冷たいスープに溶ける牙
「蓮様、待って――!」
私の叫びが、朝の静寂に包まれた隔離別邸の食堂に鋭く響き渡った。
(ポロニウム誘導体X……!)
その名前が、脳裏で赤い警告灯のように点滅する。暗殺組織「烏」の薬品室で、嫌というほど嗅がされたあの死の香り。鰹出汁のふくよかな香りの奥底に潜む、刺すような金属臭と、微かな苦いアーモンドの匂い。それは、常人の嗅覚では決して捉えられない、分子レベルの死の予兆だった。
蓮様の手が止まる。お吸い物のスープを満たした漆塗りのスプーンが、彼の青白い唇のわずか数センチ手前で静止していた。彼の焦点の合わない、虚ろで美しい瞳が、私の声に微かに揺れたように見えた。
しかし、私の身体はすでに思考を追い越していた。
「絶対防衛の鉄則――主人の肉体を盾にせよ」
暗殺者を辞め、ボディーガードとしての契約を結んだその日から、私の肉体には新たな反射回路が組み込まれている。床を蹴る足音すら消し去る「シャドウ・ステップ」の踏み込み。私は一瞬で蓮様の車椅子の傍らへと滑り込み、その細く冷たい手首を強引に掴み取った。
「――っ!」
蓮様の喉から、小さな息が漏れる。
私の指先が、彼の滑らかな皮膚に食い込む。掴んだ手首から伝わる彼の脈拍は、驚くほど平穏だった。命の危機に瀕しているというのに、彼の心臓はまるで静かな湖のように凪いでいる。だが、それを分析している余裕はなかった。私は彼の腕を強引に引き、唇へと向かっていたスプーンを力任せに弾き飛ばした。
カラン、と高い金属音が響き、スープが宙を舞う。
汁椀がテーブルの上でひっくり返り、温かいスープが白木の手すりや畳の上へと一気にこぼれ落ちた。お吸い物が触れた畳から、微かに、本当に微かだが、不気味な泡が立ち上る。
「な、何をなさるのですか……!」
給仕の姿勢のまま立ち尽くしていた松代が、金切り声を上げた。その冷ややかな目が、怒りと焦燥で引きつっている。
「桐生冴子! あなた、ボディーガードの分際で、盲目で無力な若君に対して何という暴力を振るうのですか! 手首を掴むなど、これは明らかな身体的虐待です!」
松代は私の前に立ちはだかり、テーブルの上の惨状を指差した。その指先が、怒りとは異なる理由で微かに震えているのを、私の「スメル・センサー」は見逃さなかった。彼女は知っている。このスープに何が入っていたかを。
「昨夜の不審な停電といい、あなたの不審な動きといい、もう我慢がなりません。今すぐあなたを解雇し、本邸の麗華様へ報告します! 警備隊! 誰か来なさい! この不届き者を今すぐ引きずり出すのです!」
松代はそう叫びながら、エプロンのポケットからスマートフォンを取り出そうとした。同時に、彼女はテーブルの上にこぼれたスープを隠蔽するように、手元にあった雑巾で床を拭き取ろうと身をかがめた。
「待ちなさい」
私の手が、松代の動きを遮った。
「な、何です……!」
「証拠を消させはしない」
私は松代の細い手首を掴み、そのまま調理台の角へと軽く押し付けた。元暗殺者としての冷酷な握力が、彼女の骨を軋ませる。松代は悲鳴を上げようとしたが、私の放つ圧倒的な「無の境地」の殺気に喉を塞がれ、喘ぐような声を漏らすことしかできなかった。
「無礼者……! 警備員、何をしている! この女を捕らえなさい!」
松代の叫びに応じて、食堂の入り口に警備隊員の高橋たちが駆け込んできた。彼らは黒田隊長の部下だが、実直な高橋は、部屋の中の異様な緊張感に戸惑い、銃を抜くべきか躊躇していた。
「高橋、動かないで」
私は冷たく告げた。
「このスープには、猛毒が混入されている」
「な……毒、ですか!?」
高橋が目を見開く。
「たわごとを! 斉藤料理長が心を込めて作った朝食に毒など入っているはずがありません! 自分の暴力を正当化するために、そんな見え透いた嘘を――」
松代が必死に叫ぶが、私は彼女を無視し、車椅子に座る蓮様を見つめた。
蓮様は、怯えたように自らの胸元を両手で押さえ、小さく肩を震わせていた。全盲の演技。その完璧な「瞳孔の死」を維持しながら、彼は怯える無力な若君として、衣服の胸元にそっと手をやっていた。
彼の細い指先が、和服の内ポケットから、あるものを取り出そうとしている。
(……澪様の形見)
それは、蓮様の亡き母である澪様が遺した、百合の花を模したプラチナのブローチだった。蓮様はそれを、まるでお守りのように握りしめていた。
「蓮様、そのブローチを」
私は彼の震える手から、そっとブローチを受け取った。蓮様は抵抗せず、焦点の合わない瞳のまま、私の手にその冷たい金属の塊を委ねた。
私はブローチを裏返した。その裏面には、澪様がかつて仕込んだとされる、特殊な銀の試薬層が施されている。特定の重金属や有毒化学物質に触れると、化学反応を起こして表面のダイヤモンドが赤黒く曇る仕組みだ。
私は、畳の上にこぼれ、微かに泡立っているスープの池に、ブローチの裏面をそっと浸した。
じわ、と不気味な音が聞こえたような気がした。
「――あ」
高橋が、思わず声を漏らした。
スープに触れた瞬間、ブローチの裏面のプラチナが、見る見るうちに不気味な錆のような色に変色していった。そして、表面に埋め込まれていた美しいダイヤモンドの輝きが、内側から湧き上がるような赤黒い濁りによって、完全に曇り果てたのだ。
食堂の空気が、一瞬にして氷点下へと氷結した。
「これは……」
高橋が、震える声で呟く。
「ポロニウム誘導体X。摂取すれば、数ヶ月かけて徐々に自律神経を破壊し、最終的に突然の心不全を引き起こす、検視でも検出が極めて困難な蓄積型の猛毒です」
私はブローチを松代の目の前に突きつけた。
「このブローチの試薬層は、その毒物にのみ反応して変色するように設計されています。松代、これでも私の『暴力』を理由に解雇を主張しますか?」
松代の顔から、完全に血の気が引き、土気色へと変わっていった。彼女の唇が、小刻みに震え、言葉を失っている。
「警備員、状況を理解しましたか」
私は高橋を見つめた。
「これは、神崎財閥の正当な後継者に対する、明らかな殺人未遂事件です。そして、その毒が混入されたのは――この別邸の厨房以外にあり得ない」
高橋は、赤黒く曇ったブローチと、松代の怯えきった表情を交互に見つめ、深く唾を飲み込んだ。彼はもはや、松代の「解雇命令」に従う気は毛頭なかった。
「……桐生さんの言う通りだ。これは、警察や顧問弁護士に報告すべき重大な事態だ」
「報告は、東郷弁護士に私から直接行います。それまで、この食堂と床のスープは現場保存とし、誰も立ち入らせないでください」
私は冷徹に命令を下した。ボディーガードとしての権限を、実質的にこの場で完全に掌握した瞬間だった。
松代は、崩れ落ちるようにして床に跪いた。彼女の「デイリー・レポート・システム」による本邸への報告義務も、この証拠の前には無力だった。
私は、車椅子に座る蓮様をそっと見つめた。
彼は、まだ怯える演技を続けながら、繋いだ私の手のひらを、微かに、本当に微かに、指先で二回だけトントンと叩いた。
(――ありがとう、冴子さん)
言葉には出さない、感覚同調の合図。その微かな振動が、私の手のひらを通じて、凍りついた心臓を激しく揺さぶる。彼の心拍数は、相変わらず平穏なまま、私の動揺を「絶対聴覚」で楽しむように刻まれていた。
私は松代を冷酷に見下ろし、小太刀の柄に手をかけたまま、告げた。
「厨房を、隔離します」
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