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檻の中の若君と死神の着任

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十月の冷たい雨が、奥多摩の深い山林に佇む神崎家の隔離別邸を濡らしていた。


周囲をそびえ立つコンクリートの壁と、張り巡らされた赤外線センサーに囲まれたその場所は、およそ人が暮らすための邸宅というよりは、高度なセキュリティを備えた「檻」そのものだった。


桐生冴子は、黒のパンツスーツに身を包み、濡れた石畳を静かに踏みしめていた。傘を打つ雨音が、彼女の無音の歩行をかき消していく。衣服の下には、金属探知機をすり抜ける特殊炭素繊維混入の「特殊合金製無反射小太刀」を隠し持っている。


「烏」――かつて彼女が所属していた暗殺組織を抜け、表社会で生きるために彼女が選んだのは、ボディーガードという役割だった。すべては、聖マリア中央病院の白いベッドで重い心臓病と闘う、十六歳の妹・芽衣の治療費を稼ぐため。神崎家から提示された月額三千万円という破格の契約金は、冴子にとって妹の命を繋ぐための唯一の生命線だった。


「お前が、新しく派遣されてきた雇われ護衛か」


別邸の重厚な玄関ホールで冴子を待ち受けていたのは、警備隊長の黒田勇次だった。黒田は無骨な体躯を警備隊の制服に包み、冴子を見下すような冷ややかな一瞥をくれた。その目は、明らかに新参者に対する敵意と、侮蔑に満ちている。


「はい。本日より神崎蓮様の専属護衛を務めます、桐生冴子です」


冴子はあえて視線を低く保ち、従順な「雇われボディーガード」を演じた。暗殺者としての本能が、黒田の全身から漂う「油断」と、その腰に下げられた無線の周波数を瞬時に分析する。無線のチャンネルは、公式な警備ラインとは異なる私的な周波数に合わせられていた。本邸の支配者であり、蓮の命を狙う継母・神崎麗華の派閥と密かに繋がっている証拠だ。


「女の細腕で何ができるか知らんが、ここでは余計な真似はするな。若君は失明されている。お前の仕事は、ただの飾り人形としてそこに立っていることだけだ」


黒田は鼻で笑うと、背を向けて立ち去った。冴子は無表情のまま、その背中を見送る。彼らの警戒を解くため、今は無力で地味な駒を装うのが最善だ。


家政婦頭の松代に導かれ、別邸の最奥にある主寝室へと案内される。重い防音扉が開かれると、そこは遮光カーテンが閉め切られ、昼夜の区別すら失われた漆黒の空間だった。


「若君、新しい護衛を連れてまいりました」


松代の冷淡な声が響く。部屋の片隅、端正な和服に身を包み、車椅子に座っている青年が静かに顔を上げた。


神崎蓮。神崎財閥の若君であり、五年前の不審な事故によって視力を失ったとされる存在。


その肌は病的なまでに白く、漆黒の髪が端正な顔立ちを縁取っている。焦点の合わない虚ろで美しい瞳が、冴子のいる方向へと向けられた。その佇まいは、壊れやすい硝子の細工物のように儚げで、深い哀愁を漂わせている。


「……初めまして、桐生冴子さん。僕の新しい『影』になってくれる人だね」


蓮はかすかに微笑み、細く白い手を冴子の方向へと伸ばした。冴子がその手をとると、凍えるように冷たい体温が伝わってくる。


「はい、蓮様。命に代えても、あなたをお守りいたします」


「ありがとう。でも、無理はしないで。僕みたいな役立たずのために、君が傷つく必要はないんだから……」


従順で儚げな若君の言葉。しかし、冴子の研ぎ澄まされた感覚は、彼が手を重ねた瞬間の、指先の微かな筋肉の緊張を見逃さなかった。まるで、こちらの重心や戦闘能力を測るかのような、極めて精密な触覚の探り。冴子は内心で息を呑んだが、表情には一切出さず、静かに手を引いた。


その時、松代が銀のトレイに載せられた夕食の膳を、テーブルの上に乱暴に置いた。


「若君、お食事です。ですが、私たちは本邸の仕事で忙しい身。これからは、そこの新しい護衛が若君のお食事をお手伝いすることになりました。ボディーガード様なら、そのくらいお手の物でしょう?」


松代は冷笑を浮かべ、冴子の力量と忠誠心をテストするように言い放った。盲目の若君を介護させることで、冴子に屈辱を与え、その反応を見ようという嫌がらせだ。


「畏まりました。これより私が蓮様のお食事をお手伝いいたします」


冴子は無表情にそれを受け入れ、完璧な所作で膳の前に跪いた。松代は満足そうに鼻を鳴らし、部屋の入り口に立ってその様子を監視し始めた。


冴子はスプーンを手に取り、温かいスープを蓮の唇へと運ぶ。その過程で、彼女の目は松代の視線の角度、そして部屋の隅に仕掛けられた微小な隠しカメラの死角を正確にプロファイリングしていた。


「冴子さん、ごめんね。僕がこんな体だから、君に余計な仕事をさせてしまう」


蓮は申し訳なさそうに眉をひそめ、スープを口にする。彼の呼吸は、恐怖に怯える若君そのもののように微かに震えていた。


だが、冴子は気づいていた。彼の呼吸の乱れは、喉の筋肉の動きと完璧に同期していない。まるで、意図的に「怯えた呼吸」を作り出しているかのような、常人離れした肉体制御。この若君は、ただ守られるだけの無力な存在ではない。冴子の胸の中に、冷たい警戒の火が灯る。


食事が終わり、松代が部屋を去ると、別邸内は再び息の詰まるような静寂に包まれた。


冴子は蓮の主寝室のすぐ隣にある、わずか四畳半の簡素な和室――「冴子の控室」へと退いた。蓮の寝息やかすかな物音を聞き逃さないよう、障子は一枚、指一本分だけ開けられている。


冴子はあえて部屋の明かりをつけず、畳の上に静かに座禅を組んだ。暗闇の中で五感を研ぎ澄ます。衣服の擦れる音、雨が屋根を叩く音、そして――隣の部屋から聞こえる、蓮の静かで規則正しい呼吸音。


彼女は懐から超薄型の特別認証デバイスを取り出し、別邸内の防犯カメラの位置をマッピングし始めた。ジャックから提供されたハッキングツールを用い、黒田警備隊の監視の目をかいくぐりながら、死角の経路を特定していく。


しかし、作業を開始してわずか十分後。廊下を静かに歩く足音が近づいてきた。冴子は一瞬でデバイスをスーツの内ポケットに隠し、姿勢を正す。


すっと障子が開けられ、松代がホウキを手に入ってきた。


「あら、桐生さん。お掃除に来ましたの。若君の近くは、常に清潔にしておかなければなりませんから」


松代は薄気味悪い微笑を浮かべ、冴子の部屋の隅々まで目を走らせた。冴子が不審な行動をしていないか、何か武器や通信機器を隠し持っていないかを探るための、執拗な巡回だ。


「お手数をおかけします」


冴子は静かに頭を下げ、松代が去るのを待った。松代が部屋を出た後も、冴子は作業を再開しなかった。黒田や松代の監視は、想定以上に緻密で執拗だ。今夜は睡眠をとることはおろか、一瞬の油断も許されない。


深夜二時。


嵐は激しさを増し、雷鳴が別邸の古い木造の骨組みを激しく揺らしていた。


冴子は暗闇の中、 seiza の姿勢を崩さず、右手を小太刀の柄にそっと添えていた。全身の細胞が、嵐のノイズの裏に潜む「異変」を捉えようと張り詰めている。


その瞬間だった。


キィィン――という、常人には聞こえないほどの極小の高周波音が、別邸の空気から完全に消失した。


それは、別邸全体の電子セキュリティシステムが稼働している際に発せられる、微弱な電磁音だった。廊下の天井裏、そして角に設置された監視カメラのドーム。その奥で小さく灯っていた赤いLEDの光が、瞬き、そして完全に消灯した。


自家発電のバックアップすら起動しない。これはシステムの不具合ではない。外周の防犯センサーと電源が、何者かの手によって物理的に、そして意図的に切断されたのだ。


完全な暗闇と、システムが沈黙した異常な静寂が、別邸を支配する。


冴子は音もなく畳から立ち上がり、小太刀の柄を強く握りしめた。漆黒の闇の中、彼女の瞳が冷徹な「死神」の光を宿す。


ついに、檻の結界が破られた――。

HẾT CHƯƠNG

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