。


 ドガァッ!


 その直後、不二を吊り下げていた天井の太い玄鉄の鎖が、反射の余波による激しい振動に耐えきれず、固定具ごと引きちぎれて落下した。不二の身体が床へと崩れ落ちる。片足二十キロの足枷が重い音を立てて石畳を叩いた。


「はぁ、はぁ……」


 不二は床に膝をつき、激しく喀血した。全身の経絡が焼き切れるような熱を持ち、視界が急速に狭まっていく。心臓が不規則に脈打ち、一時的な心停止の危機が彼の意識を刈り取ろうとしていた。だが、彼は倒れなかった。ただ静かに、大河原の自滅を見届けていた。


 その時、拷問室の重い鉄扉が、外から乱暴に蹴り開けられた。


「兄貴! 今助ける!」


 息を切らせて飛び込んできたのは、気弱なはずの少年・新太(しんた)だった。彼の右手には、衛兵の死角を突いて奪い取った、地下牢の鍵の束が握られていた。新太は床に転がる大河原の凄惨な有様と、全身血まみれの不二の姿を見て一瞬息を呑んだが、すぐに不二の元へと駆け寄った。


「新太……サクラは……」


「大丈夫、サクラちゃんは源次さんが安全な場所に隠してくれた! 早くここを出よう、衛兵たちが異変に気づいて集まってくる!」


 新太は震える手で不二の手首の鎖を外し、自らの肩で不二の身体を支えた。不二は朦朧とする意識の中で、新太の肩を借りて一歩ずつ歩き出す。大河原の絶叫が響く拷問室を後にし、二人は暗い地下通路を駆け抜け、雨の降る黒鉄街の路地へと脱出した。


    *    *


 同じ頃、地下闘技場の最深部、支配者・金蔵(かねぞう)の執務室。


 大河原の自滅と不二の脱出の報せを受け取った金蔵は、極度の怒りと、それを上回る激しい恐怖によって、全身を小刻みに震わせていた。机の上の高級な磁器の茶器を床へ叩きつけ、脂ぎった顔を醜く歪める。


「大河原の奴め、あの頑丈なだけの奴隷一匹に自滅させられただと……!? 衛兵隊の武器も、拷問も通用せんというのか! あの化け物め、このままでは俺の闘技場が、俺のすべてが破壊される!」


 金蔵の脳裏に、不二が骸やハヤテ、牙次郎を一切殴らずに自滅させた、あの不気味な光景が蘇る。物理的な打撃が通用しない「バグ」のような存在。生かしておけば、自らの利権構造が根底から崩壊する。


「人間の闘士で殺せぬなら……これを使うしかない」


 金蔵は血走った目で、執務室の奥にある、三重の鍵がかかった鉄扉を見つめた。その先は、闘技場のはるか地下、一般の人間は立ち入りを禁じられた『猛獣の檻(もうじゅうのおり)』へと繋がっている。


 そこには、中原の武聖殿から極秘裏に仕入れた狂暴化薬を投与され、長年飢えさせられてきた、巨大な剣歯虎の変異種――魔獣『赤目(あかめ)』が幽閉されていた。赤目の繰り出す攻撃は、物理的な打撃ではない。肉体を一瞬でバラバラに切り刻む、無慈悲な「引き裂き爪」と「噛みつき」だった。打撃反射の武功しか持たない不二にとって、それは天敵とも言える存在だった。


「解き放て……! あの泥人形を、骨の髄まで噛み砕いて、ただの肉片に変えてしまえ!」


 金蔵の狂気に満ちた命令が下った瞬間。


 ズゥゥゥゥン……!!!


 闘技場の最深部から、地盤を揺るがすような、重苦しい地鳴りが響き渡った。金属の太い檻が捻じ曲げられ、激しく擦れ合う、耳を刺すような破壊音。


 ガルルルルル……!!!


 次の瞬間、黒鉄街の濁った夜空を切り裂くように、生物のものとは思えぬ、狂暴極まりない巨大な咆哮が響き渡った。その圧倒的な獣性の響きに、雨の降るスラムの野犬たちが一斉に怯えて静まり返る。


 不二と新太が息を切らせて路地を走る中、その咆哮は彼らの背後から、冷たい風と共に迫りつつあった。

HẾT CHƯƠNG

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