朱き空の余震
薄赤く染まった新京の空は、まるで帝都の肺腑から溢れ出た血が、天に滲んだかのようだった。
要石の祠での死闘を終え、九条邸の本館へと戻る馬車の中で、私は激しい喀血の残余を白い懐紙で拭い去っていた。喉の奥から込み上げる錆びた鉄の味が、肺腑を凍てつかせるような痛みを伴って全身に広がっていく。
「無様な姿だな、雪代。昨夜、私を救うと豪語した大口はどこへ消えた」
対面に座る九条蓮が、漆黒の外套の隙間から、凍てつくような氷青色の瞳を私に向けていた。彼の右腕は、過度な雷霆呪術の使用によって完全に麻痺し、力なく膝の上に置かれている。しかし、その全身から放たれる「大極」としての威圧感は、いささかも衰えてはいなかった。
「ご心配には及びませんわ、九条の当主様。これは、あなたが受けるはずだった毒の『お裾分け』の余波にすぎません。それよりも、その焦げ付いた右手の心配をなさってはいかが?」
私は冷ややかに微笑み、彼の右手に刻まれた、あの魂の同調の傷跡――皮膚に焼き付いた痛々しい焦げ跡を見つめた。触れ合わなくとも、私たちの魂を繋ぐ不可視の「朱の鎖」は激しく引き締まっている。私の首元に刻まれた朱き刻印がドクドクと脈打つたび、蓮の普段は決して表に出さない「焦燥」と、不規則に跳ね上がる心拍が、私の胸の内に直接流れ込んできた。同時に、私の極端に低下した体温が、鎖を通じて蓮の霊脈を寒冷で苛んでいるはずだった。
私たちは互いの痛みを身に刻みながら、生き延びるためだけにこの狭い空間を共有している。
馬車が本邸の車寄えに到着したとき、直属護衛の白銀嵐が、影のように静かに扉を開けた。
「当主様、雪代様。……帝室霊務局の動きが慌ただしくなっております。水無瀬景光局長が、要石の祠周辺で発生した霊的異常――あの薄赤き空の出現を口実に、非公式の調査員をこの邸宅へ派遣するとの情報が入りました」
嵐の言葉に、車内の空気が一瞬で凍りついた。
帝室霊務局。水無瀬景光。あの温厚な仮面の裏に底知れない冷酷さを秘めた男が、ついに牙を剥き始めたのだ。もし、彼らの調査によって私と蓮の「朱き氷華の血約」が露呈すれば、国家が禁じる「違法な生体呪縛」として、私たちは即座に引き裂かれ、隔離されるだろう。それは、命を共有する私たちにとって、同時に訪れる「死」を意味していた。
「……叔父上が、さっそく霊務局に情報を流したか」
蓮が忌々しげに「雷霆の指輪」を左手でいじり、青い火花を散らせた。彼の脳裏にあるのは、失脚の恐怖と、何よりも私という「唯一の弱点」を他者に握られることへの激しい嫌悪だった。
本館の蓮の私室に引きこもった私たちは、重苦しい沈黙の中で対峙していた。窓の外では、未だ薄赤く澱んだ空が新京の街を静かに見下ろしている。
「霊務局の目が届く前に、お前を処分すべきかもしれんな、雪代。お前が存在すること自体が、私の致命的な弱点だ」
蓮が冷酷な言霊を放つ。その瞬間、彼の周囲の大気が激しく歪み、大極の圧倒的な霊圧が室内の空気を物理的に凍らせ、私の華奢な身体を押し潰そうと襲いかかってきた。麻痺した右腕を抱えながらも、彼は力ずくで私を支配しようとしている。
しかし、私は怯まなかった。私は「月光氷華呼吸法」を静かに起動し、体内の月の霊力を極限まで一定に保つ「痛みの分散呼吸法」で、彼の霊圧による圧迫を受け流した。額に冷や汗が滲み、首元の刻印が激しく痺れる代償を払いながらも、私は毅然と彼の氷青色の瞳を見つめ返した。
「私を殺せば、あなたの心臓も止まりますわ、蓮。そんな無駄な心中を、徹底的な合理主義者であるあなたが選ぶはずがありません」
私は一歩、彼に向けて踏み出した。左耳の「氷晶の耳飾り」が、私の冷気を安定させるように静かに微光を放つ。
「私をただの人質として檻に閉じ込めておく時間は終わりました。霊務局の調査員たちは、私たちの霊脈の『不自然な同期』を必ず嗅ぎつけてきます。彼らの目を欺き、この血約の波長を偽装するためには、あなたの家系が葬ってきた禁断の知識が必要不可欠です」
「何が言いたい、雪代」
「九条邸の地下深くに眠る『深淵の書庫』。あそこに保管されている歴代当主の禁書を、私に閲覧させなさい。雪代の知恵があれば、霊務局の探知を切り抜けるための隠蔽術式を構築してみせます。私を無能な盾として消費するか、それとも私の頭脳を最大の武器として利用するか。選ぶのはあなたです、九条の当主様」
感情論を一切排除した、冷徹な生存戦略。蓮は私の瞳の奥に宿る、絶対に屈しない誇りと知性を見つめ、やがて不快そうに視線を逸らした。彼にとって、一族の宿敵である私に「知識」という武器を与えることは極めて危険な賭けだった。だが、同時に、私の提案が現在の窮地を脱するための唯一の論理的解決策であることも、彼は理解していた。
「……良いだろう。ただし、条件がある」
蓮は懐から、重厚な黒鉄の鍵を取り出し、テーブルの上へと冷たく滑らせた。
「書庫への立ち入りは許可する。だが、お前の背後には常に私の影を置く。一歩でも不穏な動きを見せれば、その瞬間に私の式神がお前の霊脈を焼き切ると思え」
「監視付きの自由こそ、人質にはお似合いの待遇ですわ」
私は鍵を手に取り、不敵に微笑んだ。こうして、私は九条家の最奥、葬られた闇の歴史が眠る禁域への切符を手に入れたのだ。
九条邸の地下深くへと続く階段は、冷たい石造りで、ガス灯の光すら届かない暗闇に包まれていた。私の背後、影の中に潜む蓮の式神「影縫」の不気味な気配を感じながら、私は「深淵の書庫」の重厚な鉄の扉の前へとたどり着いた。
しかし、その扉の前に、一枚の枯れ木のような人影が立ちはだかった。
白髪交じりの長い眉を垂らし、埃っぽい黒い法衣を纏った老人。九条家の地下書庫を数代にわたって管理してきた偏屈な老陰陽師、勘解由小路宗親が、すべてを見透かすような鋭い眼光で私を凝視していた。
「……ふん、没落した雪代家の小娘が、どのような風の吹き回しで九条の禁域に足を踏み入れる。当主の許可があろうと、この書庫の知識を安易に渡すわけにはいかんな」
宗親は冷淡に言い放ち、鉄の扉の鍵穴を覆うように、不気味な呪術の印を結び始めた。
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