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忍び寄るプロの影

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深夜二時四十分。嵐が去った後の隔离別邸は、不気味なほどの静寂に包まれていた。雨水を吸い込んだ庭園の土の匂いと、冷たい湿気が回廊を通じて忍び寄ってくる。廊下の隅に控える私の胸の奥では、まだ心臓がうるさいほどの鼓動を刻んでいた。


(……落ち着け、私。鼓動を制御しろ)


 目を閉じ、深く息を吐き出す。脳裏に浮かぶのは、ほんの数十分前、主寝室の暗闇の中で繋いだ蓮様の細い指先、そして私の胸元に預けられた彼の儚げな体温だ。「温めてほしい」と囁いた彼の声が、耳の奥で熱を帯びて残っている。暗殺者として生きてきた私の手が「温かい」などと、そんなはずはない。だが、その嘘のような温もりが、私の冷徹であるべき精神を内側から静かに侵食していた。


 私はこめかみを強く押し、「感情殺害規定『無の境地』」を強制的に起動しようとした。妹・芽衣の命は、未だ本邸の神崎麗華の支配下にある。私が一瞬でも迷えば、芽衣の治療薬は止められ、この無垢な若君も闇に葬られる。私に感傷など許されない。私はただの盾、冷徹な剣でなければならないのだ。


 その時、私のスーツの内ポケットで、極小の受信端末が微かに振動した。音のない光が画面に明滅する。それは、裏社会の情報屋であるジャックからの暗号通信だった。別邸の外周に仕掛けた微小振動センサーが、不自然な電波の乱れを検知したのだ。誰かが外壁を越えた。


(来たか……。麗華様め、斉藤の毒殺が滞っていることに、やはり疑念を抱いたな)


 麗華は執拗で冷酷な女だ。斉藤料理長が「毒殺は順調」と偽りの日報を送り続けているとはいえ、蓮様が未だに健在であることにしびれを切らしたのだろう。新たに送り込まれた刺客。それは、斉藤のような素人に毛の生えた二重スパイではない。裏社会で確実に標的を仕留める「猟犬」クラスのプロフェッショナルに違いない。


 私はジャックに暗号を送り、別邸のメイン防犯システムを一時的に遮断するよう指示した。防犯カメラの映像がループに入り、詰所の黒田警備隊のモニターには「異常なし」の静止画が映し出される。これで、別邸内は完全な無法地帯――私と侵入者だけの「クローズド・サークル」となった。他の使用人や、何よりも蓮様の眠りを妨げることなく、闇の中で静かに処理するための戦場。それが、深夜の「別邸の厨房」だった。


 足音や衣擦れの音を一切消し去る「隠密移動『シャドウ・ステップ』」を用い、私は闇と同化しながら厨房へと向かった。天井の太い梁の上に跳躍し、キャットウォークの影に身を潜める。眼下を見下ろすと、月明かりが窓から差し込み、ステンレスの調理台を冷たく照らしていた。


 そこに、二人の男の影があった。


 一人は、白髪交じりのコック帽を被り、ガタガタと全身を震わせている斉藤料理長だ。そしてもう一人は、別邸の清掃員の制服を着た、痩せこけた男だった。男の目は蛇のように細く、唇の端に薄気味悪い笑みを浮かべている。男の左手には、金属製の小さなケースが握られていた。


「斉藤さん、麗華様はお前の報告に酷くご立腹だ。若君が未だにスープを完食しているというのに、なぜ衰弱の兆候が見られない? ……答えは簡単だ。お前が処方を薄めているか、あるいは、あの目障りな女護衛に解毒されているかだ」


「ち、違う! 俺は言われた通りに毒を盛っている! 本当だ、信じてくれ、毒島さん!」


 斉藤は冷たいステンレスの床に跪き、必死に頭を擦りつけていた。男の正体は、麗華が直接雇ったプロの毒殺魔「毒使い・毒島」。彼は斉藤を脅迫し、私がすり替えた無害な解毒剤の薬瓶を、再び本物の猛毒「ポロニウム誘導体X」へと戻させようとしていたのだ。


「まあいい。お前が裏切っていようがいまいが、俺が直接手を下せば済む話だ。この茶葉に、遅効性の重金属粉を直接混ぜろ。明日の朝、若君がこれを口にすれば、三日後には心不全で綺麗に片付く」


 毒島はそう言いながら、金属ケースから極小の薬瓶を取り出し、蓮様の個人用の紅茶の缶へと手を伸ばした。さらに、彼は斉藤の首元に、細長いペンのような器具を突きつけた。それは、針跡を残さず、高圧の空気で猛毒を皮膚に浸透させる「超微細エアロゾル注射器」だった。


「拒絶すれば、お前が最初にこの毒を味わうことになる」


 斉藤の顔から完全に血の気が引き、絶望の涙が床に落ちる。その瞬間、私は天井の梁から無音で舞い降りた。重力すらも手懐けたかのような「シャドウ・ステップ」による無音の着地。私は毒島の背後の死角へと、完璧に回り込んでいた。


「――そこまでです」


 私の冷たい声が、深夜の厨房に響いた。だが、毒島は並外れた反射神経を持つプロだった。私の気配を察知した瞬間、彼は斉藤を突き飛ばし、振り返りざまに右手の「超微細エアロゾル注射器」を私の首元に向けて突き出してきた。カチリ、とガスの圧縮音が響く。


 私は瞬時に「特殊合金製無反射小太刀」を鞘のまま抜き放ち、その漆黒の鞘を盾にして注射器の先端を弾き飛ばした。プシュー、と鋭い音を立てて、無色透明の有毒ガスが至近距離で噴射される。わずかに風に流れたガスが私の左腕の袖に触れた瞬間、ジュウと衣服が焦げる音がし、皮膚に刺すような激痛が走った。化学火傷だ。


「ちっ、死神の小太刀か……! 噂通りの身のこなしだな!」


 毒島は私の正体を察しているかのように薄笑いを浮かべ、調理台の上の金属製のボウルや鍋を足で激しく蹴り飛ばした。ガシャーン、とけたたましい金属音が狭い厨房に響き渡る。音の反響によって私の聴覚を狂わせ、位置を誤認させるための古典的な目眩ましだ。


 だが、私には月明かりが作る影の動きが見えていた。私は痛む左腕をかばいながら、小太刀の鞘を握り直し、暗闇の中で毒島と対峙した。彼の左袖の奥から、さらなる不穏な金属の光が滑り落ちてくるのが見えた。

HẾT CHƯƠNG

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