傲慢な来訪者と氷の威圧
包帯の上から重ねられた蓮様の唇の、熱を帯びた微かな残香が、私の肌にまだ生々しく刻まれていた。主寝室の重い防音扉の向こう側から、静寂を引き裂くように、奥多摩の深い山林を揺らす重低音のエンジン音が響いてこなければ、私はその甘美な戦慄にいつまでも囚われていたかもしれない。
「……蓮様」
私は反射的に身体を引き、プロの護衛としての表情を取り戻した。蓮様は名残惜しそうに指先を滑らせながら、再び焦点の合わない虚ろな「無力な盲目の若君」へとその瞳を戻し、静かに車椅子へと身体を沈めた。
私の黒いパンツスーツのポケットの中で、通信端末が静かに振動した。情報屋のジャックからの極秘暗号メールだ。
『緊急警告。麗華の愛息、神崎拓真が部下の鮫島を連れて別邸に向かっている。黒田がすでに正門のロックを解除した。目的は蓮の「失明」が本物かどうかの抜き打ち検査だ。冴子、昨夜の火傷が響くかもしれないが、持ちこたえろよ』
胸の奥が、冷たい怒りで満ちていく。毒島を用いた毒殺工作が沈黙した直後に、今度は直接的な揺さぶりか。麗華の焦燥が、この別邸に新たな牙を差し向けようとしていた。
バタバタと、静まり返った回廊を乱暴に踏みつける靴音が近づいてくる。洗練された高級革靴の音だが、その足取りは傲慢で、他者への配慮など微塵もない。神崎一族の長男であり、蓮様の異母兄――神崎拓真だ。その後ろには、安物の香水とタバコの臭いを漂わせる鮫島の、重く引きずるような足音が続いていた。
「おい、盲目の出来損ないはまだ息をしているか!」
主寝室の引き戸が、乱暴な力で蹴破るようにして開け放たれた。敷居をまたいだ拓真は、仕立ての良いイタリアンスーツを着崩し、血走った目に不快な笑みを浮かべて部屋を見渡した。その後ろには、金のネックレスを首元で光らせた巨漢の鮫島が、獲物を物色するような卑しい視線を私に向けて立っている。さらに、警備隊長の黒田が、額に冷や汗をにじませながら、おどおどと拓真の影に付き従っていた。黒田は私に裏切りのログを握られているため、私と目が合った瞬間に気まずそうに視線を逸らした。
「これは拓真様。事前の連絡もなく別邸を訪れるとは、どのようなご用件でしょうか」
私は一歩前に出て、毅然とした態度で立ち塞がった。しかし、拓真は私を虫ケラのように一瞥すると、鼻で笑った。
「黙れ、ただの雇われ犬が。お前ごときが俺に口を利くな。俺は、この部屋の隅で怯えている役立たずの弟に見舞いに来てやったんだよ」
拓真は部屋の奥、車椅子に座って静かに頭を垂れている蓮様へと歩み寄った。蓮様は細い指先を膝の上で固く握りしめ、肩を微かに震わせている。その瞳は、完全に光を失ったように虚ろで、焦点を結ぶことなく、拓真の足元あたりに向けられていた。
「相変わらず不気味な面をしやがって、蓮。お前がいつまでもこの檻にへばりついているせいで、本家の遺産整理が進まないんだよ。……おい、喉が渇いたな。茶を持ってこい」
拓真の横暴な命令に、廊下で控えていた若いメイドの春香が、ガタガタとトレイを震わせながら熱い紅茶の入ったカップをテーブルへと運んできた。春香の目は恐怖に泳いでいた。彼女は昨夜、私が斉藤を制圧した現場を目撃し、私の味方になることを誓ったばかりだったが、本家の長男という圧倒的な権力を前にして、身体がすくんでいるのだ。
拓真は春香からカップをひったくるように受け取ると、一口も飲むことなく、その熱い蒸気の立ち上る紅茶を蓮様の目の前に突き出した。
「おい、蓮。お前、本当に何も見えないのか? ……実は、麗華母親様を騙すために、その死んだ魚のような目で、見えているフリをしているんじゃないか?」
「兄上……僕は、本当に……」
蓮様は震える声で答えた。その「無力な盲目の若君」としての従順な演技は完璧だった。しかし、私の「絶対聴覚」は、彼の心拍数が、怒りを極限まで押し殺すために、不自然なほど一定の低いBPMを維持していることを聴き取っていた。彼は耐えている。復讐の刃を研ぎ澄ますために、この屈辱をすべて飲み込もうとしているのだ。
「フン、なら試してやるよ」
拓真は不敵な笑みを浮かべると、手元にある熱い紅茶の入ったカップを、わざと傾けた。
「おっと、手が滑った」
ジュウウッ! と、激しい音を立てて、沸騰したばかりの熱い紅茶が、蓮様の素足のわずか数センチメートル手前の畳へと注がれた。熱気と、立ち上る熱い蒸気が蓮様の肌を襲う。普通の人間であれば、本能的に悲鳴を上げて飛び退くか、あるいは瞳孔を急激に収縮させて視線を動かすはずの状況だった。
だが、蓮様は微動だにしなかった。
「盲目偽装演技規定『瞳孔の死』」。彼の瞳は、強い光を当てられた時のように虚ろなまま、焦点を一切変えず、ただ熱気が自らの足元をかすめるのを静かに受け入れていた。瞬き一つしないその美しい瞳の奥に、私は彼の狂気的なまでの執念を見た。私の胸の奥で、冷たい怒りの導火線に火がついた。
「なーんだ、本当にただの木偶の坊か。つまらん奴だな」
拓真は吐き捨てるように言うと、さらに調子に乗り、蓮様の髪を掴んで無理やりその顔を上げさせようと手を伸ばした。彼の薄汚い指先が、蓮様の漆黒の髪に触れようとしたその瞬間――。
私の身体は、思考を介さずに動いていた。
「絶対防衛の鉄則『主人の肉体を盾にせよ』」。
音も立てずに踏み込んだ私の右手が、拓真の伸ばした手首を、空中で正確に捉えた。衣服の下の防刃ベスト「ケブラー・ライト」が私の胸元を締め付け、昨夜の化学火傷の傷口が急激な運動によって引き裂かれ、激痛が走る。だが、私の指先には、元暗殺者としての、そして「弦間流剣術」の免許皆伝としての圧倒的な鋼鉄の握力が込められていた。
ミシミシ、と拓真の手首の骨が軋む不気味な音が、静かな寝室に響き渡った。
「がっ……!? あ、熱つっ、痛い! 何をする、このアマ!」
拓真は悲鳴を上げ、その顔を屈辱と激痛で歪ませた。私の指先は、彼の手首の経穴を正確に圧迫し、指先の神経を麻痺させていた。彼は自らの力で手を引くことすらできず、私の鋼の制止の中に完全に捕らえられていた。
「拓真様」
私の声は、早朝の氷河のように冷たく、一切の感情を排していた。
「神崎グループ警備規定、第十四条。護衛対象に対するあらゆる直接的な物理的接触、およびその威嚇行為は、不審者による襲撃とみなし、即時排除の対象となります。これ以上の接触は、ボディーガードとしての職務上、実力行使をもって制止せざるを得ません」
「な、何だと……!? 俺は神崎家の長男だぞ! 貴様のような雇われ犬が、この俺に指一本でも触れていいと思っているのか!」
拓真は激昂し、顔を真っ赤にして叫んだ。背後で控えていた鮫島が、懐の特殊警棒に手をかけ、一歩前へと踏み出そうとした。 Chief Guard の黒田もまた、拓真に加勢しようと身体を動かしかける。
しかし、私はただ、その二人に視線を向けただけだった。
私の漆黒の瞳に宿る、かつて数え切れないほどの命を闇に葬ってきた「死神」としての本物の殺気。その氷のように冷たい眼光が、鮫島と黒田の動きをその場で完全に氷結させた。鮫島は本能的な死の恐怖を感じて動きを止め、黒田は私に裏切りのログを握られている弱みから、それ以上踏み出すことができなかった。部屋の中のパワーバランスが、ただ一人のボディーガードの威圧によって、完全に逆転した瞬間だった。
「……離せ、離しやがれ!」
拓真は私の殺気に圧倒され、その声をごく微かに震わせながら叫んだ。私は彼の尊厳をこれ以上傷つけることなく、しかし確実な警告として、手首の経穴をもう一段強く圧迫してから、静かに手を離した。
拓真はよろめくようにして後退し、自らの赤く腫れ上がった手首をさすりながら、私を激しい憎悪と恐怖の入り混じった目で見つめた。しかし、その恐怖の裏で、彼の目が私の全身の輪郭を、その冷酷な美貌をいやらしい目で見つめ直すのを、私は見逃さなかった。彼の歪んだ所有欲が、私に対して向けられたのだ。
「面白い……。ただのボディーガードにしては、ずいぶんと良い腕をしているじゃないか。麗華母親様がわざわざお前を雇った理由が、少しだけわかったよ」
拓真は不敵な笑みを浮かべ、身なりを整えながら、部屋の入り口へと後退していった。鮫島が彼を庇うように立ち、黒田は這いつくばるようにして彼らの後に続こうとした。
だが、拓真は扉を閉める直前、振り返り、私に向けて氷のように冷たい、そして不気味な笑みを浮かべた。
「ボディーガードにも、守るべき家族がいるんだろう? ……例えば、病院で寝たきりの、可愛い妹とかさ」
その瞬間、私の心臓が、昨夜の戦闘時すら超える激しさでドクンと跳ね上がった。妹――芽衣の名が、彼の口から放たれたのだ。私の世界が、一瞬にして凍りついていくのを感じた。
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