屈辱の代償と狂い出す歯車
「ボディーガードにも、守るべき家族がいるんだろう? ……例えば、病院で寝たきりの、可愛い妹とかさ」
拓真様の口から放たれたその言葉が、私の世界を一瞬にして凍りつかせた。
鼓動が、耳障りなほどの早鐘を打ち始める。私のたった一人の肉親であり、絶対的な弱点である妹――芽衣。彼女が神崎グループ傘下の特別病院に入院していることは極秘のはずだった。だが、目の前で卑しい笑みを浮かべる男は、その事実を完全に握っている。麗華様の手が、すでに妹の点滴にまで伸びているかもしれないという恐怖が、私の脳裏を最悪の速度で駆け巡った。
動揺を見せれば、そこで私の敗北が決まる。暗殺者として叩き込まれた防衛本能が、私の表情を鉄の仮面で覆い隠した。私は「感情殺害規定『無の境地』」を強引に起動し、跳ね上がる心拍数を無理やりフラットな領域へと引きずり下ろした。氷のような沈黙が、主寝室を満たす。
「はっ、図星か。急に静かになりやがって」
拓真様は私の硬直を「屈服」と誤認したのだろう。その血走った目に、下劣な勝利の光が宿った。彼は私の顎を乱暴に掴もうと、再び手を伸ばしてきた。
「いいか、雇われ犬。お前の妹の命は、俺たちの胸三寸でどうにでもなるんだよ。本家に逆らった犬がどうなるか、その身に教えてやる。鮫島、やれ。この女を力ずくで引きずり出せ。俺の部屋に連れ帰って、じっくり『教育』してやる」
拓真様の背後に控えていた巨漢、鮫島が不気味な笑みを浮かべて一歩前へ出た。鮫島組の若頭として、裏社会の修羅場をくぐってきた男だ。その体躯から放たれるのは、暴力に慣れきった生々しい血の臭い。鮫島はスーツの内ポケットから、漆黒の特殊警棒を滑り出させた。シャカッ、と鋭い金属音を立てて、三段式の警棒が伸長する。
「お嬢ちゃん、痛い目を見たくなかったら、大人しくお坊ちゃんに従うこったな」
鮫島はそう嘯くと、躊躇なく警棒を振り上げた。狙いは私の右肩。骨を砕き、戦闘能力を奪うための冷酷な一撃だ。豪風を切るような速度で、鉄の棒が私の視界を塞ぐ。
だが、私にとっては、その動きはあまりにも鈍重で、隙だらけの素人の足掻きに過ぎなかった。
衣服の下に着用している「防刃ベスト『ケブラー・ライト』」が、緊張で強張る私の胸元を締め付ける。私は「弦間流剣術」の極意に基づき、鮫島の打撃の軌道をミリ単位で見切った。最小限の身のこなしで、警棒の風圧を耳元で感じながら、その一撃を紙一重で回避する。
「――チッ、すばしっこいアマめ!」
鮫島は舌打ちし、今度は体格差を利用して私の下半身を崩そうと、低いタックルで強引に肉薄してきた。その巨体が、私の視界を完全に遮る。
(愚かな)
私は逃げる代わりに、一歩前へと踏み込んだ。「骨関節無力化『関節砕き(ジョイント・クラッシュ)』」。
鮫島が私の腰を抱え込もうとした瞬間、私の両手が機械的な正確さで彼の突進を受け流した。左腕の化学火傷の傷口が急激に引き裂かれ、スーツの下で生暖かい血が流れるのを感じたが、私の意識はその痛みを完全に無視していた。私は鮫島の突き出された右手首を掴み、彼の突進のエネルギーをそのまま利用して、解剖学的に不可能な方向へと一気に捻り上げた。
――バキッ!
深夜の調理場に響いたような、鈍く、湿った骨折音が寝室に響き渡った。鮫島の手首と肘の関節が、私の力によって瞬時に破壊されたのだ。
「がああああっ!? 俺の、俺の手首がァァッ!」
鮫島は獣のような悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。だが、私は攻撃の手を止めない。彼の重心が崩れた瞬間、私は彼の手首を掴んだまま一回転させ、その巨体を主寝室の磨き上げられた床へと力任せに叩きつけた。
ドゴォォン! と、凄まじい衝撃音が響き、床の板張りに微かな亀裂が入る。鮫島は肺の空気をすべて吐き出し、白目を剥いて痙攣した。私は素早くスーツの裾から「特殊合金製無反射小太刀」の鞘を引き抜き、彼の喉元へと強烈に押し当てた。これ以上の声を出させないための、無言の脅迫だ。鮫島は喉を潰されかけ、「ひゅっ、ひゅっ」と喘ぐような呼吸を漏らしながら、完全に無力化された。
部屋の中に、死のような静寂が戻る。いや、それは静寂ではなく、私の全身から放たれる圧倒的な「殺気」がもたらした、支配的な沈黙だった。
私はゆっくりと顔を上げ、立ち尽くしている拓真様を見つめた。
拓真様は、自らの最強の用心棒が一瞬で肉の塊へと変えられた光景が信じられないのか、口を半開きにしたまま硬直していた。その目は恐怖で大きく見開かれ、血の気が完全に引いた顔は土気色に変色している。
「ひ、ぃ……っ」
拓真様の喉から、情けない悲鳴が漏れた。私が一歩踏み出すと、彼は本能的な死の恐怖を感じたのだろう、よろめくようにして後退した。彼の足元はガタガタと震え、高級なスラックスの裾が小刻みに揺れている。
私の漆黒の瞳に宿る、かつて「死神」と呼ばれた本物の暗殺者の眼光。それが、拓真様の精神を内側から完全に粉砕していた。彼は自らの長男としての権力も、傲慢さもすべて忘れ去り、ただ目の前にいる怪物を前にして、身体をすくませるしかなかった。
部屋の隅では、メイドの春香が両手で口を抑えて驚愕しており、家政婦頭の松代は、私の「暴力」を本家に報告するための口実を得たとばかりに、震える手でスマートフォンの録画ボタンを押そうとしていた。だが、私の冷たい視線が彼女の指先に注がれた瞬間、松代は恐怖のあまりスマートフォンの画面を消し、床へと伏せた。
「……た、拓真様、ここ、は一時撤退を……!」
床に這いつくばったまま、黒田が消え入るような声で進言した。黒田もまた、私の実力が自らの警備隊を遥かに凌駕していることを再認識し、完全に戦意を喪失していた。
「く、くそっ……! 覚えてろよ、この狂犬め! お前も、その役立たずの弟も、ただで済むと思うな!」
拓真様は顔を屈辱と恐怖で真っ赤に染め上げ、呪いの言葉を吐き散らしながら、這いつくばる鮫島を置いて部屋から逃げ出した。鮫島は折れた右腕を抱え、うめき声を上げながら、転がるようにして主人の後を追っていった。間もなく、別邸の玄関ホールから、乱暴な車の急発進音と、奥多摩の森へと消えていくエンジン音が響き渡り、やがて不気味な静寂が別邸を包み込んだ。
私は小太刀の鞘をスーツの裏に収め、深く息を吐いた。左腕の火傷が熱く脈打ち、スーツの袖にじわりと血が滲んでいく。だが、私の心を満たしていたのは、肉体の痛みではなく、妹の安否に対する極限の焦燥だった。
その時だった。
背後から、衣擦れの音さえ立てずに近づいてきた影が、私のすぐ後ろに立った。
「僕のために、また手を汚させてしまったね」
耳元で、不気味なほど静かで、冷たい声が囁いた。それは、昼間の儚げな若君とは似ても似つかない、深淵の底から響くような、冷酷な支配者の声だった。
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