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月下の刃と沈黙の調理場

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闇に溶ける黒。月光さえも吸い込む漆黒の小太刀が、深夜の厨房の冷気の中で静かに牙を剥いていた。


「死神……!」


毒使い・毒島が吐き出すように呟いたその声には、明らかな焦燥が混じっていた。彼の左袖から滑り落ちた予備の毒ナイフが、月光を反射して怪しくギラリと光る。その刃先が、私の喉元を目がけて神速の刺突となって突き出された。


空気を切り裂く鋭い風切り音。私は「無の境地」を極限まで引き上げ、自らの心拍数を極限まで低下させた。頭の中の雑音をすべて消し去り、目の前の敵を排除すべき「肉の塊」として捉える。右手に握った特殊合金製無反射小太刀の刃を斜めに傾け、毒島の放った刺突をミリ単位の精度で受け流した。


キィン――。


金属同士が擦れ合う極小の不協和音が、静まり返った厨房に響く。だが、その一撃を防いだ瞬間、私の左腕に焼けるような激痛が走った。先ほど毒島の「超微細エアロゾル注射器」から噴射された有毒ガスを避けた際、衣服の袖を透過して皮膚に負った化学火傷だ。ただれた皮膚にスーツの繊維が張り付き、動くたびに神経を直接炙られるような痛みが脳を揺さぶる。


(くっ……、動きがわずかに鈍る……!)


私は奥歯を噛み締め、痛みを強引に意識の底へとねじ伏せた。ここで声を上げるわけにはいかない。そして、この戦闘を長引かせることも許されない。


別邸のメインシステムは現在、情報屋のジャックのハッキングによって一時的な停電とループ映像による偽装状態にある。だが、戦闘音が大きくなりすぎれば、詰所にいる裏切り者の黒田警備隊長や、麗華様直属の監視の目である家政婦の松代が異変に気づいて踏み込んでくる。何よりも、主寝室で静かに眠っているはずの、あの儚く無力な盲目の若君――神崎蓮様を起こすわけにはいかなかった。


(あの人を、この血と硝煙の汚れに巻き込んではならない。あの無垢な世界を、私が守り抜く)


その強い守護の衝動が、私の胸を突き動かす。かつて暗殺組織「烏」で殺人機械として育てられた私が、今や一人の男を守るためにその牙を振るっている。その矛盾に自嘲する暇さえ、今の私にはなかった。


毒島は私の左腕の負傷を見逃さなかった。彼は薄気味悪い笑みを浮かべ、さらに踏み込んで変則的な二段突きを放ってきた。一撃目は私の顔面、二撃目は心臓を正確に貫こうとするプロの軌道。私は上半身をわずかに後ろへ逸らし、顔面への突きを回避。同時に、胸元へ迫る二撃目に対しては避ける時間が足りないと判断し、あえて体を一歩前へと滑らせた。


ドスッ、と鈍い衝撃が私の胸に走る。防刃ベスト「ケブラー・ライト」が、毒島のナイフの刃先を強固に弾き返した。衣服の下に仕込まれた最新鋭の超薄型防具が、私の心臓を守り抜いたのだ。


「何っ!?」


毒島が目を見開いた一瞬の隙。私は右手の小太刀の柄(ポメル)で、彼の手首を強烈に叩いた。骨が軋む音がして、毒島の右手のナイフが床へと滑り落ちる。


しかし、毒島は諦めなかった。彼は即座に後退しながら、右手でのナイフ戦を捨て、左手で腰のポケットへと手を伸ばした。その指先が捉えたのは、金属製の極小ケース。彼が持ち込んだ「劇薬『ポロニウム誘導体X』」の予備アンプルと、それを空気圧で散布するためのガス爆弾だ。


(ガスをここで使わせるわけにはいかない……!)


もしあの毒ガスがこの厨房に充満すれば、斉藤料理長だけでなく、換気ダクトを通じて別邸全体に毒が回り、蓮様の命に直結する。それは絶対的な敗北を意味していた。


毒島の左指が、ガス爆弾の起爆ピンに引っかかる。その動きはコンマ数秒後には完了するだろう。


私は「隠密移動『シャドウ・ステップ』」を起動した。床を蹴る音を一切立てず、月明かりが作る影の死角へと身体を滑り込ませる。毒島の視界から、私の黒いスーツ姿が一瞬にして陽炎のように掻き消えた。


「どこへ行った……!?」


毒島が焦燥に駆られて視線を彷徨わせた瞬間、私はすでに彼の左側面の死角へと回り込んでいた。左腕の火傷の激痛を完全に遮断し、私の両手は機械的な正確さで毒島の左腕を捕らえた。


「骨関節無力化『関節砕き(ジョイント・クラッシュ)』」


敵の肘と手首を掴み、人間の可動限界を超えた角度へと一気に捻り上げる。バキッ、という鈍く湿った骨折音が、深夜の調理場に響き渡った。


「あがっ――!?」


毒島の左肩が完全に脱臼し、彼の指先から力が失われた。起爆ピンから指が外れ、ガス爆弾が床に転がる。毒島は激痛のあまり、肺にあるすべての空気を吐き出して絶叫しようと口を大きく開いた。その喉の奥から、警報代わりの悲鳴が放たれようとした、まさにその刹那。


私は小太刀を逆手に持ち替え、無音のまま彼の懐へと密着した。私の漆黒の瞳が、毒島の怯えきった瞳と至近距離で交錯する。


「烏」の抹殺規則――『目撃者は生かして帰すな』。


その冷酷な掟が、私の脳裏を支配した。今の私は護衛だが、この男を生かしておけば、別邸の秘密も、蓮様の安全もすべて灰になる。私は一切の躊躇を捨て、殺人機械としての自らを完全に解放した。


「一撃制圧『喉笛断ち(サイレント・スラッシュ)』」


閃光のような一振りが、毒島の喉元を一文字に切り裂いた。漆黒の刃は一切の光を反射せず、ただ無音で肉と気管を断ち切った。


「……が、ふっ……」


毒島は悲鳴を上げることもできず、喉を両手で押さえながら、その場に崩れ落ちた。彼の指の隙間から、ドクドクと赤黒い血が溢れ出し、冷たいステンレスの調理台を赤く染めていく。彼の蛇のような瞳から徐々に光が失われ、やがて完全に動かなくなった。


厨房に、再び静寂が戻る。


床に這いつくばっていた斉藤料理長は、目の前で行われた一瞬の「無音の処刑」に、腰を抜かしたままガタガタと震えていた。彼の瞳には、私に対する絶対的な恐怖が刻まれている。


「斉藤さん」


私は静かに声をかけ、血に濡れた小太刀の刃を、毒島の死体から剥ぎ取った布で静かに拭き取った。


「これを、片付けます。昨夜言った通り、あなたは麗華様に『毒殺は順調』と報告し続ける。……いいですね?」


「は、はい……っ! わかりました、何でもします! だから、命だけは……!」


斉藤は狂ったように何度も床に頭を打ち付け、絶対服従を誓った。これで、別邸内の二重スパイ体制はより強固なものとなる。


私は小太刀を衣服の下へと収め、床に転がった毒島のガス爆弾と金属ケースを回収した。その中には、まだ使用されていない「ポロニウム誘導体X」の予備アンプルが静かに収まっている。これは将来、麗華様を法的に追い詰めるための決定的な物証となるはずだ。


ふと、毒島の死体のポケットの中で、スマートフォンの画面が静かに明滅しているのが見えた。バイブレーションの微かな振動音が、静まり返った調理場に響く。


私は手袋をはめた手で、そのスマートフォンを拾い上げた。液晶画面が明るくなり、暗号化されたメッセージが表示されている。


送信者の名は――「神崎 麗華」。


そこには、冷酷極まる文字が並んでいた。


『進捗はどう。蓮は死んだ?』


その画面を見つめる私の瞳に、月光が冷たく反射した。別邸を巡る血塗られた戦いは、まだ始まったばかりだった。

HẾT CHƯƠNG

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