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闇に蠢く足音

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キィィン、という耳鳴りのような極小の高周波音が完全に消失した瞬間、桐生冴子の全身の皮膚が粟立った。


それは、神崎家隔離別邸を二十四時間監視していた電子セキュリティシステムが、完全に停止したことを意味していた。雨を弾く窓ガラスの微細な振動、冷え切った廊下の軋み、それらすべてが防犯モニターのノイズから消え去り、別邸は漆黒の闇に沈む。


冴子は音もなく座禅を解き、四畳半の控室の闇の中で立ち上がった。スーツの胸元に手を滑らせ、衣服の下に隠した「特殊合金製無反射小太刀」の柄に触れる。冷たい金属の感触が、彼女の脳を「感情殺害規定『無の境地』」へと強制的に切り替えていく。


(黒田……やはり裏切ったか)


警備隊長である黒田勇次が、本邸の女帝・神崎麗華の息がかかった猟犬であることは着任時から見抜いていた。無線の周波数を麗華派の私的チャンネルに同期させていた不審な動き。そして、この嵐の夜を狙ったかのような突然のシステム遮断。すべては、物理的な襲撃のための「お膳立て」に他ならない。


冴子は懐から超薄型の通信端末を取り出したが、画面には「圏外」の文字が無機質に浮かぶのみだった。外部との連絡は遮断され、別邸は完全な「孤立無援の檻」と化している。表社会の警察も、東郷弁護士の介入も期待できない。この魔窟で蓮を守り抜くには、己の剣一本で敵を排除するしかなかった。


冴子は呼吸を「弦間流剣術『気配遮断の呼吸』」へと移行させた。肺腑の奥深くから極限まで息を吐き出し、心拍数を毎分四十回以下へと引き下げる。体温と存在感を周囲の冷たい空気と同化させ、闇そのものに溶け込んでいく。暗殺組織「烏(からす)」で死神と恐れられた彼女の隠密術が、漆黒の廊下に発現する。


控室の障子をわずか一ミリだけ開け、外の様子を伺う。廊下は完全な暗闇だが、冴子の研ぎ澄まされた視覚は、畳の上に仕掛けられたわずかな塵の動きすら捉えていた。彼女は懐から「極細特殊ワイヤー『テグス・スチール』」を取り出し、主寝室へと続く唯一のボトルネックである廊下の角に、床からわずか十センチの高さで無音で張り巡らせた。侵入者の足を止め、あるいはその足首を深く切り裂くための古典的かつ致命的なトラップだ。


「……さて、どこから来る」


冴子は天井を見上げた。日本家屋の頑強な梁。彼女は驚異的な跳躍力で無音のまま梁の上へと飛び乗り、メンテナンス用の狭い通路である「別邸の屋根裏キャットウォーク」へと身を潜めた。ここからなら、廊下を歩くすべての侵入者を上空からの死角で待ち伏せ、脳天から一撃で制圧できる。


その頃、別邸の主寝室。遮光カーテンが閉め切られたベッドの中で、神崎蓮は横たわったまま、静かに耳を澄ましていた。


彼の美しい瞳は光を失ったように虚ろに開かれていたが、その奥にある知性は、闇の中で研ぎ澄まされていた。彼には見えている。いや、彼の「絶対聴覚(心拍数の嘘検知)」が、この豪雨のノイズを突き抜けて、別邸内で起きている物理的な変化を克明に「視覚化」していたのだ。


トクン、トクン、トクン――。


まず聞こえたのは、正門脇の警備員詰所にいる黒田の、不自然に早鐘を打つ心拍音だった。黒田はシステムの「一時的な不具合」を偽装するため、無線の応答を意図的に遅らせ、冷や汗を流している。その臆病な心拍は、裏切りが成功したことへの興奮と恐怖に満ちていた。


そして、別邸の外周。雨音の隙間を縫って、極めて軽い、しかし等間隔の足音が近づいてくる。人数は三人。濡れた芝生を踏みしめる靴の沈み込み方、衣服の擦れる摩擦音の小ささ。一般の泥棒や素人の私兵ではない。歩行時に重心を一定に保ち、足音の周波数を雨音と同調させている。


(「烏」の暗殺者か。継母上も、ずいぶんと焦っているらしい)


蓮はベッドの中で、怯える「無力な盲目の若君」を演じるため、呼吸を浅く震わせた。だが、彼の内面は冷徹極まる計算で満ちていた。麗華が送り込んできた刺客のレベルは、かつて自分を失明(偽装だが)に追い込んだ「烏」の末端構成員と同等。その先兵として動いているのは、功名心に駆られた木村という名の男だろう。


しかし、蓮が最も関心を抱いたのは、その刺客たちの足音ではなかった。


彼の耳は、主寝室のすぐ外の廊下に潜む、もう一つの「呼吸」を捉えていた。


スー……、フー……。


かすかな、それでいて異常なほどに規則正しい呼吸。それは、彼の「専属護衛」として着任したばかりの桐生冴子のものだった。彼女の心拍数は、驚くべきことに毎分三十五回付近で完全に一定を保っている。これほどの極限の緊張状況下で、恐怖はおろか、高揚感すら完全に遮断されている。その心拍の静けさは、常人のそれではない。機械、あるいは――何百人もの命を奪ってきた、一線級の「殺人機械」のそれだ。


(桐生冴子……やはり、君はそちら側の人間だったんだね)


蓮は闇の中で、声を出さずに微笑んだ。彼女が暗殺組織「烏」の元エースであるという情報は掴んでいたが、実際にその気配を「絶対聴覚」で観察したことで、確信は絶対的なものとなった。彼女の呼吸は冷たく、鋭く、そしてどこか孤独な哀愁を帯びている。自分を守るために張り巡らされた彼女の殺気が、蓮にとっては妙に心地よく感じられた。


サッ、サッ――。


侵入者たちの気配が、別邸の玄関を突破し、廊下へと侵入した。木村を先頭にした三人の刺客は、無音の歩行で主寝室へと近づいてくる。彼らはプロだった。冴子が廊下に仕掛けた「テグス・スチール」の極細ワイヤーの不自然な空気の流れを、角を曲がる寸前で察知し、身を屈めてそれを軽々と跨ぎ越えた。


(気づかれたか。だが、冴子さんはどう動く?)


蓮はベッドの中で、白杖「サイレント・アイ」のグリップを静かに握りしめた。内部の超高感度マイクが、廊下の微細な音を拾い上げ、彼のイヤホンに同期している。


刺客たちの足音が、主寝室のドアの前でぴたりと止まった。木村が腰から光を反射しないタクティカルナイフを抜き、静かにドアノブに手をかける。


カチャリ、と真鍮のドアノブが、ミリ単位で回転を始めた。


その瞬間、蓮は耳を疑うほどの「無音の落下」を察知した。上空のキャットウォークから、冴子の黒い影が、重力を無視したかのように音もなく舞い降りる。木村の背後に、漆黒の死神の鎌が、音もなく迫っていた。

HẾT CHƯƠNG

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