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歪んだ温もりと揺らぐ剣

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濡れた土の匂いと、雨上がりの冷たい空気が和風庭園を支配していた。朝の八時四十分。厨房の勝手口から外へ踏み出した私の目の前には、湿った黒土の上に点々と続く小さな足跡があった。大人にしてはあまりにも歩幅が狭く、頼りないその足跡は、竹林の生い茂る庭園の奥へと向かって伸びている。


(この足跡の主を、本邸の松代に報告される前に確保しなければならない。斉藤を二重スパイに仕立て上げたこの工作が漏れれば、私と蓮様の命はない)


 私は呼吸を整え、足音を完全に消す「隠密移動『シャドウ・ステップ』」を展開した。濡れた落ち葉の一枚すら音を立てさせず、影のように滑るように竹林へと侵入する。密集する青竹の隙間から差し込む朝の光が、地面に複雑な格子模様を描いていた。その静寂を破るように、かすかな衣擦れの音と、押し殺したすすり泣きが私の耳に届いた。


 太い竹の幹の影に、小さな身体を縮めて震えている人影があった。別邸の若いメイド、春香だ。彼女は可憐なメイド服の裾を泥で汚しながら、両手で胸元を固く抱きしめていた。その手の中には、実家の母親から送られたという無病息災を祈るお守り袋が握りしめられている。


「……春香さん」


 私が静かに声をかけると、彼女は「ひっ!」と短い悲鳴を上げて飛び上がった。怯えきった瞳が私を捉え、彼女の身体は狂おしいほどに震え始める。今にも大声を上げて逃げ出そうとする彼女の前に、私は一瞬で間合いを詰め、その小さな唇を優しく、しかし確実に右手で塞いだ。


「騒がないでください。あなたを傷つけるつもりはありません」


 私の冷たい、しかし穏やかな声に、春香は涙をボロボロとこぼしながら必死に頷いた。ゆっくりと手を離すと、彼女は地面にへたり込むようにして声を漏らした。


「ごめんなさい、ごめんなさい……! 私はただ、松代さんに言われて、厨房の様子を見てくるように言われただけで……! 斉藤さんをあんな風にするなんて思わなくて……殺さないで、お願い、殺さないで……!」


 彼女の細い肩が、恐怖で激しく上下している。プロの暗殺者だった頃の私なら、秘密を保持するためにこの場で彼女の息の根を止めていただろう。だが、今の私は「雇われボディーガード」だ。主人の安全を守るためには、屍を積み上げるよりも、味方を増やす方が遥かに合理的だ。それに、彼女の震える手の中にあるお守り袋が、私の胸の奥にある「妹・芽衣」の面影を呼び起こしていた。


「春香さん、あなたがお母様を大切に思っているように、私にも守りたい大切な家族がいます。あなたが松代さんに脅され、不本意ながらスパイ行為をさせられていたことは知っています」


 私は彼女の前に視線を合わせるように跪き、不器用ながらも精一杯の温もりを込めて語りかけた。


「これ以上、大切な人を悲しませるような暗い仕事に関わるのはやめましょう。松代さんには、私が上手く言い訳を作ります。だから、これからは私に協力してくれませんか。若君を守るために、あなたの力を貸してほしいのです」


「え……?」


 春香は信じられないといった様子で私を見つめた。別邸の誰もが「気味の悪い女護衛」と陰口を叩く私が、自分を責めるどころか、その境遇に理解を示したのだ。彼女の瞳から恐怖が消え、代わりに深い安堵と救済の光が宿っていく。


「私……松代さんが怖かったんです。でも、若君をこれ以上苦しめたくない……。私にできることなら、何でもします。松代さんには、厨房は何も異常はなかったと報告します……!」


「ありがとうございます。その言葉だけで十分です」


 私は彼女の泥を払い、優しく立ち上がらせた。これで、松代の監視網に内側から小さな風穴を開けることに成功した。斉藤に続き、春香もまた、私たちの静かなる防衛網の一部となったのだ。


    *


 夜が訪れ、隔離別邸は再び不気味な静寂に包まれた。昼間の嵐が嘘のように静まり返った深夜、私は蓮様の主寝室の片隅に控えていた。重い遮光カーテンが完全に閉め切られ、部屋の中は月光すら届かない漆黒の闇に満ちている。盲目の若君が静かに眠るための空間を装うための、偽りの聖域。


 ベッドの中から、微かな衣擦れの音が響いた。和服の寝間着をまとった蓮様が、ゆっくりと身体を起こした。その焦点の合わない虚ろで美しい瞳が、暗闇の中で正確に私のいる方向へと向けられる。


「……冴子さん、そこにいるかい?」


 彼の儚げで、鈴の音のように澄んだ声が静寂に溶けていく。


「はい、蓮様。こちらにおります。何かご用でしょうか」


 私は一歩前に出た。蓮様はベッドの端に腰掛け、細く白い手で自らの額を軽く押さえた。その佇まいは、今にも壊れてしまいそうなほどに脆く見えた。


「いや……ただ、少し怖くなったんだ。昼間、君が僕のためにあの冷たいスープの毒を防いでくれただろう? 松代たちのあの冷酷な目、そして別邸に満ちる見えない殺意……。もし君がいなかったら、僕は今頃、あの冷たい床の上で息絶えていたかもしれないと思うと、胸が苦しくなるんだ」


 蓮様は小さく肩を震わせ、まるで凍える子供のように自らの身体を抱きしめた。


「君のその強さと温もりだけが、この暗闇の檻で、僕が生きていることを実感できる唯一の救いなんだ。……ありがとう、冴子さん」


 その言葉は、私の胸の奥に潜む「人を守りたい」という不器用な感情を激しく揺さぶった。彼はただ、一族の醜い権力争いに巻き込まれ、光を奪われた哀れな被害者なのだ。私が命をかけて守らなければ、この美しい若君は一瞬で踏み潰されてしまう。


「そんなことはありません、蓮様。私はあなたの護衛です。どのような暗闇が訪れようとも、私があなたの盾となり、光になります。ですから、どうか恐れないでください」


 私が一歩近づいたその瞬間、蓮様は盲目のふりをして、ベッドの端から立ち上がろうとし、よろめくようにして前方に身体を傾けた。


「あっ――」


 「絶対防衛の鉄則」が、私の脳を介さずに肉体を動かした。私は瞬時に踏み込み、彼の細い身体を自らの両腕でしっかりと抱き止めた。ドサリと、微かな音を立てて、蓮様の身体が私の胸元へと倒れ込む。


 密着する二人の身体。彼の漆黒の髪から漂う微かな白檀の香りと、彼の柔らかい体温が、私のスーツ越しに直接伝わってきた。私の胸元に彼の顔が深く埋まり、彼の吐き出す規則正しい、しかし熱い吐息が私の鎖骨をかすめる。身体が硬直した。暗殺者として生きてきた私にとって、他者とのこれほどの身体的密着は、致命的な隙を意味する。だが、腕の中にある彼の軽さと脆さが、私の理性を麻痺させていく。


「……手が、冷たいんだ」


 蓮様は私の胸元に顔を埋めたまま、震える細い指先を伸ばし、私の右手を両手でそっと包み込んだ。彼の指先は、確かに凍えるように冷たかった。しかし、彼が指先を私の指の隙間に深く滑り込ませ、固く絡め合わせた瞬間、そこから言い知れぬ熱量が伝わってきた。感覚同調「タクティカル・タッチ」の、言葉なき同調が始まる。


「温めてほしい、冴子さん。君の手は……どうしてこんなに温かいんだろう。血の匂いなんて、少しもしない。僕を救ってくれる、聖女の手のようだ」


 温かい。その言葉が、私の脳内で爆発的な不協和音を奏でた。私の手は、これまで数え切れないほどの命を奪ってきた、血塗られた暗殺者の手だ。温かいはずがない。それなのに、この無垢な若君は、私の手を「温かい」と呼び、絶対的な依存を示すように自らの頬を私の手の甲に寄せている。


(感情を殺せ……。私は暗殺者――いや、今はただの護衛だ。主人に私情を抱いてはならない)


 私は必死に「感情殺害規定『無の境地』」を脳内で起動しようとした。自らの感情のスイッチを切り、彼を単なる「保護対象の肉の塊」として処理しようと試みる。だが、目の前にある彼の涙に濡れた美しい睫毛と、繋いだ手から伝わってくる彼の微かな脈拍の振動が、私の精神制御回路を執拗に遮断する。起動に、完全に失敗した。


 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン――。


 私の胸の奥で、心臓が早鐘を打ち始める。かつてないほどに脈拍が乱れ、早くなっていく。主人の身体を支える私の腕が、微かに震えていた。


 その時、私の胸元に顔を埋めていた蓮様の身体から、一瞬だけ、すべての「震え」が消失した。


 蓮様は目を閉じたまま、自らの「超感覚『絶対聴覚(心拍数の嘘検知)』」を極限まで稼働させていた。彼の耳は、至近距離で重なる私の胸の鼓動を、一切の豪雨の余韻すら排除して、克明に聞き取っていたのだ。


(――捕まえた)


 蓮様は、繋いだ手と私の胸元から伝わる、急激に乱れ狂う心拍の周波数を脳内で正確に解析していた。かつて冷酷無比な「死神」と呼ばれた女護衛が、今、自らの計算された「弱さと依存」の前に、完全に理性を揺らがせ、防壁を崩している。その絶対的な動揺の証拠。


 すべては彼の計算通り。いや、計算を超えた歪んだ悦びが、彼の冷徹な内面を満たしていく。この冷酷な剣を、自らの復讐の完璧な駒として、そして自分だけの「檻」に一生縛り付けるための、甘い罠が完成しつつある。


 蓮様は冴子に決して悟られぬよう、焦点の合わない虚ろな全盲の瞳の演技を維持したまま、暗闇の中で、美しい唇の端を密かに、深く歪めて冷酷に微笑んだ。

HẾT CHƯƠNG

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