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悪夢を煽る常世の香

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新田の闇診療所の湿った空気の中で、私たちの間に横たわる沈黙は、冷たい鉛のようだった。


 診察台の上で上体を起こした私の視線の先には、床に膝を突いたまま、自身の右手を押さえている九条蓮の姿があった。彼の右手は、私の心臓を動かすために「太陽の霊脈」の熱雷を直接流し込んだ代償として、皮膚がどす黒く焼け焦げている。それは、血の誓約がもたらした新たな「同調の傷」だった。


「……なぜ、私を救ったの」


 私の掠れた声に、蓮はゆっくりと顔を上げた。その氷青色の瞳には、いつもの冷酷な光が宿っていたが、その奥には隠しきれない疲弊が滲んでいる。


「勘違いするな、雪代詩織」


 蓮は焦げた右手を懐にねじ込み、立ち上がった。


「お前が死ねば、誓約によって私も死ぬ。私はただ、己の心臓を守ったにすぎない。お前の命は、私の命を維持するための盾だ。無駄死にされては困る」


 冷淡な、いつも通りの拒絶。だが、私の胸の奥に眠る感情は、昨日までとは確実に異なっていた。脳裏に焼き付いた『記憶侵入術(マインド・ダイブ)』の残光――激しい雨の中、泥まみれになりながら父親の容赦ない落雷に耐え続けていた、幼い彼の孤独な姿。あの冷酷な仮面の下に、これほど深い傷を隠していたのだと知ってしまった今、かつてのような純粋な憎悪を彼に向けることができなくなっていた。私はそれを悟られぬよう、冷徹な仮面を被り直した。


 その後、私たちは白銀嵐の手引きによって、深夜のうちに九条邸へと帰還した。蓮は、今回の事件を「私の無断外出による衰弱」として処理し、私を本邸から離れた極寒の「氷華庵」へと再び幽閉した。それは、叔父である九条茂臣の目を欺くための、彼なりの「保護」であると、私は理解していた。


 しかし、氷華庵に戻った私の肉体は、毒素こそ濾過されたものの、極限まで衰弱していた。胸元には新田が巻いた白い「同調の包帯」が痛々しく残り、わずかに身体を動かすだけで、肺の奥が灼けるように痛む。千代が甲斐甲斐しく看病してくれるが、失われた血液と霊力は簡単には戻らなかった。


 そして、茂臣がこの好機を見逃すはずがなかった。


 翌日の夕暮れ時、氷華庵の周囲に不穏な気配が立ち込め始めた。冷たい冬の霧に混ざって、鼻を突くような重苦しく甘い、金属質な香りが漂ってきたのだ。


「……これは、何の匂い?」


 布団の上で、私は眉をひそめた。首元の誓約の印が、ドクドクと不気味に熱を帯びて脈動し始める。


「詩織様、お香のような匂いが外から……」


 千代が窓の隙間から外を覗き、息を呑んだ。それは、茂臣が雇った闇の呪詛師・骸が、結界の隙間から散布した禁忌の物質――『常世の香(とこよのこう)』だった。地下の怨霊の瘴気を精製したその香は、吸い込んだ者の心にある嫉妬、怒り、そして恐怖を何倍にも増幅させ、狂暴化させる邪悪な触媒だった。


「あの没落家の妖婦を連れ出せ!」

「あいつが来てから、屋敷に不吉なことばかり起こる!」

「呪われた血を引く女め、九条家から叩き出せ!」


 外から響くのは、理性を失った使用人たちの怒号だった。松明の赤い火が、氷華庵の障子戸に不気味な影を落とす。常世の香を吸い込んだ彼らの心に宿る「没落家への侮蔑」と「呪いへの恐怖」が異常に増幅され、詩織に対する集団暴動へと発展していたのだ。その暴動を指揮しているのは、茂臣の手先である家政長・松乃だった。


「松乃様! この離れには当主様の結界が……!」

「黙りなさい! 当主様はあの妖婦に呪いをかけられているのです! 九条家を守るため、今すぐあの女の心臓を抉り出しなさい!」


 松乃の狂気に満ちた声が響き、使用人たちが棍棒や松明を手に、氷華庵の庭へと乱入してきた。


「詩織様、ここはお隠れください!」


 千代が私の前に立ち塞がり、エプロンドレスの下から簡易呪符を取り出した。彼女は玄関の引き戸の前に立ち、毅然とした態度で立ち入りを拒絶する。


「下がりなさい! ここは詩織様の居所です! これ以上の無礼は、当主様への反逆とみなします!」


「うるさい、使い走りの小娘が!」


 狂暴化した大男の使用人が、千代を乱暴に突き飛ばした。千代は激しく畳の上に倒れ込み、引き戸が大きな音を立てて破壊される。


「千代!」


 私は病床から這い上がり、震える身体を支えながら立ち上がった。胸の傷が激しく疼き、白い包帯にじわりと赤い血が滲む。だが、雪代の誇りが、私に跪くことを許さなかった。


「千代、下がりなさい。――これ以上の乱行、私が許しません」


 私は右手の指先を突き出し、残されたわずかな霊力を振り絞った。


「我が命の糧より出でよ――氷雨!」


 私の呼びかけに応じ、空気中の水分が瞬時に凍りつき、手のひらサイズのかわいらしい雪だるまのような式神『氷雨(ひさめ)』が現れた。氷雨の頭上の氷結晶の王冠が、青白く鋭い光を放つ。


「氷雨、貫きなさい。ただし、殺してはダメ。歩行を封じるだけでいいわ」


 ここで彼らを殺害すれば、茂臣に「使用人を虐殺した」という完璧な口実を与え、九条家との全面戦争になってしまう。私の知性が、冷徹に非致死性の制圧を選択させた。


 氷雨が小さく鳴くと、その愛らしい身体から、無数の極細の氷の針――『氷雨の針』が一斉に射出された。鋭い風を切り裂き、針は使用人たちの足元へと正確に突き刺さる。針が接触した瞬間、絶対零度の冷気が彼らの靴と地面を物理的に凍りつかせ、強固な氷の鎖となって足首を固定した。


「な、なんだこれは!? 足が動かん!」

「床が凍りついている!」


 使用人たちが次々とバランスを崩し、氷の上で滑って転倒していく。物理的な暴力を、氷の摩擦減少によって無力化する。私の知略が、一時的に暴徒の足を封じることに成功した。


 しかし、松乃は冷酷な笑みを浮かべ、懐から不気味な黒い呪符を取り出した。


「小癪な没落女め! この程度の氷、私の呪詛で溶かして見せます!」


 松乃が「不快感の呪詛」を放ち、生温かい穢れた霊圧が部屋を包み込む。氷雨が作った結界が、その熱によってじわじわと溶け始めた。私は「雪代流・氷華呪術」を起動し、周囲の水分から熱を力ずくで奪い去り、松明の火を瞬間的に消沈させたが、その代償はあまりにも大きかった。


「が、はっ……!」


 喉の奥から熱いものが込み上げ、私は畳の上に血を吐き散らした。醒霊丹の反動と、病み上がりの身体での霊力酷使。視界が急激に赤く濁り、激しい眩暈が私を襲う。氷雨の維持が限界に達し、式神が虚空へと消えかけていく。


 その時だった。氷華庵の室内の温度が、私の冷気とは異なる、おぞましい「死の冷気」へと急激に低下した。


 みしり、と天井の木板が軋む。上を見上げた私の目に飛び込んできたのは、天井の闇から滴り落ちる、どろりとした黒い瘴気だった。その不気味な霧の中に浮かび上がる、血のように赤く光る二つの眼。


 ――それは、地下の深淵から這い出してきた怨霊の残滓、『赤眼(あかめ)』だった。


 常世の香に引き寄せられた怨霊の怪異が、完全に実体化していたのだ。赤眼は、地面に倒れ伏したまま身動きの取れない千代を見下ろすと、その漆黒の鋭い爪を容赦なく振り下ろした。


「千代――!」


 私の悲鳴が、冷え切った離れに虚しく響き渡った。

HẾT CHƯƠNG

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