魂を縫い合わせる調律
新田の闇診療所の地下室は、不気味な静寂に包まれていた。白熱電球の頼りない光が、煤けたコンクリートの壁をぼんやりと照らし出している。空気中に漂うのは、鼻を突く消毒液の臭いと、霊的な穢れを祓うためのお香の煙。その澱んだ空気のなかで、二人を繋ぐ不可視の「朱の鎖」が、キィィィンと耳障りな共鳴音を響かせていた。
診察台の上に横たえられた雪代詩織の顔には、もはや生気と呼べるものは残っていなかった。色褪せた黒い小袖の襟元は、自ら吐き出した黒い血で濡れそぞり、死人のように白い肌をいっそう際立たせている。だが、その右腕――袖の隙間から覗く手首には、宿敵である九条蓮の激動する感情と同期するように、赤い雷紋が狂ったように明滅し、激しく脈動していた。
「おいおい、お殿様。冗談だろ」
闇医者の新田は、詩織の脈を取りながら、気だるげな表情を完全に消し去っていた。彼は棚から銀のメスを取り出し、その刃先をランプの火で炙る。
「通常の解毒薬は使えない。この『黒蛇の猛毒』には、魂そのものを縛り付ける呪殺の術式が組み込まれている。薬を流し込んだ瞬間に、毒素が薬の成分を喰らって増殖し、彼女の霊脈を内側から破裂させるぞ。残された手段は一つだけだ」
新田はメスを握り直し、詩織の胸元、ちょうど心臓の真上にあたる皮膚を見据えた。
「雪代家秘伝の『毒素の霊的濾過術』。彼女の月の霊力を循環させ、体内の毒素を冷気で凍らせて体外に排出する。だが、見ての通り彼女の霊力は完全に底を突いている。濾過を始める前に、彼女の心臓が止まる。心臓が止まれば、誓約の逆流でお前も即死だ」
蓮は自身の左胸を強く押さえ、荒い呼吸を繰り返していた。鎖を通じて流れ込んでくる詩織の瀕死の苦痛――胃を灼き、血管を泥のようにドロドロに融解させていく激痛が、彼の脳を容赦なく破壊し続けている。右手の薬指に嵌められた「雷霆の指輪」が、彼の暴走しかける破壊的な霊力をかろうじて抑え込んでいたが、それも限界に近かった。
「私が……どうすればいい」
蓮の掠れた声に、新田は冷酷な微笑を向けた。
「お前の『太陽の霊脈』のエネルギーを、その繋がった朱の鎖を逆流させて、彼女の心臓に直接叩き込め。お前の雷を、心臓のペースメーカーにするんだ。ただし、熱と冷が彼女の体内で衝突すれば、お前の脳にも焼き切れるような激痛が流れ込む。生半可な制御じゃ、彼女を内側から黒焦げにするぞ」
「やれ」
蓮は迷うことなく言い放ち、診察台の一歩手前へと踏み出した。自身の死への恐怖。そして、この冷徹で誇り高き女を、こんな裏路地の地下室で失うわけにはいかないという、狂おしいほどの執着が彼を突き動かしていた。
新田のメスが、詩織の華奢な胸元の皮膚を浅く切り裂いた。溢れ出たのは、赤ではなく、毒に汚染されたどす黒い霊的血流だった。同時に、詩織の心拍数が急激に低下し、心電図の代わりに置かれた霊的な針が、不気味なフラットラインを描き始める。
「今だ、蓮! 心臓を動かし続けろ!」
蓮は自身の右手を、詩織の傷口のすぐ上、彼女の心臓が位置する胸元へと直接置いた。彼の指先から、青白い微細な放電が放たれる。大極クラスの破壊的な雷霆呪術を、ミリ単位の電気信号へと収束させる――それは、自身の霊脈を物理的に針で突き刺すような、凄まじい自傷行為だった。蓮の右手の皮膚が、過電圧の熱によってジュクジュクと音を立てて焦げていく。
「――っ、が、あぁっ……!」
蓮の口から、血の混ざった悲鳴が漏れた。誓約の鎖を通じて、彼の強烈な熱雷のエネルギーが、詩織の極低温の月の霊脈へと流れ込んでいく。水と油、熱と冷。相反する二つの霊力が彼女の胸の中で激突し、凄まじい拒絶反応が起きた。詩織の身体が、診察台の上で激しく弓なりに強張る。彼女の霊脈が、今にも内側から爆発しそうに膨れ上がっていた。
「くそ、反発が強すぎる! これを持て!」
新田はすかさず、緑色の不気味な薬液が満たされた小瓶――『新田謹製・同調和らげ煎じ薬』を、まずは蓮の喉奥へと無理やり流し込み、次いで意識を失っている詩織の口元へと注ぎ込んだ。
麻痺草の強烈な苦味と、霊的な熱を急速に冷却する薬効が体内に広がる。衝突していた熱と冷の波動が、化学的に中和され、一時的に平坦な静寂へと収束していく。激痛が和らいだその瞬間、二人の魂の境界が、超感覚同調の限界を超えて完全に融和した。
――脳裏に、津波のような「他者の記憶」が流れ込んでくる。
詩織の意識は、底知れない暗闇の中へと滑り落ちていった。それは『記憶侵入術(マインド・ダイブ)』の強制的な発動だった。彼女が見たのは、激しい嵐が吹き荒れる、見知らぬ山頂の光景だった。
激しい雨のなか、まだ十歳にも満たない幼い少年が、泥まみれになって四つん這いになっていた。少年の漆黒の髪は雨に濡れそぞり、その小さな身体からは、制御しきれない青い稲妻がパチパチと不規則に弾けている。少年の目の前には、軍服を着た厳格な男が、冷徹な氷青色の瞳で見下ろしていた。九条家の亡き先代当主、九条隆臣。
『立て、蓮。雷に怯える者は、九条の血を継ぐ資格はない』
隆臣の冷酷な声が、雨音を切り裂いて響く。幼い蓮は、恐怖に身体を震わせながら、必死に泥を掴んで立ち上がろうとしていた。だが、彼の細い腕に、容赦なく本物の落雷が直撃する。凄まじい閃光と爆音。少年の皮膚が焼き焦げ、肉が裂ける。少年は悲鳴を上げることすら許されず、ただその場に崩れ落ちた。隆臣は倒れた息子に駆け寄ることもせず、ただ冷ややかに言い放った。
『肉体が炭化する恐怖を超えろ。お前が雷そのものにならねば、この一族の牙城は守れん。他者を信じるな。信じれば、裏切られて死ぬだけだ』
少年は泥水に顔を伏せ、血を吐きながら、ただ一人でその過酷な「試練」に耐え続けていた。助けてくれる母親も、抱きしめてくれる温もりも、そこには存在しなかった。ただ圧倒的な暴力と、誰にも頼れない深い、深すぎる孤独だけが、彼の世界を支配していたのだ。
(これが……九条蓮の、記憶……?)
詩織の精神が、激しい衝撃に揺れ動いた。彼女が「一族の仇」として、冷酷無比な怪物として憎んできた男の正体は、その内側に、誰にも救われなかった傷だらけの子供を隠し持っている、ただの壊れた人間にすぎなかった。彼が他者を拒絶し、冷酷に振る舞うのは、そうしなければ生き延びられなかったからなのだ。
その共感が、二人の霊脈の波長を、奇跡的な調和(太極)へと導いた。
詩織の体内で、月の霊力が静かに、しかし力強く再起動した。彼女は無意識のうちに、雪代家秘伝の『毒素の霊的濾過術』を発動させていた。心臓に流れ込む蓮の雷の熱を、自身の冷気で優しく包み込み、毒素の分子を瞬時に凍らせていく。
「が、はっ……!」
詩織の身体が大きく跳ね上がり、彼女の口元から、黒く濁った毒素を含んだ不気味な氷の結晶が、パラパラと音を立てて診察台の床へと吐き出された。吐き出された氷晶は、床に落ちた瞬間に黒い砂となって霧散していく。
心電図の針が、規則正しい心拍を刻み始めた。詩織の胸元に当てられていた蓮の手から、ようやく電撃が収まり、彼はその場に崩れ落ちるように膝を突いた。彼の右手は、詩織に霊力を注ぎ込み続けた代償として、消えない焦げ跡――誓約の同調による新しい傷跡が、深く刻まれていた。
「……濾過は成功だ。命だけは、繋ぎ止めたぞ」
新田は額の汗を拭い、メスをトレイに置いた。診察台の上で、詩織は静かに長い睫毛を震わせ、ゆっくりと目を開けた。彼女の黒い瞳が、目の前で荒い息を吐きながら、焦げた右手を押さえている蓮の姿を捉える。
二人の間に、重苦しく、そしてこれまでにない複雑な沈黙が流れた。詩織は、自身の胸の奥で、蓮に対する単純な「憎しみ」の仮面が、音を立ててひび割れていくのを感じていた。だが、彼女はそれを表情には出さず、ただ静かに、宿敵の傷だらけの横顔を見つめ返すのだった。
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