死神の証明と暴かれた牙
カチャリ、と真鍮のドアノブが、ミリ単位で回転を始めた。
豪雨が隔離別邸の瓦根を叩き、激しい風の音がすべてをかき消す深夜二時。主寝室の扉の前に立つ刺客――暗殺組織「烏」の末端構成員である木村は、自らの暗殺が成功することを疑っていなかった。電子防犯システムは、内通者である警備隊長・黒田の手によって完全に遮断されている。目の前の部屋にいるのは、五年前の事故で光を失った、車椅子の無力な若君、神崎蓮。そして、その側に控えるのは、ただの雇われ女護衛に過ぎないはずだった。
だが、木村の背後に迫る「死神」の存在に、彼は最後まで気づかなかった。
頭上の暗闇――太い木製の梁の上に作られたキャットウォークから、桐生冴子の黒い影が、重力を無視したかのように音もなく舞い降りる。足音も、衣擦れの音すらもない。極限の隠密移動「シャドウ・ステップ」だ。空気がわずかに圧縮される気圧の変化だけが、冴子の降下を示す唯一の予兆だった。
「――!?」
木村が本能的な悪寒を覚え、首を後ろへ巡らせようとした瞬間には、すでに遅かった。
冴子の細くしなやかな指先が、万力のような力で木村の右首筋と手首を掴んでいた。彼女は自らの感情を完全に殺す「無の境地」にいた。脳内から妹の病状や一切の迷いを排除し、目の前の敵を単なる「肉の塊」として処理する暗殺者としての精神制御。
冴子は間髪入れずに「骨関節無力化『関節砕き(ジョイント・クラッシュ)』」を起動した。敵の力を利用し、解剖学的に最も脆弱な角度へと手首を捻り上げる。
グシャ、という鈍く湿った骨の軋み音が、雨音に紛れて響いた。木村の右腕の関節が一瞬にして脱臼し、その手に握られていた光を反射しないタクティカルナイフが力なく零れ落ちる。冴子は左手でそのナイフを空中でキャッチし、木村が痛みに悲鳴を上げる前に、彼の喉元を自らの掌で強く圧迫して声を完全に封じ込めた。
「がっ、は……」
木村の目は驚愕と恐怖で丸くなり、声にならない喘ぎだけが漏れる。
だが、侵入者は一人ではなかった。木村の背後に控えていた二人の刺客が、暗闇の中で相棒が音もなく制圧されたことを察知し、即座に牙を剥いた。一人が懐から消音器付きの拳銃を抜き、もう一人が鋭い突きを放ちながら冴子の心臓を狙って踏み込んでくる。
冴子は木村の巨体を肉の盾にするように引き寄せ、拳銃の射線を遮りながら、同時にスーツの内側から「特殊合金製無反射小太刀」を逆手に抜いた。暗闇の廊下において、その漆黒の刀身は一切の光を反射しない。金属探知機すらもすり抜ける炭素繊維混入の刃が、無音で空気を切り裂く。
キィィン、と刃とナイフが激突する金属音が、一瞬だけ鋭く響いた。
冴子は相手の突進の勢いを利用し、小太刀の刃を滑らせるようにして、刺客が着用していた防刃ベストの隙間――首元と脇腹のわずかな露出部を正確に切り裂いた。頸動脈をかすめる一撃。刺客は首を抑え、血を噴き出しながら床に崩れ落ちる。無駄のない、あまりにも洗練された殺人技術。
最後の一人が焦燥に駆られ、手元に隠し持っていた高輝度のタクティカルフラッシュライトを起動した。強烈な光が冴子の目を貫き、その視界を真っ白に染め上げようとする。
「死ねっ!」
光の背後から放たれる拳銃の銃口。しかし、冴子は目をつむった。彼女の脳内には、光など必要なかった。弦間流剣術「気配遮断の呼吸」によって研ぎ澄まされた彼女の五感は、弾丸が放たれる直前のトリガーにかかる指の圧力、そして敵の衣服が擦れる微かな摩擦音から、その立ち位置をセンチメートル単位で逆算していた。
シュッ――。
冴子は「シャドウ・ステップ」で横へと滑るように移動し、銃弾の軌道をミリ単位で回避。光の源へと肉薄し、小太刀の柄(ポメル)で敵の顎の下を強烈に突き上げた。脳を揺さぶられた刺客は、引き金を引く間もなく、白目を剥いて床に沈んだ。
残されたのは、右腕を破壊され、喉を潰されかけて床に這いつくばる木村だけだった。
激しい豪雨が窓ガラスを叩き、稲光が漆黒の別邸を一瞬だけ白く照らし出す。その刹那の光の中で、木村は自分を見下ろす冴子の顔を、その冷酷極まる漆黒の瞳を視認した。
かつて暗殺組織「烏」において、標的を例外なく闇に葬り去り、組織を裏切って姿を消した伝説の特級暗殺者。その顔を、木村が忘れるはずがなかった。
「お、前……なぜ、ここに……」
木村は血を吐きながら、絶望に満ちた声を絞り出した。
「なぜ、お前が……裏切り者の『死神』が、こんなところにいる……!」
その言葉が廊下に響いた瞬間、冴子の瞳の奥に冷たい火花が散った。彼女は木村の言葉を、部屋の中にいる蓮に聞かせるわけにはいかなかった。過去の血塗られた因縁が、この無垢な若君の耳に届くことは、彼女のプロとしての誇りが、そして妹の治療費を守るための契約が許さない。
「静かに」
冴子は冷酷に囁き、小太刀の柄で木村の側頭部を容赦なく強打した。木村の意識は一瞬で刈り取られ、彼は言葉を失って床に崩れ落ちた。
廊下には、再び豪雨の音だけが響き渡る。三人のプロの刺客は、悲鳴を上げる間もなく、わずか数十秒のうちに完全な戦闘不能へと追い込まれていた。冴子は荒い息一つ乱さず、小太刀の血を衣服で拭うと、それを静かに鞘へと収めた。別邸の主寝室の調度品が戦闘によって一部破壊され、床には薄黒い血痕が広がっているが、主人の身に危険が及ぶことは防ぎきった。
しかし、冴子は気づいていなかった。
その主寝室のベッドの中、遮光カーテンに遮られた暗闇の奥で、神崎蓮が「絶対聴覚」を用いて、廊下で起きたすべての事象を、その心臓の鼓動まで克明に「視覚化」していたことを。
蓮の耳には、木村の骨が砕ける音、小太刀が肉を切り裂く微かな音、そして木村が最後に放った「裏切り者の死神」という言葉が、一字一句違わずに届いていた。
(裏切り者の死神……。やはり、君は僕の期待以上の『獲物』だ、冴子)
蓮は暗闇の中で、誰にも見せることのない冷徹な微笑を浮かべた。彼の心拍数は、戦闘の激しさを聴きながらも、毎分六十回の正常値を完全に維持していた。恐怖など微塵もない。むしろ、自分を守るためにこれほどの圧倒的な武力を振るう女護衛に対して、狂おしいほどの独占欲と執着が、彼の胸の奥で静かに鎌首をもたげていた。彼女の過去がどれほど血に塗れていようとも関係ない。その「死神の剣」が、今や自分のためだけに振るわれているという事実に、蓮は甘美な悦びを感じていた。
だが、蓮は即座にその本性を脳内の奥深くへと隠蔽した。瞳の焦点を完全に外し、表情を恐怖に歪め、震える手でベッドのシーツを握りしめる。「無力な盲目の若君」の完璧な演技規定――「瞳孔の死」の起動だ。
ガチャリ、と寝室のドアが静かに開かれた。
「蓮様、ご無事ですか」
冴子の声が響く。その声は、先ほどまで外で刺客を冷酷に屠っていたものとは思えないほど、静かで、プロフェッショナルな落ち着きを保っていた。しかし、彼女の衣服からは、消しきれない微かな血の匂いが漂っている。
「冴子さん……? 外で、不気味な音が……。誰かが、僕を殺しに来たの……?」
蓮は怯えた声で囁き、暗闇の中でよろめきながらベッドから身を乗り出した。彼の細く白い手が、冴子の黒いスーツの袖を必死に握りしめる。その手は、凍えるように冷たく震えていた。
冴子は自らの肉体を盾にするように蓮の前に立ち、その震える体を優しく、しかし強固に抱き止めた。
「大丈夫です、蓮様。ネズミが紛れ込んだだけです。私がいる限り、あなたに指一本触れさせはしません」
冴子の胸元に顔を埋めながら、蓮はその奥で規則正しく、しかし先ほどの戦闘時よりもわずかに「速く」脈打つ彼女の鼓動を聴いていた。人を殺す時には冷徹だった心拍が、自分を抱きしめる瞬間にだけ、微かに揺らいでいる。
(可愛い人だ。君のその温もりも、その鋭い牙も、すべて僕のものだ)
蓮は心の中で冷酷に囁きながら、冴子のスーツの袖をさらに強く握りしめ、怯える芝居を続けた。初夜の襲撃を防ぎきったことで、冴子への絶対的な信頼と、彼女を自らの復讐の「共犯者」として闇の深淵へ引きずり込むための、ねじれた愛の歯車が回り始めた瞬間だった。
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