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黒き毒蛇の這い寄る夜

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九条邸の最果てに配された離れ「氷華庵」の空気は、凍てつく夜気よりもさらに冷え切っていた。格子窓から差し込む冬の月光が、擦り切れた畳の上に青白い縞模様を描き出している。


 部屋の中央で、雪代詩織は静かに胡坐をかき、瞑想に入っていた。しかし、その呼吸は細く、浅い。彼女の右腕を覆う小袖の奥で、数日前の落雷の修行によって刻まれた「赤い雷紋」が、まるで生き火のように熱く脈動していた。


「くっ……、はぁっ……」


 詩織は薄い唇を噛み締め、押し寄せる熱と痺れを必死に抑え込む。本来ならば、棚の上にある「氷晶の耳飾り」が月の霊力を安定させ、血の誓約がもたらす同調の苦痛を和らげてくれるはずだった。しかし、その耳飾りは今、彼女の手元にはない。茂臣の放ったスパイである絹を欺くため、本物は「幻影鏡」の光学迷彩によって隠蔽され、絹には自身の霊力で維持している「氷の偽物」を盗ませたのだ。


 安定器を失った詩織の体内では、九条蓮の狂暴な雷の霊圧の残滓が牙を剥き、脳の奥を容赦なく焼き焦がしていた。詩織は「痛みの分散呼吸法」を必死に繰り返し、脳内に冷たい氷河のイメージを構築する。感情の揺らぎを凍らせ、心拍を強制的に平坦に保つ。拒絶するのではなく、その熱を自身の冷気で包み込み、逃がすのだ。没落した雪代家の誇りだけが、彼女をこの地獄のような苦痛の中で踏みとどまらせていた。


(まだよ……。茂臣が耳飾りの奪取に成功したと信じ込んでいる今こそ、奴の動きを監視しなければ……)


 その時、詩織の首元に刻まれた「朱き氷華の血約」の印が、ドクドクと不気味に熱を帯びて拍動した。二人の魂を繋ぐ不可視の「朱の鎖」が、ピンと張り詰めた弦のように激しく震える。


「これは……?」


 詩織は目を見開いた。脳裏に直接流れ込んできたのは、本邸の最奥、蓮の私室周辺から漂う異様な気配だった。「超感覚同調」が、冷徹な蓮の霊脈の波長を捉える。しかし、それはいつもの破壊的な青い稲妻の波動ではない。濁り、澱み、音もなく忍び寄る、粘り気のある漆黒の気配――「死気」だ。


(誰かが、本邸で蓮を狙っている……?)


 脳裏に浮かんだ仮説に、詩織の背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。九条蓮は、若くして「大極」の域に達した天才陰陽師だ。正面から戦って彼を殺せる者など、この屋敷には存在しない。ならば、手段は一つしかない。不意打ち、あるいは――毒殺。


 血の誓約の絶対的なルールが、詩織の脳内で警鐘を鳴らす。「一方が死ねば、もう一方も確実に死ぬ」。蓮が暗殺されれば、その瞬間、詩織の心臓もまた永久に停止するのだ。一族の再興を果たす前に、あの傲慢な男の巻き添えで犬死にするなど、到底受け入れられるものではなかった。


 生存本能が、そして雪代の冷徹な知性が、詩織の身体を突き動かした。


(蓮を助ける。それは私の命を救うため。そして――あの男に、決して返せない絶対的な『貸し』を作るためよ)


 詩織は布団から立ち上がると、棚の裏に隠されていた「霊障遮断の外套」を素早く羽織った。漆黒のケープが彼女の華奢な身体を包み込み、首元の印の発光と、彼女自身の霊的な気配を完全に遮断する。


「詩織様……? このような夜更けに、どちらへ……」


 物音に気付いた千代が、眠そうな目をこすりながら隣室の襖を開けた。詩織は人差し指を唇に当て、冷徹な声で囁いた。


「千代、ここで待っていなさい。本邸で少し、ネズミ退治をしてくるわ」


「えっ、ですが、お身体が……!」


 千代の静止を振り切り、詩織は滑るような足取りで氷華庵を飛び出した。夜の九条邸は、冷たい霧に包まれている。本邸の周囲には、侵入者を自動的に迎撃する強力な雷撃結界が張られていたが、詩織は「霊障遮断の外套」の闇の結界を最大化し、結界の網目をすり抜けるようにして疾走した。呼吸を止め、影と同化しながら、本館の二階にある蓮の私室へと急ぐ。


 その頃、蓮の私室の前には、不気味な蛇の仮面を被った細身の男――茂臣が雇った暗殺者「黒蛇」が、音もなくたたずんでいた。黒蛇は、蓮が修行後に必ず口にする銀の杯を見つめていた。その中には、九条家の最奥から湧き出る「九条家の特級霊水」が満たされている。黒蛇は懐から漆黒の小瓶を取り出すと、その無色無臭の液体を杯へと静かに滴下した。


 それは、血液を瞬時に黒く染め、心臓の筋肉を急激に硬直させて確実な死をもたらす禁忌の毒――「黒蛇の猛毒」だった。仕事を終えた黒蛇は、再び影の中へと溶けるようにして姿を消した。


 詩織が蓮の私室の前にたどり着いた時、防音結界の隙間から、部屋の主が戻ってきた気配が伝わってきた。重厚な扉をそっと押し開けると、そこには修行を終え、濡れた外套を椅子に掛けた蓮が立っていた。


 蓮の身体からは未だに微細な青い放電がバチバチと音を立てており、その呼吸は荒い。彼は疲弊しきっていた。机の上に置かれた銀の杯へと、その長い指先が伸びる。


(あの水に、毒が盛られている……!)


 詩織の超感覚が、杯から立ち上る不可視の黒い毒気を正確に捉えた。説明している時間はない。蓮が杯を口元に運ぼうとしたその瞬間、詩織は外套を翻して部屋へと突入した。


「何奴――!」


 蓮の氷青色の瞳が鋭く光り、瞬時に殺気が膨れ上がった。彼の右手が腰の「雷切」の柄へと伸び、青い稲妻の火花が室内に炸裂する。侵入者が詩織であると認識したものの、彼の警戒心は解けない。むしろ、没落雪代家のスパイが自身を襲撃しに来たのだと誤認し、その瞳に冷酷な怒りが灯った。


「雪代の娘、命が惜しくなったか!」


 蓮が雷切を引き抜き、その鋭い刃が詩織の喉元を切り裂かんと迫る。しかし、詩織はその電撃の威圧に一歩も引かなかった。彼女は雷切の刃を恐れることなく、蓮の懐へと飛び込み、彼の右手を強引に押し上げた。


「動かないで!」


「くっ……!」


 蓮が驚愕に目を見開いた一瞬の隙を突き、詩織は彼の左手に握られていた銀の杯を、ひったくるようにして奪い取った。蓮の怒りが頂点に達し、雷切から放たれた放電が詩織の右腕を直撃する。凄まじい痺れと熱が彼女の肉体を襲ったが、詩織はそれを無視し、奪った杯を迷わず自身の口元へと運んだ。


「お前、何を――」


 蓮の制止の声が響く前に、詩織は杯の中の特級霊水を、一気に喉の奥へと流し込んだ。


 冷たい水が喉を通った瞬間、それは文字通り「燃え盛る溶岩」へと変貌した。


「――っ、あ、が、あぁぁぁっ!」


 詩織は喉を掻きむしり、その場に激しく崩れ落ちた。銀の杯が床に転がり、甲高い音を立てて液体が飛び散る。


 黒蛇の猛毒が、彼女の食道から胃壁へと瞬時に浸食を開始した。内臓が内側から腐食し、鋭利な刃物で絶え間なく抉られるような、筆舌に尽くしがたい激痛が彼女の神経を狂わせる。呼吸が停止し、肺が酸素を拒絶する。視界が急速に真っ黒に染まり、全身の血管が引き裂かれるような感覚に、詩織は床に額を擦りつけてのたうち回った。


(胃を……凍らせるのよ……! 毒の拡散を、止めなければ……!)


 詩織は薄れゆく意識の淵で、必死に「月の霊脈」の冷気を胃の周囲へと集中させた。雪代家秘伝の「毒素の霊的濾過術」の応用。彼女の体内で、青白い極低温の氷の結界が編み出され、毒に侵された血液の循環を一時的に凍結・遅延させる。しかし、それは気休めの応急処置にすぎず、猛毒の本体は未だに彼女の命を削り続けていた。


 詩織の口から、どす黒い血が畳の上に吐き出される。激しい喀血。その凄惨な悲壮美の中で、彼女は薄れる視界の向こうにいる蓮を見上げた。


 だが、苦しんでいるのは詩織だけではなかった。


「が、はっ……! く、あぁぁぁっ!」


 蓮が突如として自身の胸を強く掻きむしり、その場に激しく膝を突いた。彼の手から雷切が滑り落ち、床に虚しい音を立てて転がる。


 血の誓約の「痛みの転移」が、寸分の狂いもなく発動していた。詩織が毒によって受けている内臓の腐食、呼吸困難、そして死の恐怖――その全く同じ致死の苦痛が、朱の鎖を通じて蓮の神経へと1対1の割合で直接伝達されたのだ。


 蓮の氷青色の瞳が、苦痛と驚愕に激しく見開かれる。彼の端正な顔は一瞬にして土気色に変わり、額から滝のような冷や汗が流れ落ちた。呼吸が荒く乱れ、彼もまた血を吐きそうになりながら、激しく胸を上下させている。


「お前……、何を、飲んだ……! この、痛みは……!」


 蓮は震える腕で、床に伏して苦しむ詩織の肩を強引に抱き起こした。彼の革手袋が、詩織の吐き出した黒い血で汚れていく。しかし、今の蓮にそれを気にする余裕はなかった。自身を襲うこの凄まじい苦痛の原因が、詩織の体内にある「毒」であることを、彼は肉体的に理解していた。


 詩織は、蓮の腕の中で激しく震えながらも、血に濡れた唇の端を歪め、不敵な微笑を浮かべた。彼女の黒い瞳には、死の淵にありながらも、宿敵を完全に支配したという冷徹な勝利の光が宿っている。


「……言ったはずよ、九条の、当主様……。あなたが死ねば、私も死ぬ……。だから、私は、あなたを守った……。これで、あなたは私に……一生返せない、命の『貸し』が、できたわね……」


「お前……、狂っているのか……!」


 蓮の喉から、掠れた叫びが漏れ出た。彼は、この没落家の娘が「自身を救うため」ではなく、「自身が生き残るため、そして九条家に対して絶対的な主導権を握るため」に、躊躇なく猛毒を飲み干したのだと気付き、その底知れない執念と気高さに、魂の底から驚愕していた。


 しかし、感傷に浸っている時間はない。二人の体内では、未だに致死性の毒が渦巻いており、二人の心臓の鼓動は、誓約の共鳴によって同時にその速度を落とし始めていた。このままでは、数時間以内に二人は同時に死亡する。


「……死なせるか。私の命を握る蜘蛛が、勝手に消えることは許さん」


 蓮は激しい痛みに喘ぎながらも、詩織の身体を強く抱き締め、その瞳に冷酷な、しかしこれまでにない執着の炎を灯した。二人の首元の誓約の印が、闇夜の中で不気味に、そして強く朱い光を放ち、シンクロする鼓動を刻み始めていた。

HẾT CHƯƠNG

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