当主の威光と朱き耳飾り
「千代――!」
私の悲鳴が、冷え切った離れ「氷華庵」の室内に虚しく響き渡った。
天井の闇から滴り落ちた黒き瘴気――怨霊の残滓「赤眼」が、鋭い漆黒の爪を、倒れ伏す千代の喉元へと振り下ろす。霊力を使い果たし、畳の上に膝を突く私には、もうその爪を阻む術は残されていなかった。間に合わない。視界が絶望に染まりかけた、その瞬間だった。
――轟ッ!
障子戸が凄まじい雷鳴と共に粉砕され、夜の闇を裂いて青白い光柱が室内に突入した。強烈な電磁の突風が赤眼の巨体を吹き飛ばす。光の渦の中から現れたのは、全身に青い稲妻を纏った巨大な狼――九条蓮の使役する霊獣「雷牙」であった。
雷牙は黄金の瞳を獰猛に輝かせ、赤眼を睨みつけると、その裂けた顎を開いた。
――グルゥゥ、オォォォッ!
「雷牙の咆哮」が放たれた。超高電圧を帯びた音波の衝撃波が同心円状に広がり、氷華庵の空気を激しく震わせる。千代の身体に触れる直前で、赤眼の黒い肉体が電撃の波動に捉えられ、悲鳴を上げる間もなく一瞬にして光の塵へと霧散した。あまりの威力に、室内に立ち込めていた「常世の香」の甘く金属質な瘴気さえも、一気に吹き飛ばされていく。
「……そこまでだ」
破壊された入り口から、冷たい霧を纏って現れたのは、黒い軍服風の外套を翻す男――九条家当主、九条蓮であった。その背後には、寡黙な護衛である白銀嵐が、油断なく「名刀・白雨」の柄に手をかけた状態で控えている。
蓮の氷青色の瞳が、荒れ果てた室内と、血を吐いて倒れ伏す私を冷酷に射抜いた。彼の右手の懐――新田の診療所で私の心臓を動かすために焦げ付いた、あの「同調の傷」が、誓約の共鳴によって微かに疼くのを私は肌で感じた。
「当主様……! なぜ、このような没落女の離れに……!」
足元を凍りつかされたままの家政長・松乃が、常世の香の狂気から覚めやらぬ瞳で叫んだ。しかし、蓮は彼女を一瞥することすらせず、ただ静かに右手を掲げた。
「九条の地に満ちる穢れよ、灰に帰せ――『雷霆の裁き』」
蓮が無詠唱で放った青い電光が、氷華庵の周囲に残る常世の香の残滓を瞬時に焼き払い、空気をごうごうとオゾン臭で満たした。その圧倒的な「大極」クラスの霊圧の前に、狂暴化していた使用人たちは次々と武器を落とし、恐怖に震えて畳の上に平伏した。松乃もまた、その場に崩れ落ち、ただ息を荒くするしかない。
蓮は倒れている千代の無事を確認するように嵐に目配せをすると、冷徹な声で命じた。
「松乃、そしてこの暴動に加わった者たちを拘束しろ。……当主の許可なく、この庵を包囲した罪、長老会の前で清算してもらう」
「はっ」
嵐が素早く松乃を拘束する。私は千代に駆け寄り、彼女の身体を抱き起こした。千代はかすかに目を開け、「詩織様……ご無事で……」と涙をこぼした。私は彼女の手を握り締め、そっと頷く。
立ち上がろうとした私の身体が、激しい眩暈でぐらりと揺れた。それを支えるように、蓮が冷たい手で私の細い手首を掴んだ。触れ合わされた皮膚から、彼の「熱」が流れ込み、私の月の霊脈を刺激する。首元の「朱き氷華の血約」の刻印が、ドクドクと熱く脈動し始めた。
「歩けるか、雪代の娘」
「……当然です。九条の男に、抱き抱えられて歩くほど、私は落ちぶれていませんわ」
私は彼の冷徹な瞳を見つめ返し、掴まれた手を自ら振り払った。胸元の包帯に血が滲み、右腕の赤い雷紋が疼くが、背筋だけはまっすぐに伸ばす。これが没落してもなお失わない、雪代の誇りだった。蓮は不快そうに目を細めたが、それ以上は何も言わず、踵を返した。
「ついて来い。本館の大広間へ。叔父上が、お前の首を刈り取ろうと手ぐすねを引いて待っている」
* * *
九条邸・本館、大広間。
重厚な大理石の柱が並び、ガス灯の光が冷たく床を照らす中、九条家の最高権力を握る長老たちが並んで座していた。中央には、傲慢な薄笑いを浮かべる叔父・九条茂臣。そして、その傍らには、頑迷固陋な血統主義の具現化である最高長老、九条五右衛門が、不機嫌そうに鼻を鳴らしながら杖を突いている。
「蓮よ、ようやく戻ったか」
茂臣が黒い扇子を弄びながら、大階段を降りてくる私たちを見上げて冷笑した。その足元には、先ほど嵐によって引きずり出された松乃が、縄で縛られたまま震えている。
「当主が不在の隙に、離れで没落雪代の娘が暴動を起こしたと聞いた。それだけではない。九条邸の境界を守る『要石の祠』の結界が不自然に弱まり、怨霊の瘴気が漏れ出している。……五右衛門長老、これは明らかに、雪代の娘が仕組んだスパイ工作に他なりません」
茂臣の言葉に、五右衛門が鋭い眼光を私に向け、地を這うような声で言った。
「やはり、雪代の汚れた血など、この九条に引き入れるべきではなかったのだ。要石の結界を破壊することは、帝都を奈落に落とすに等しい大罪。蓮よ、当主としての決断を下せ。今すぐこの女の心臓を抉り出し、要石の生贄として捧げるべきだ」
五右衛門の言霊が、大広間の空気を物理的に圧迫する。長老たちの敵意が、嵐のように私に集中した。しかし、私は一歩前に出ると、冷徹な微笑を浮かべて彼らを見据えた。身体の芯を走る激痛を、「痛みの分散呼吸法」で完全に平坦な仮面の下へと押し隠しながら。
「お言葉ですが、五右衛門長老。九条家ともあろう名門が、証拠もなしに濡れ衣を着せるとは、随分と落ちぶれたものですわね」
「何だと、小娘が!」
「要石の祠の結界が弱まったのは事実でしょう。ですが、その結界に刻まれた『傷跡』を、お調べになりましたの?」
私は懐から、かつて兄・雅人の形見であった「薄氷の懐刀」を抜き、その冷たい刃に映る光を茂臣に向けた。
「雪代流の氷華呪術は、熱を奪い、物質を凍結・硬化させて破壊します。もし私が結界を壊したのなら、祠の周囲には極低温の冷気の残滓があるはず。しかし、先ほど離れから感じられた霊脈の乱れには、微塵も冷気の波長はありませんでした。代わりに残っていたのは、霊脈の内側を黒く焼き焦がす、陰湿な雷の軌跡――『九条流・影雷呪術』の焦げ跡ですわ」
「な……何をデタラメを!」
茂臣の表情が一瞬、激しく動揺した。彼の得意とする「影から忍び寄る黒い雷」の特徴を、私が正確に指摘したからだ。没落したとはいえ、雪代家が保持する古代の呪術知識は、九条家の術式の癖を完璧に看破していた。
「証拠がないと言い逃れをなさるおつもり? ならば、今すぐ長老方の目の前で、祠の残滓と茂臣様の霊力を照合いたしましょう。月の霊脈を持つ私には、その違いを完璧に視覚化してみせることができますわ」
「おのれ、雪代の毒婦め……!」
茂臣が激昂し、懐の黒雷の扇子を握りしめた。大広間に一一触即発の緊迫感が漂う。
その時、沈黙を守っていた蓮が、ゆっくりと歩みを進めた。彼は腰の「雷切」を引き抜くと、大理石の床へと容赦なく突き立てた。
――ドッ、バチチチチッ!
強烈な青い稲妻が大広間の床を走り、長老たちの足元を威嚇するように弾けた。凄まじい霊圧が、広間全体を完全に支配し、全員の言葉を物理的に封じ込める。五右衛門さえも、その圧倒的な「大極」の威光の前に息を呑んだ。
「身内の不始末を、他家の娘のせいにするな、叔父上」
蓮の氷青色の瞳が、茂臣を射殺さんばかりに冷たく光った。彼の声は低く、しかし逆らうことを許さない絶対的な覇気に満ちていた。
「要石の祠の結界が弱まった原因は、我が九条家内部の『鼠』にある。それは私が追及する。……そして、五右衛門長老」
蓮は突き立てた雷切の柄から手を離し、私の隣へと歩み寄った。彼が近づくにつれ、首元の「朱の鎖」が激しく共鳴し、私の心臓が彼の心拍と同調してトクトクと高鳴り始める。蓮は私の首元に巻かれた、血の滲む白い包帯に細い指先をかけた。
「私の婚約者に手を出すことは、当主である私への反逆とみなす」
蓮は、私の首元の包帯を、優しく、しかし拒絶を許さない力で解いた。露わになった白い皮膚の上で、「朱き氷華の血約」の刻印が、まるで生きているかのように鮮やかに、朱く発光している。二人の命が、魂の深淵で一本の赤い鎖によって繋がっているという、動かしがたい既成事実が全員の目に晒された。
蓮は懐から、青白く澄んだ光を放つ美しい一対の耳飾り――「氷晶の耳飾り」を取り出した。それは、九条家の宝物庫に眠っていた、私の月の霊力を安定させるための秘宝だった。
蓮は私の顎を左手ですくい上げ、強引にその顔を向けさせると、右手で私の左耳にその耳飾りを装着した。彼の焦げ付いた右手が、私の頬に触れた瞬間、激しい熱と冷気が互いの肌を通じて融和していく。
(――あ……っ)
耳飾りを装着された瞬間、私の体内に、冷たく清らかな霊脈の奔流が流れ込んだ。暴走しかけていた月の霊力が完璧な安定を取り戻し、蓮の修行による「雷の余波」がもたらしていた、脳を灼くような激痛と痺れが、劇的に緩和されていく。まるで、荒れ狂う嵐の海が、一瞬にして静寂な鏡面へと変わったかのような劇的な変化だった。
私は驚愕して蓮を見つめた。彼は冷酷な微笑を崩さぬまま、私の耳元で、他者には聞こえない極めて低い声で囁いた。
「お前の命は、私の心臓だ。……勝手に壊れることは、私が許さん」
その言葉は、支配の宣言であり、同時にこれまでにない強烈な執着の証明であった。大広間は静まり返り、長老たちは蓮の圧倒的な威光と、血約の既成事実の前に、ただ沈黙するしかなかった。
しかし、茂臣は青ざめた顔に不気味な冷笑を浮かべ、黒雷の扇子を開いて言った。
「……素晴らしい当主の威光だ、蓮。だが、要石の結界が弱まっているのは紛れもない事実。当主の婚約者と言うならば、その雪代の娘の実力を、明日の『要石の祠』の修復の儀式で証明してもらいましょう。もし失敗すれば……その時は、当主の盾であっても、生贄となる運命からは逃れられんぞ」
茂臣の蛇のような視線が、私と蓮の間に冷たく突き刺さった。明日の儀式の裏で、さらなる致命的な罠が待ち受けていることを、彼の歪んだ笑みが物語っていた。
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