死線を走る雷霆の腕
肺腑を焼き焦がすような熱が、喉元から競り上がってくる。
九条蓮の私室の、冷たい大理石の床の上で、雪代詩織は激しく喀血した。どす黒い血が、色褪せた黒い小袖の襟元を濡らし、畳の上に不気味な赤黒い斑点を作っていく。内臓が内側から腐食していくような、筆舌に尽くしがたい激痛。呼吸は浅く、肺が酸素を拒絶して痙攣していた。
「は、っ……、く……」
視界が急速に狭まり、光が失われていく。だが、詩織の黒い瞳の奥に灯る冷徹な光だけは、未だ消えていなかった。彼女は朦朧とする意識の淵で、必死に「月の霊脈」の冷気を胃の周囲へと集中させていた。雪代家秘伝の応急処置。毒素の血液循環を、極低温の氷の結界で一時的に凍結し、遅延させているのだ。しかし、それは時間稼ぎにすぎない。猛毒の本体は、今も確実に彼女の命の灯火を削り続けていた。
「が、はっ……! おの、れ……!」
すぐ傍らで、九条家の若き当主――九条蓮が、自身の左胸を強く掻きむしりながら床に膝を突いていた。彼の手からこぼれ落ちた名刀「雷切」が、床の上で虚しい金属音を立てて転がる。
血の誓約の「痛みの転移」は、残酷なほど正確に発動していた。詩織が体内で受けている猛毒の激痛、内臓が焼けただれるような苦痛が、魂を繋ぐ不可視の「朱の鎖」を通じて、蓮の神経へと一対一の割合で直接伝達されていた。蓮の端正な顔は土気色に変わり、額からは滝のような冷や汗が流れ落ちている。
「お前、何を……飲んだ……! 私の、霊水に……」
蓮は激しい痛みに喘ぎながらも、床に倒れ伏す詩織の肩を強引に抱き起こした。彼の革手袋が、詩織の吐き出した血で汚れていく。だが、蓮の氷青色の瞳に宿っていたのは、単なる苦痛への怒りだけではなかった。それは、眼前の没落家の娘が、自分を救うため――いや、自分を「生かす」ことで絶対的な『貸し』を作り、主導権を握るために、躊躇なく猛毒を飲み干したという狂気的な執念に対する、言葉にできない驚愕だった。
その時、静まり返った私室の重厚な扉の向こうから、不穏な足音が近づいてきた。複数の足音が廊下を急ぎ、扉を激しく叩く音が響く。
「当主様! 当主様、ご無事ですか!? 離れの方で不審な霊力の乱れがあり、本邸内にも侵入者の気配がございます! 開けてくだされ!」
扉の向こうの警備兵たちの声。それは、茂臣の息がかかった者たちの声だった。彼らは「侵入者の捜査」を名目に、蓮の部屋の異変を確かめに来たのだ。もし今、この扉を開ければ、蓮と詩織が同時に毒に侵され、瀕死の状態にあることが露呈する。それは、茂臣に「当主暗殺」の完璧な機会を与えることを意味していた。
「くっ……、騒がしい、ネズミどもめ……」
蓮は歯を食いしばり、床の「雷切」を引き寄せた。だが、激痛のあまり指先が震え、大極の霊圧が乱れて青い火花が不規則に弾ける。精密な呪術のコントロールができない。この状態で警備兵たちを全員黙らせることは不可能だった。
その時、私室の影から、音もなく一人の青年が姿を現した。前髪で片目を隠し、黒い隊服を纏った長身の影――蓮の直属護衛、白銀嵐だった。
「当主様」
嵐は一瞬で室内の異常な状況を把握した。床に散った黒い血、倒れ伏す詩織、そして胸を押さえて苦しむ蓮。彼の冷徹な瞳に、かつてない動揺が走る。だが、彼は即座に「名刀・白雨」の柄に手をかけ、蓮の前に跪いた。
「嵐……か」
蓮は掠れた声で、冷酷な命令を下した。
「誰も……この部屋に入れるな。外の騒ぎを、力ずくで鎮めろ。叔父上の猟犬どもが、嗅ぎ回っている……」
「御意。命に代えても、この扉は破らせません」
嵐は静かに立ち上がると、詩織を鋭い眼光で見つめた。当初は暗殺者と疑っていた没落家の娘。だが、彼女が蓮の命を守るために自ら毒を飲み、今や蓮の命綱そのものとなっている事実を、嵐は理解せざるを得なかった。嵐は静かに扉の方へと歩み、背後で重厚な閂を下ろした。
外では、大島義男憲兵隊長率いる私兵たちが、強引に扉を突破しようと呪術的な圧力をかけ始めていた。木製の扉が、軋んだ音を立てて震える。
「蓮、急ぎなさい……。ここにいれば、確実に殺されるわ……」
詩織は蓮の外套を掴み、消え入りそうな声で囁いた。彼女の胃の周囲を凍らせている氷の結界は、すでに限界に達しつつあり、毒素の黒い侵食が霊脈の端々を蝕み始めている。
「言われなくとも、お前をここに置いていくつもりはない」
蓮は冷酷に言い放つと、詩織の身体を力強く横抱きにした。お姫様抱きにされた詩織の身体は、驚くほど軽かった。だが、その皮膚は死人のように冷たく、首元の「朱き誓約の印」だけが、ドクドクと脈打つように赤く発光している。
蓮は窓枠に足をかけ、冷たい冬の霧が立ち込める夜の闇へと、詩織を抱いたまま迷わず飛び降りた。二階からの着地の衝撃。その瞬間、誓約の鎖を通じて、詩織の受けている内臓の激痛が蓮の脳を直撃する。蓮はうめき声を漏らしそうになるのを堪え、着地と同時に霊力を足元へと集中させた。
九条邸の広大な敷地を取り囲むのは、侵入者を自動的に迎撃する強力な雷撃結界だった。本来ならば、当主であっても無断での通過は結界の防衛システムを起動させる。だが、蓮は抱き抱えた詩織の身体を庇いながら、空いた右手で「雷切」の刃を虚空へと向けた。
(私の、霊力パターンを……結界に同調させる……!)
蓮は「雷切」から、九条家当主固有の霊力波長を放出し、前方に立ち塞がる青い電磁の結界へと押し当てた。一瞬、火花が激しく散り、結界の膜が融和するようにして、二人を通すだけの小さな隙間を開ける。蓮はその隙間をすり抜け、邸外の暗い森へと飛び出した。
だが、邸外に出た瞬間、背後から警備兵たちの叫び声と、追跡の口笛の音が響いてきた。脱出が発覚したのだ。霧の向こうから、松明の赤い光が急速に近づいてくる。
「くっ……、これを使うしかないか」
蓮は奥歯を噛み締め、右足に破壊的な雷霆の霊力を集中させた。九条流の高速移動技術――「雷歩(らいほ)」。
肉体を一瞬だけ雷光に変換し、空間の抵抗を無視して直線的に移動する大極クラスの呪術。しかし、この術の発動には、使用者の肉体に強烈な電撃の負荷と焦燥が伴う。普段の蓮であれば耐えられる負荷だった。だが、今は「血の誓約」によって命を共有している詩織が腕の中にいる。
(私が『雷歩』を使えば、その電撃の衝撃がそのまま、この女の心臓を焼き切る……!)
恐るべきジレンマ。しかし、立ち止まれば茂臣の刺客に捕まり、確実に殺される。蓮は右手の薬指に嵌められた「雷霆の指輪」を、引きちぎらんばかりに強く握り締めた。指輪の青い霊石が、蓮の暴走する霊力を無理やり抑え込むリミッターとして機能する。自身の電撃の出力を、詩織の心臓が停止しない限界の、極限の低出力まで抑制する――それは、蓮の体内の霊脈を物理的に締め付け、彼自身に猛烈な過負荷を与える自傷行為に等しかった。
「耐えろ、雪代の娘……! ここで死ぬことは、私が許さん!」
蓮は叫ぶと同時に、地面を強く踏みしめた。
――バチィィィン!
激しい放電の爆音とともに、蓮の姿が一筋の青い稲妻と化し、霧に包まれた森の闇を一直線に切り裂いた。目にも留まらぬ速度での移動。しかし、その移動の衝撃と、抑制しきれなかった微細な電撃の余波が、誓約の鎖を通じて詩織の肉体を無慈悲に襲った。
「――っ、あ、が……!」
詩織の身体が、蓮の腕の中で激しく弓なりに強張った。彼女の右腕に刻まれた「赤い雷紋」が、蓮の動揺と同期して狂ったように赤く発光する。全身の神経を電気で直接焼かれるような、凄まじい痺れと熱。胃の周囲を凍らせていた月の結界に亀裂が入り、せき止められていた猛毒が一気に彼女の霊脈へと溢れ出した。
詩織の呼吸が、一時的に完全に停止した。彼女の心臓の鼓動が急激に弱まり、その影響は即座に蓮の心臓をも締め上げる。蓮は胸を突き刺すような激痛に視界を白く染めながらも、速度を落とさず、ひたすら新京の華族街へと走り続けた。
新京の華族街。近代的なガス灯が美しく並び、洋館の窓から漏れる暖かい光が路面を照らしている。だが、深夜の街路は静まり返っており、冷たい霧だけが立ち込めていた。蓮は、一筋の青い影となって、ガス灯の光を切り裂きながら疾走した。腕の中の詩織は、すでに完全に意識を失っており、その頭は力なく蓮の胸元に預けられている。彼女の吐き出す息は、驚くほど冷たかった。
(死ぬな……。私を地獄へ引きずり込んだ蜘蛛が、こんなところで、勝手に糸を切るな……!)
蓮は、自身の内に芽生えた、かつてない焦燥感に恐怖していた。それは、自身の死への恐怖だけではない。いつの間にか、この不屈の瞳を持つ没落家の娘を、絶対に失いたくないという、狂おしいほどの執着が彼の胸を支配し始めていたのだ。
華族街の整然とした街並みを抜け、景色は急速に荒廃していった。煤煙と湿気に満ちた、帝都の近代化の影――貧民窟「黒鉄街(くろがねがい)」。
立ち並ぶ雑居ビルの合間を縫い、蓮は泥にまみれた裏路地へと滑り込んだ。ガス灯の光も届かない暗闇の中、錆びついた鉄扉を蹴り開け、地下へと続く薄暗い階段を駆け下りる。
そこは、ホルマリンの鼻を突く匂いと、霊的なお香の香りが混ざり合う、異様な空間だった。散らかった医療器具、怪しげな薬草の瓶、そして壁一面に張られた霊的探知を遮断する結界符。裏社会の闇医者、新田の診療所だった。
「おいおい、こんな夜更けに、九条家の若きお殿様が、一体何の御用だ?」
白衣を羽織り、無精髭を生やした男――新田が、気だるげに煙草を燻らせながら、奥の診察室から現れた。だが、蓮が抱き抱えている血まみれの詩織の姿と、二人の首元で朱く発光する誓約の印を目にした瞬間、新田の目が鋭く細められた。
「新田……! この女を、救え……!」
蓮は激しい息を吐きながら、詩織の身体を木製の診察台の上へと乱暴に突き出した。彼の腕も、激痛と霊力酷使により、小刻みに震えている。
新田は煙草を灰皿に押し付けると、即座に詩織の元へと歩み寄り、彼女の首筋に指先を当てた。そして、彼女の小袖の襟元を開き、黒蛇の毒によって黒く変色し始めている皮膚を観察する。
「……『黒蛇の猛毒』だな。しかも、ただの毒じゃない。霊脈を直接破壊し、魂を呪縛して心停止に追い込む、呪殺の術が込められている。よく、ここまで命を繋ぎ止めたものだ。彼女自身の月の霊力で、毒を凍らせて遅延させていたようだが……、それももう限界だ。あと数分遅ければ、二人同時にあの世行きだったぞ」
新田は冷酷に状況を診断すると、棚から西洋医学の注射器と、怪しげな霊薬のボトルを取り出した。
「解毒の準備をする。だが、お殿様。一つ、非常に過酷な条件がある」
新田は、冷徹な目を蓮に向けた。
「この毒に込められた呪殺の術を中和するには、彼女の体内で凍結している毒素を、物理的に『融解』させながら濾過しなければならない。その過程で、お前(蓮)の『太陽の霊脈』の、強力な雷霆のエネルギーを彼女の心臓に直接流し込み、心拍を強制的に維持し続ける必要がある。だが、熱と冷が彼女の体内で衝突すれば、お前自身にも、脳が焼き切れるほどの激痛が『転移』する。……お殿様、お前はこの地獄の調律に、耐えられるか?」
新田の突きつけた、あまりにも過酷な選択。蓮の氷青色の瞳が、激しい葛藤に揺れ動く。その診察台の上で、意識を失った詩織の首元の印が、まるで最後の命の灯火を消すまいと、さらに強く、朱く発光し始めていた。二人を繋ぐ朱の鎖が、冷たい地下室に不気味な共鳴音を響かせる。
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