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静寂の朝と甘い嘘

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嵐が去った神崎家の隔離別邸は、嘘のように静まり返っていた。雨上がりの湿った空気が、広大な和風庭園の松の葉と濡れた土の匂いを運んでくる。夜明けの白い霧が立ち込める回廊に立ち、桐生冴子は冷たい手すりに手を置いていた。その黒いパンツスーツの袖口からは、昨夜の死闘を物語る血の匂いは完全に消え去っている。


「……片手間でやるには、少し骨が折れたな」


冴子は懐から取り出した超薄型のスマートフォンに視線を落とした。画面には、裏社会のハッカーであり長年の相棒であるジャックからの暗号化メッセージが表示されている。


『お掃除完了。例の「烏」のネズミ三匹は、別邸の監視カメラの死角を突いて極秘裏に搬出した。今頃は都内の防音セーフハウスで転がってるよ。カメラ映像は「ゴースト・イン・プロトコル」で昨夜の静止画ループに書き換えておいたから、本邸のババア(麗華)には何もバレてない。安心していいよ、死神さん』


冴子は無表情のまま画面を消去した。木村たちが残した血痕も、割れた調度品も、夜明け前にすべて処理し終えた。蓮の寝室の障子も、予備の新しいものにすげ替えられている。表向き、昨夜の別邸には「何も起きなかった」のだ。


「桐生、さん……」


背後から、躊躇いがちな、しかし酷く怯えた声が響いた。冴子が振り返ると、そこには別邸の警備隊長である黒田勇次が立っていた。制服の襟をきっちりと正してはいるが、その額には冷や汗がにじみ、顔色は土気色に変色している。


「昨夜の、その……システムの不具合についてだが」


黒田は腰のホルスターに手を置いたまま、精一杯の威厳を保とうと声を絞り出した。だが、その指先が微かに震えているのを、冴子の鋭い眼光は見逃さない。


「深夜にメインブレーカーが落ち、通信が一時的に遮断された。大型の台風による一時的な漏電、つまりは不可抗力の『バグ』だ。本邸にはそう報告する。お前も余計な口は慎めよ」


言い訳。それも、あまりにも稚拙な。冴子は何も言わず、ただ黒田の目をじっと見つめた。彼女の瞳には、一切の感情が宿っていない。暗殺者として無数の標的を死の淵に追い込んできた、底知れない「死」の深淵がそこにあった。冴子の無言の圧力をまともに浴びた黒田は、息を呑み、思わず一歩後退した。


冴子はゆっくりと歩み寄り、黒田の目の前でスマートフォンを起動した。画面に表示されたのは、昨夜のシステム遮断の「生データ」ログだ。


「バグ、ですか」


冴子の声は、早朝の空気よりも冷たかった。


「昨夜午前二時十四分、別邸の防犯システムを物理的にバイパスした形跡があります。使用されたのは、警備隊長であるあなたの個人認証コード。さらに、その三分後、あなたは神崎本家の私設電波帯である『446.5メガヘルツ』を使用して、外部の不審車両と連絡を取っている。……これらすべてのログデータは、すでに私の個人サーバーを介して、本家の顧問弁護士である東郷誠一郎氏の元へ自動送信されるようセットされています」


「な、何だと……!?」


黒田の顔面から完全に血の気が引いた。彼は腰の拳銃に手をかけようとしたが、冴子はすでに彼の間合いの内側に踏み込んでいた。彼女の手は、いつでも黒田の喉笛を小太刀で切り裂ける位置にある。その圧倒的な殺気の前に、黒田は金縛りにあったように動けなくなった。


「あなたを今すぐここで排除することは容易い。ですが、本家が任命した警備隊長を私が独断で処分すれば、麗華様に余計な警戒を抱かせることになります。だから、泳がせてあげる」


冴子は黒田の耳元に顔を寄せ、凍りつくような声で囁いた。


「昨夜のことは、あなたの報告通り『不可抗力のバグ』として処理しなさい。本邸の麗華様には『暗殺は護衛の抵抗により一時的に失敗したが、機会を窺っている』とでも嘘を吐いておくこと。……もし裏切れば、あなたの口座にある麗華様からの不審な送金履歴を含め、すべての証拠を白日の下に晒します。わかったら、私の視界から消えて」


「く、くそっ……!」


黒田は屈辱と恐怖に震えながら、よろめくようにして回廊を走り去っていった。冴子はその後ろ姿を冷ややかに見送ると、小さく息を吐いた。敵を完全に排除できないのは「雇われ護衛」という立場の限界だが、これでしばらくは黒田をこちらの忠実な「盾」として利用できる。


朝食の時間が近づき、冴子は主寝室へと向かった。重い防音扉を開けると、部屋の主である神崎蓮が、すでに和服を整えてベッドの端に座っていた。遮光カーテンの隙間から差し込むかすかな朝光が、彼の端正な横顔を白く照らし出している。その光を失った虚ろな瞳は、冴子の立ち入った方向へと向けられた。


「冴子さん……? 起きていたんだね」


蓮の声は、昨夜の恐怖がまだ体内に残っているかのように微かに震えていた。彼はゆっくりと立ち上がろうとしたが、足元がおぼつかない様子で、身体を大きく揺らした。


「蓮様、危ないです」


冴子は瞬時に「シャドウ・ステップ」で間合いを詰め、倒れそうになった彼の細い身体をその胸でしっかりと受け止めた。抱きしめた瞬間、蓮の凍えるように冷たい体温と、驚くほど華奢な骨格の感触が伝わってくる。蓮は怯えるように、冴子の黒いスーツの袖を細い指先で強く握りしめた。


「ごめんね……。昨夜、あの嵐の音の向こうで、誰かの恐ろしい叫び声が聞こえたような気がして。暗闇が、いつもよりずっと冷たくて、怖くて……。目が覚めた時、冴子さんが隣にいないんじゃないかって、不安だったんだ」


蓮は冴子の胸元に顔を埋め、まるで母親に縋る子供のように身を寄せた。その震える肩と、すがるような甘い声。冴子は、かつて暗殺者として生きてきた己の冷たい胸の奥が、不器用に締め付けられるのを感じた。


(この人は、何も知らない。昨夜、自分のすぐ目の前で血が流れ、暗殺者たちが屠られたことも……。私が『死神』と呼ばれる裏切り者の殺人機械だということも)


冴子は、蓮のその無垢な「偽りの甘え」に対して、どう応じるべきか戸惑っていた。他人の好意や依存に触れた経験が、彼女の人生には決定的に欠落していたからだ。だが、彼の細い背中にそっと手を添え、優しく彼を支えながら、冴子は静かに告げた。


「安心してください、蓮様。私はあなたのボディーガードです。どのような暗闇が訪れようとも、私があなたの盾となり、光となります。だから、何も恐れる必要はありません」


「……ありがとう、冴子さん。君がそう言ってくれるなら、僕はどんな檻の中でも生きていける」


蓮は顔を上げ、焦点の合わない虚ろな瞳で冴子の顔があるであろう方向を見つめ、儚げに微笑んだ。その美しく、どこか退廃的な笑みに、冴子は一瞬だけ視線を奪われた。


だが、冴子は気づいていなかった。


自らの胸元に顔を埋めていた蓮が、その「絶対聴覚」を用いて、冴子の心臓が自分に触れられた瞬間にだけ、毎分八十回という不規則な「動揺の鼓動」を刻み始めたことを正確に聞き取っていたことに。


(可愛い人だ。昨夜あれほど冷酷に人を殺した心臓が、僕の軽い甘えだけでこんなに激しく揺らいでいる。……君のその不器用な優しさも、僕を守るための鋭い牙も、すべて僕の檻の中に閉じ込めてあげるよ)


蓮は心の中で冷酷に囁き、唇の端を歪めた。だが、その表情は一瞬で消え去り、再び無垢で無力な若君の仮面が彼の顔を覆う。冴子は彼を優しく車椅子へと導き、朝食が用意されたダイニングテーブルへと移動させた。


食堂に入ると、本邸から送り込まれたスパイの家政婦頭である松代が、すでに冷淡な表情で朝食の給仕を始めていた。テーブルの上には、丁寧に作られた和食の膳が並べられている。湯気を立てる味噌汁、焼き魚、そして蓮の前に置かれた、美しく透き通ったお吸い物のスープ。


「若君、朝食でございます。昨夜は嵐が激しゅうございましたが、よくお眠りになれましたか?」


松代は冷ややかな目で蓮と冴子の距離感を観察しながら、慇懃無礼に問いかけた。その目は、別邸内の不審な変化や、冴子の態度に微かな違和感を抱いているようだった。


「うん、ありがとう、松代。冴子さんが側にいてくれたから、よく眠れたよ」


蓮は大人しく答え、スプーンを手に取ってスープを口元へと運ぼうとした。


その瞬間だった。


冴子の鼻腔を、常人には感知できない極微量の「異臭」が掠めた。鰹出汁の豊かな香りの奥深くに隠された、冷たく、刺すような金属臭――そして、微かなアーモンドの匂い。


冴子の脳裏に、かつて暗殺組織「烏」の薬品室で叩き込まれた、ある猛毒のデータが瞬時にフラッシュバックした。


(――ポロニウム誘導体X!)


致死量に達すれば、検視官にも病死としか診断できない、自律神経を徐々に麻痺させる蓄積型の劇薬。それが、今、目の前のスープから静かに立ち上っている。


「蓮様、待って――!」


冴子の瞳が激しく見開かれ、彼女の身体は思考よりも先に動いていた。

HẾT CHƯƠNG

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