死神の偽装と共犯の兆し
深夜二時五十五分。静まり返った隔離別邸の厨房には、じっとりとした鉄の匂いと、酸鼻を極める沈黙が満ちていた。
床に転がった毒使い・毒島の死体を見下ろしながら、私は冷たくなった小太刀を鞘に収めた。左腕の袖は引き裂かれ、皮膚に付着した猛毒のガスによって微かにただれた化学火傷が、脈打つたびに鋭い激痛を訴えかけてくる。だが、私は表情一つ変えず、毒島のポケットから回収したスマートフォンを見つめていた。
液晶画面には、神崎本家の女帝であり、私の雇い主でもある神崎麗華からのメッセージが浮かび上がっている。
『進捗はどう。蓮は死んだ?』
冷酷極まるその文字を見つめながら、私は懐から自身の端末を取り出し、裏社会の情報屋であり唯一無二の相棒であるジャックへ連絡を入れた。暗号化された回線が繋がると、耳慣れた軽薄な声が耳元に届く。
「やあ、冴子。こんな真夜中に連絡なんて、また厄介な死体でも転がってるのかい?」
「ジャック、仕事だ。別邸の厨房に、麗華が送り込んできた『毒島』の遺体がある。松代や警備隊に気づかれないよう、一時間以内に完全に消去して。それから、この男のスマートフォンの通信経路をハッキングしてほしい」
「おっと、あの毒殺魔の毒島か。相変わらず容赦ないねえ……。了解、十五分で僕の掃除屋を裏口に向かわせる。スマートフォンの回線偽装も任せておきなよ。パナマのダミーサーバーを経由して、麗華の監視網を欺くIPアドレスを構築してあげる。返信の文面はどうする?」
「『毒の投与は完了。若君の衰弱は計画通り順調に進んでおり、数日中には心不全を装って処理できる見込みです』……これで送信して。本邸を徹底的に油断させる」
「了解。二重の欺瞞工作の始まりだね。斉藤料理長の日報も書き換えておくよ。これで麗華は、自分の完璧な計画が進行していると信じ込む。……君の腕の火傷、早めに手当てしなよ。血の匂いは、あの『目ざとい若君』の耳をごまかせないからね」
「……わかっている」
通信を切り、私は隅でガタガタと震えている斉藤料理長に視線を向けた。彼は私の「死神」としての処刑を目の当たりにし、もはや声も出せないほど怯えきっている。
「斉藤さん、死体を運び出します。あなたは明日の朝、何事もなかったかのように蓮様の朝食を作りなさい。そして、松代には『若君の衰弱が始まっている』と、日報通りに口頭で伝えなさい。……もし裏切れば、あなたの家族の安全は保証しません」
「ひ、いいっ……! わかりました、何でもします、だから……!」
斉藤は何度も床に頭を擦りつけ、絶対服従を誓った。これで別邸内の二重スパイ体制は完成した。麗華の資金洗浄ルートから黒田警備隊長への不審な送金履歴をジャックが掴んでいる以上、この別邸の主導権は実質的に私の手にある。
間もなく、ジャックの手配した掃除屋が音もなく勝手口から現れ、毒島の遺体と戦闘の痕跡を完璧に消し去っていった。私は自室に戻り、左腕のただれた皮膚に簡易的な解毒剤を塗り、包帯をきつく巻き直した。スーツの袖を通すと、擦れるたびに火の出るような痛みが走るが、私は「無の境地」を起動し、その痛覚を脳の奥底へと押しやった。
*
翌朝。隔離別邸の食堂には、朝の柔らかな木漏れ日と、斉藤が作った和食の香ばしい匂いが漂っていた。昨夜の凄惨な暗闘など、まるで夢であったかのような静寂。
家政婦頭の松代は、斉藤の「若君の衰弱は順調」という報告を信じ込み、満足そうな薄笑みを浮かべて蓮様の様子を監視していた。蓮様は、焦点の合わない虚ろな瞳のまま、いつも通り静かに食事を口に運んでいる。その完璧な「瞳孔の死」を維持した演技は、松代の鋭い目を完全に欺いていた。
朝食が終わり、私は蓮様を車椅子に乗せ、主寝室へと案内した。重い防音扉が閉まり、松代の視線から完全に遮断された密室。そこは、私と蓮様だけの「偽りの聖域」となる。
「蓮様、お疲れではございませんか」
私は一歩下がり、いつもの合理的で冷徹な護衛の声で問いかけた。しかし、蓮様は車椅子からゆっくりと立ち上がると、白杖を持たないまま、私のいる方向へと静かに歩み寄ってきた。全盲を装う彼の歩行は、普段なら極めて慎重であるはずだった。
だが、今日の彼の動きには、微かな焦燥が混じっているのを、私の感覚は捉えていた。
「冴子さん……」
蓮様の声は、低く、そして不気味なほどに落ち着いていた。彼の「絶対聴覚」が、私の呼吸の微かな乱れを捉えたのだ。
「昨夜、厨房で何があったんだい? ……君の心拍数が、いつもより微かに高い。そして、君の左側から漂う、この匂いは何だ?」
蓮様は私の目の前で立ち止まり、その焦点の合わないはずの美しい瞳を、じっと私の顔へと向けた。彼の鼻腔が、微かに動く。防具の下に隠された、火傷の薬の匂い。そして、包帯の隙間から漏れる、微かな乾いた血の匂い。
「何もございません。昨夜はネズミが厨房に紛れ込んだため、駆除を行いました。その際、軽微な不手際で左腕を少し痛めただけです。蓮様がご心配されるようなことは何も」
私は嘘を吐いた。この無垢な若君に、深夜の血塗られた処刑の事実を教えるわけにはいかない。私は彼の「影」であり、汚れた仕事はすべて私が引き受けるべき契約なのだから。
しかし、蓮様はその答えに満足しなかった。彼はわざと足元をよろめかせ、私の左腕の方向へとその身体を倒し込んできた。完璧な「感覚同調」を応用した、意図的な接触。
「蓮様……!」
私は反射的に彼の身体を支えようと、左手を伸ばした。その瞬間、蓮様の細く白い指先が、私の左腕の焦げた袖の上から、包帯の巻かれた傷口を正確に、しかし容赦なく強く握りしめた。
「っ――!」
激痛が走り、私は思わず息を呑んだ。全身の筋肉が痛みに耐えるために一瞬にして緊張し、私の心拍数が跳ね上がる。その筋肉の硬化と、心臓の早鐘を、蓮様は触覚と聴覚で完全に捉えていた。
「嘘だね、冴子さん」
蓮様は私の胸元に顔を寄せ、その美しい唇の端を冷酷に歪めた。彼の囁きは、昼間の従順な若君のものとは似ても似つかない、底知れない支配者の色を帯びていた。
「この引き裂かれた衣服の繊維、そして皮膚が焼けた焦げ臭い匂い……。君は昨夜、僕の知らないところで、僕を守るために血を流した。そうだろう?」
蓮様の指先が、包帯の上から私の傷口をそっと愛撫するように優しくなぞる。その指先から伝わってくる、冷たい体温と、狂おしいほどの独占欲。私の「無の境地」は、彼の放つ圧倒的な心理的威圧の前に、完全に崩壊しかけていた。
「……それが、私の職務です。蓮様の安全のためなら、私の肉体がどのように傷つこうとも、それは契約の範疇に過ぎません」
私は冷徹な声を維持しようと努めた。だが、蓮様は私の手を強く引き寄せ、自らの顔を私の左腕へと近づけた。彼の美しい漆黒の髪が私の腕に触れ、微かな吐息が包帯の隙間に染み込んでいく。
「契約……? 違うよ、冴子さん。君はもう、僕の体の一部なんだ。君が傷つくことは、僕の目が、僕の魂が削られることと同じだ」
蓮様は静かに目を閉じ、私の傷ついた左腕をそっと自らの胸元へと引き寄せた。そして、彼は信じられない行動に出た。衣服の上から、包帯が巻かれた私の火傷の傷跡に向けて、自らの美しい唇をそっと押し当てたのだ。
温かい唇の感触が、包帯を通じて私のただれた皮膚に伝わる。その瞬間、私の心臓は、かつてないほどの激しさで早鐘を打ち鳴らした。
「僕のために傷つかないで、冴子さん……」
蓮様は私の腕に唇を寄せたまま、狂気的な執着と、演技を超えた本物の悲哀を込めて囁いた。
「君の痛みを、僕が半分引き受けられたらいいのに。……君を傷つけるすべての者を、僕は必ず奈落へ突き落とす。だから、僕の傍から離れないで」
その言葉は、私の胸の奥深くにある、決して他人に触れさせまいとしていた孤独な領域を、容赦なく抉り出していた。歪んだ愛と、絶対的な独占欲。この盲目の若君の瞳の奥に芽生えた本物の執着が、私を復讐の深淵へと、さらに深く引きずり込んでいくのを、私はただ静かに受け入れるしかなかった。
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