蠢く影と深夜の不協和音
「僕のために、また手を汚させてしまったね」
耳元に吹きかけられた冷たい吐息とともに響いたその囁きは、私の鼓動をこれまでにない速度で跳ね上げた。
背筋を凍らせるような、深淵の底から響く冷酷な支配者の声。昼間のあの儚げで、今にも壊れてしまいそうな盲目の若君とは、似ても似つかない響きだった。私は反射的に身を硬くし、小太刀の柄を握る右手に力を込める。
しかし、私がその声の真意を問い詰めるよりも早く、背後の気配は音もなく揺らいだ。蓮様はふらりとよろめくようにして、私の肩にその細い額を預けてきたのだ。和服の衣擦れの音とともに、彼の弱々しい吐息が私の首筋をくすぐる。
「……ごめんね、冴子さん。僕、怖くて……。また兄上が僕を殺しに来るんじゃないかって、そう思ったら、息がうまくできなくて……」
掠れた、今にも消え入りそうな声。その手は怯える子供のように私のスーツの袖を固く握りしめており、微かに震えている。先ほどの冷徹な響きは、私の張り詰めた神経が見せた幻聴だったのだろうか。それとも、極限の恐怖が彼に一瞬だけ異様な冷徹さをもたらしたのだろうか。
「蓮様……大丈夫です。拓真様はもう去りました。この別邸には、指一本触れさせません」
私は「感情殺害規定『無の境地』」を必死に稼働させ、乱れた心拍を平坦な領域へと押し戻しながら、彼を優しく車椅子へと座らせた。蓮様は焦点の合わない虚ろな瞳を彷徨わせ、弱々しく微笑む。
「ありがとう、冴子さん。君がいてくれて、本当によかった……」
その無垢な微笑みに胸を締め付けられながらも、私の脳裏には微かな不協和音が残り続けていた。あの声の冷たさは、本当にただの幻聴だったのか。
*
翌日、別邸には張り詰めた緊張感が漂っていた。拓真様と鮫島を力ずくで敗走させた代償は、決して小さくなかった。
家政婦頭の松代は、私を「主人に暴力を振るった狂犬」として本家に報告するための書類を執拗に作成しているようだったが、私の冷たい視線に怯え、直接的な嫌がらせには出てこない。黒田警備隊長もまた、私が握っている裏金送金のログデータという致命的な弱点があるため、私の動きを黙認せざるを得ない状態だった。別邸の主導権は実質的に私の手にあったが、それは薄氷の上の支配に過ぎない。
何よりも私を焦らせていたのは、拓真様が去り際に遺した言葉だった。
『病院で寝たきりの、可愛い妹とかさ』
芽衣。私のたった一人の家族。重い心臓病で聖マリア中央病院の特別病棟に入院している彼女の存在が、本家に完全に把握されている。麗華様がその気になれば、主治医を買収して点滴の薬量を操作することなど容易いはずだ。
私は買い出しの僅かな合間を縫って、情報屋のジャックに極秘の暗号通信を入れた。
『ジャック、私だ。聖マリア中央病院の特別病棟の監視を強化してほしい。特に、芽衣の病室周辺に出入りする不審な医療関係者や、本家からの接触がないか、24時間体制でログを追って』
『了解、冴子。お前の妹さんのことだ、最優先で電脳の盾を張ってやるよ。だけど気をつけろ。本家が動き出しているってことは、別邸の包囲網も次の段階に進むってことだ。お前が守っているその「盲目の若君」も、本当にただの被害者なのかどうか、俺にはまだ引っかかるんだよね……』
ジャックの言葉が、私の胸の奥の不協和音をさらに大きくする。だが、私には蓮様を疑う余地などなかった。彼は失明し、一族の権力闘争の中で幽閉されている哀れな犠牲者なのだ。私が彼を守らなければ、彼は確実に殺される。
左腕の化学火傷の傷口が、昼間の格闘の負荷で再び開き、スーツの下でじくじくと血を滲ませていた。私は痛覚を脳の奥底へと押しやり、ただ無言で別邸の廊下をパトロールし続けた。
*
深夜二時。別邸は完全な静寂に包まれていた。雨は上がり、濡れた和風庭園の木々から滴る水滴の音だけが、時折、静かに響く。
私は「弦間流剣術『気配遮断の呼吸』」を起動し、自らの心拍数と体温を周囲の冷たい空気と同調させながら、廊下を無音でパトロールしていた。床板の軋み音を完全にゼロにする隠密歩行。元暗殺者としての本能が、別邸内の微細な変化を察知するために五感を研ぎ澄ましている。
蓮様の主寝室の前に差し掛かったその時だった。
私の鼓膜が、極めてかすかな、しかし連続する奇妙な高周波の電子音を捉えた。それは、防音設備が施されているはずの主寝室の扉の隙間から、ミリ単位の空気の振動となって漏れ聞こえていた。
ジジ……、ジジ……。
いや、それだけではない。電子音の背後から、規則的な、驚異的な速度で刻まれる微小な打鍵音が聞こえてくる。
カタカタカタカタカタ――。
常人には豪雨の余韻や風の音にかき消されて聞こえないであろう、超高速のタイピング音。別邸の電子機器はすべて黒田の詰所で管理されており、蓮様の部屋にはパソコンなどの端末は一切置かれていないはずだった。ましてや、全盲の蓮様がこのような速度でキーボードを叩けるはずがない。
私は息を止め、さらに主寝室の扉へと近づいた。気配を完全に消し、扉の隙間に耳を寄せる。
打鍵音が不意に止まり、代わりに、低く冷徹な、大人の男性の声が聞こえてきた。それは、昨日の早朝に私の耳元で囁かれた、あの深淵の声そのものだった。
「……神崎グループの関連株、30万株の空売りを追加で実行しろ。パナマのダミー口座を経由させろ。麗華の資金洗浄ルートに不審な買いが入った瞬間に、一気に市場から資金を引き抜く」
冷酷極まる投資の指示。その声には、昼間の儚さも、怯えも、一切の揺らぎも存在しなかった。まるで世界を数字と確率だけで支配する、冷徹な相場師の風格。
続いて、室内のスピーカーから、極めて小さな音量で合成音声の読み上げが響く。
『神崎グループ株、30万株の空売りを実行しました。パナマ口座「アテナ」の残高は正常です』
私の全身の血が、一瞬にして凍りついた。
アテナ。それはジャックが以前、本家の裏資金を追跡している際にダークウェブで見かけた、正体不明の巨大な隠し口座のコードネームだった。その口座を動かしているのが、他でもない、この暗闇の部屋に閉じ込められているはずの蓮様だったというのか。
タイピング音が再び始まる。カタカタカタカタと、暗闇を切り裂く不協和音。
これは外部のハッカーの侵入ではない。寝室の内部で、蓮様自身が「見えている」状態で、高性能サーバー「オベロン」を操作し、神崎グループの株価を裏から操作する「シャドウ・トレード」を実行しているのだ。
騙されていた。
私の胸の中で、プロの護衛としてのプライドと、彼を無垢な存在として信じようとしていた不器用な感情が、激しく衝突し、砕け散った。裏切られた怒りと不信感が、私の体温を急激に引き上げる。
私は右手をスーツの内側へと滑らせ、特殊合金製無反射小太刀の柄を固く握りしめた。一切の光を反射しない漆黒の刃。私は呼吸を極限まで殺したまま、左手で主寝室の重いスライドドアの枠に指をかけた。
音を立てずに、ミリ単位で扉を引き開ける。
防音の隙間から、寝室の暗闇が姿を現した。常に閉め切られているはずの遮光カーテンの奥、ベッドの脇に設置された巨大な液晶モニターが、冷たい青白い光を放っている。
その光を浴びながら、キーボードの上に細く白い指先を走らせている青年の姿があった。
神崎蓮。
彼は車椅子から立ち上がり、背筋をまっすぐに伸ばしてモニターを見つめていた。その瞳は、昼間のあの虚ろで焦点の合わない死んだ瞳ではなかった。モニターに表示される複雑なチャートと数値を、驚異的な速度で追う、鋭く、冷酷な、完全に「見えている」光を宿した漆黒の瞳――。
その焦点の合った鋭い瞳が、ドアの僅かな隙間にいる私の方へと、静かに向けられた。
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