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奈落の底で交わす朱き牙

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新京の地下深く、九条家の「氷牢」は、一切の光を拒絶する絶対零度の監獄だった。

冷気はただ肌を刺すだけではない。そこにある空気そのものが、肺腑を内側から凍りつかせようと牙を剥く。ガス灯の頼りない青白い光が、霜に覆われた黒い石壁をかすかに照らしていた。


「は、っ……く……」


雪代詩織は、色褪せた黒い小袖の襟元をかき合わせ、激しい悪寒に歯の根を鳴らした。髪を一本に結わえただけの華奢な背中が、寒さで小さく震える。しかし、その瞳だけは濁っていなかった。没落の極みにある雪代家。病床で死を待つ父・宗次郎。そして、一族のわずかな生き残りの未来。そのすべてが、今日の彼女の双肩にかかっていた。


詩織は、懐に隠した「朱き血の契約書」の感触を確かめる。古びた和紙のざらついた感触が、凍えかけた指先に微かな現実感を与えてくれた。九条家の厳重な結界を突破するために、一族に伝わる秘術と葛葉綾乃の助力をすべて使い果たした。後戻りはできない。ここで目的を果たせなければ、待っているのは雪代家の完全な死だ。


その時、氷牢の奥から、冷気が悲鳴を上げるような音が響いた。

キィィン、と空間が凍りつく音の直後、雷鳴の残響のような重低音の霊圧が、詩織の全身を圧迫した。


「不法侵入者がネズミのように紛れ込んだと思えば……雪代の生き残りか」


闇の向こうから現れたのは、九条家の若き当主、九条蓮だった。

漆黒の髪に、すべてを見透かすような冷徹な氷青色の瞳。軍服を模した黒い外套を翻し、彼が歩を進めるたびに、周囲の絶対零度の空気がバチバチと青い火花を散らして弾けた。若くして陰陽師の頂点である「大極」に達した男。その圧倒的な存在感の前に、詩織の身体は本能的な恐怖で硬直しかける。


「九条、蓮……」


詩織は声を絞り出し、宿敵の名を呼んだ。一族を滅ぼし、父の霊力を奪い、兄の雅人を呪殺した元凶の血脈。憎悪が胸の奥で黒く燃え上がる。


「没落した雪代の娘が、何の用だ。ここは九条の禁域。命を捨てに来たのなら、今すぐその望みを叶えてやろう」


蓮の言葉には、一片の慈悲もなかった。彼が右手をわずかに動かすと、その腰に帯びた神刀「雷切」から、青い稲妻の波動が蛇のように這い出てくる。周囲の氷壁が、その熱量で一瞬にして蒸発し、白い霧が立ち込めた。この男は本気だ。交渉の余地などないと、その冷酷な瞳が告げている。


「取引を、しに来ました」

詩織は一歩、前へ踏み出した。凍えかけた足が震えるが、その視線は蓮の氷青色の瞳から逸らさない。「雪代家をこれ以上弾圧しないこと。そして、父の治療に必要な『極光石』を定期的に供給すること。それが、私の条件です」


「ふん、取引だと?」

蓮は冷笑した。「没落した敗北者が、当主である私に対等な条件を突きつけるか。お前たちに、私と交渉するだけの価値がどこにある?」


「価値なら、作ってみせます」

詩織は不敵に微笑んだ。その瞬間、彼女は懐から「氷華の呪符」を取り出し、虚空へ放った。呪符が一瞬で砕け散り、周囲の水分が凝縮して、蓮の足元を絶対零度の氷の結晶が覆う。蓮の「雷霆の霊圧」が一瞬だけ、その冷気のバリアによって遮断され、周囲の電磁の乱れが静まった。


「小細工を!」

蓮の瞳に不快感が走る。瞬時に「雷切」が鞘から引き抜かれ、青い電光が氷牢の闇を昼間のように照らし出した。目にも留まらぬ速さで、鋭い刃が詩織の首筋へと突きつけられる。刃から発せられる超高電圧の熱が、詩織の首の皮膚を焦がし、細い血の筋が流れた。


「動くな。その華奢な首を切り落とすなど、造作もないことだ」


冷たい刃の感触。首元を流れる生温かい血。だが、詩織の瞳に宿る光は消えなかった。むしろ、彼女は待っていた。この至近距離を。


「ええ、殺せばいいわ。だけど……あなたも無傷では済まない」


「何だと?」


蓮が眉をひそめた瞬間、詩織は自身の右手の親指を、雷切の刃に自ら押し当てて深く切り裂いた。鮮血がほとばしる。その血に濡れた手で、彼女は懐から「朱き血の契約書」をむしり取るように引き出し、自身の血をその文字へと塗りつけた。


「雪代の血脈が命ずる――朱き氷華よ、契約を紡げ!」


「これは……古代の禁忌術式か!」

蓮が危機を察知し、雷切を引き抜いて飛び退こうとした。だが、詩織の動きの方が一瞬早かった。彼女は自らの身体を投げ出すようにして蓮の胸元へと密着し、その両腕で彼の外套を強く掴み取った。


「逃がさない、九条蓮!」


詩織は自身の顔を蓮の首元へと寄せ、牙を剥くようにして、彼の剥き出しの首筋へと噛みついた。鋭い痛みが蓮を襲い、彼の皮膚から赤い血が溢れ出る。詩織の口内に、鉄の味が広がった。彼女の血と、蓮の血が、その傷口で直接混ざり合う。


「おのれ……っ!」


蓮の全身から、怒りに呼応して暴走した青い稲妻が爆発的に放出された。凄まじい衝撃波が詩織の肉体を直撃し、彼女の五臓六腑を焼き焦がそうとする。だが、詩織は噛みついた牙を外さず、血まみれの口元で契約の呪文を詠唱し続けた。


「――我が命を以て、汝の命を縛らん。生死を共にし、痛みを分かつ。朱き氷華の血約、ここに成立す!」


その瞬間、氷牢全体が真っ赤な光に包まれた。

「朱き血の契約書」が虚空で激しく燃え上がり、灰となる代わりに、二人の魂の間に、目に見えない半透明の「朱の鎖」が架けられた。


「が、あぁぁぁっ!」

「く、はぁっ……!」


凄まじい激痛が、二人を同時に襲った。

蓮の首筋に、そして詩織の首元に、まるで焼きごてを押し当てられたかのような、朱く輝く契約の印が刻まれる。蓮の体内で暴走していた雷霆のエネルギーが、鎖を通じて詩織の肉体へと逆流し、同時に、詩織が受けていた凍傷の苦痛と首の切り傷の痛みが、そのまま蓮の神経へと直接伝達された。


二人は同時に床へと崩れ落ち、激しく喘いだ。


蓮は信じられないという表情で、自身の首元を押さえた。そこには、確かに詩織に噛まれた傷があり、その傷の痛みが、今や彼女の呼吸の乱れと完全に同期してドクドクと脈打っている。


「お前……何をした……」


蓮の氷青色の瞳に、かつてない怒りと、言葉にできない戸惑いが宿る。

詩織は血の混ざった息を吐き出しながら、床に手を突き、執念だけで蓮を見つめ返した。彼女の首元には、朱く発光する刻印が不気味に浮かび上がっている。


「血の、誓約よ……。私の命は、あなたの命。あなたが私を殺せば、その瞬間にあなたの心臓も破裂する。そして……あなたが受けるあらゆる痛みも、私が半分引き受ける」


詩織は冷徹な、しかし確信に満ちた微笑を浮かべた。


「これで私たちは、一蓮托生。滅びゆく雪代家を救うためなら、私は奈落の底で悪魔とだって手を取るわ」


蓮の怒りに呼応するように、氷牢の天井から青い稲妻が激しく火花を散らした。だが、その衝撃波の痛みは、即座に「朱の鎖」を通じて詩織の肉体へと伝わり、そして全く同じ痛みが蓮の脳をも直撃する。

命を共有した二人の、狂おしき敵意の共生が、今、この奈落の底で幕を開けた。

HẾT CHƯƠNG

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