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逃亡の影、歌舞伎町

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カサリ、と濡れたコンクリートの上で、微かな衣擦れの音が響いた。


 新宿駅の地下深く、蜘蛛女の巣が灰となって霧散した廃線跡。千代田霧子は、恍惚とした表情で俺の冷たい足元に這い寄り、その銀色に凍りついた右目を、吸い込まれるように見上げていた。


「救って……くれたの? わたしの、王子様……」


 その声には、恐怖の欠片もなかった。暗闇の底で自分を包んでいたおぞましい繭を切り裂き、怪物を体内から爆発させて屠った人外の存在――それを、彼女は「救世主」として、あるいは「死神」として、狂信的に受け入れていた。眼帯の下で完全に失明し、冷たい銀色の硝子球と化した俺の右目は、彼女の歪んだ憧憬をただ無感情に反射するだけだった。


 俺の体温はすでに三十三度まで低下している。右半身の痛覚は完全に失われ、呼吸をするたびに胸の奥で骨が軋むような激痛が定着していた。助け出した霧子の生温かい身体を抱き上げたが、俺の皮膚は、その人間の温もりをひどく遠いものとしてしか感知できない。口内は砂を噛むように無感覚で、彼女の流した涙が唇に触れても、鉄の味すら感じられなかった。


(利用価値があるなら、無明堂に置くべきか……。だがまずは、ここから脱出する)


 俺は霧子を抱えたまま、左目の『不眠の観察眼(インソムニア・アイ)』を起動した。白黒に反転した視界のなか、蜘蛛女の巣の奥から新宿御苑の方向へと収束していた魔力の導線が、微かに揺らめいている。俺は崩落した鉄骨の隙間をすり抜け、地上へと続く古い非常階段へと向かった。


 錆びついた鉄の扉を押し開けた瞬間、湿った夜気とともに、鼓膜を刺すようなサイレンの音が押し寄せてきた。赤と青の不穏な光が、歌舞伎町のビル群の隙間に立ち込める霧を毒々しく染め上げている。


「包囲を縮めろ! 連続テロ容疑のネオンの化け物だ、一歩も逃がすな!」


 路地の出口を塞ぐように、数台のパトカーが乱雑に停車していた。その中央に立つのは、ヨレヨレのスーツを着て、安物の煙草を咥えた男――新宿警察署・組織犯罪対策特別課の悪徳刑事、黒木誠二だった。彼の目は、異常な欲望と狂気に濁っている。左目の魔眼で透視すると、彼の血管の奥には、月蝕会から供給された「不老不死の薬(エリクサー)」の試作品による、不気味な黒い魔力の澱みがドロドロと蠢いていた。


 警察の影の部門。月蝕会の生贄調達ラインを裏で揉み消していた汚職警官どもが、俺を「歌舞伎町連続テロ事件」の容疑者に仕立て上げ、物理的に抹殺しようと網を張っていたのだ。


 俺は霧子を背負い、ネオンの届かないビルの隙間へと滑り込もうとした。しかし、その瞬間、決定的な誤算が生じた。右目の完全な失明がもたらした、右側の空間把握能力の大幅な低下。暗闇のなか、距離感を完全に見誤った俺の右肩が、壁から突き出た錆びた配管に激しく接触した。


 ガシャァァン!


 静寂を引き裂く鋭い金属音が路地に響き渡る。


「そこだ! 路地裏に影が動いた! 撃てぇ!」


 黒木の怒号とともに、武装警官隊が一斉に引き金を引いた。鼓膜を劈く爆音とともに、無数の実弾が狭い路地裏に降り注ぐ。レンガの壁が激しく砕け散り、火花と塵土が俺の頬をかすめた。痛覚のない右半身は弾丸の風圧を感知しないが、生身の霧子をこれ以上晒し続けるわけにはいかない。


(一般の警官を傷つければ、現世での逃亡はさらに困難になる。一切の血を流さず、この包囲を突破する)


 俺は、駆から一時的に貸し出されていた漆黒のロングコート――『影縫いの外套(かげぬいのがいとう)』を深く羽織った。コートの繊維に俺の水銀血を微かに浸透させ、脳内で錬金術式を起動する。


「――影魔術の隠密歩行法(サイレント・パターン)」


 俺の足元から伸びる影が、アスファルトの闇と同調するように急速に膨張し、俺と霧子の全身を包み込んでいく。それと同時に、強力な警察のサーチライトの白い光束が、俺たちのいるゴミ箱の陰を容赦なく照らし出した。


 だが、光の中に俺たちの影は現れなかった。影縫いの外套の遮光性能を最大に引き出し、照らされた光を完全に透過・同化させることで、光そのものを鏡のように歪めて姿を消したのだ。サーチライトの光は俺たちの身体をすり抜け、ただの空き地を照らし出していた。


「チッ、消えただと!? 探せ! 排水溝の中まで残さず炙り出せ!」


 黒木が苛立ったように煙草を地面に踏みつけ、拳銃を握り直す。警官たちがライトを振り回しながら路地へと侵入してくる。その足元には、強力なライトによって、濃い漆黒の「影」が何本も伸びていた。


 俺は音もなく歩き出した。自身の足音と魔力の波形を完全に消去し、警官たちの足元に伸びる影から影へと、無音のまま渡り歩く。彼らがどれだけライトを動かそうとも、その光源が生み出す「影の道」を歩む俺たちの姿を捉えることはできない。


 そして、俺は最も深い影の奥――黒木誠二のすぐ背後へと、音もなく具現化した。冷たい水銀の気配が、黒木の首筋を撫でる。


 黒木が異変を察知して振り返ろうとしたその瞬間、俺は左手の指先を微かに傷つけ、高圧の『マーキュリー・ニードル』を放った。空気を切り裂く音すらしない極細の銀の針が、黒木が握る拳銃の銃身の隙間へと、正確無比に吸い込まれていく。


 銃身の内部に侵入した水銀は、瞬時に相転移を起こして極限の硬度へと固体化し、トリガーとシリンダーの金属ギアを噛み合わせて完全にロックした。


「な、何だこれは……っ!?」


 黒木が引き金を引こうとしたが、指はビクリとも動かない。彼の拳銃の隙間から、ドロドロとした銀色の液体が、ネオンの光を妖しく反射しながら滴り落ちていく。銃そのものが、冷たい水銀の塊へと解体され始めていた。黒木が恐怖に顔を引きつらせ、使い物にならなくなった武器を地面に投げ捨てる。


 その混乱に乗じ、俺は再び『影縫いの外套』を翻し、歌舞伎町の深い闇の中へと溶け込んだ。背後で黒木の絶叫と警官たちの怒号が遠ざかっていく。


 包囲網は突破した。しかし、もう後戻りはできない。都立新宿東高校の生徒としての平穏な戸籍、日常の居場所、そして普通の人間としての生活は、今この瞬間、完全に崩壊し、俺は「銀の死神」として裏社会の奈落へと完全に身を落としたのだ。


 冷たい雨が、歌舞伎町のネオンを濡らしながら降り始めた。霧子を抱えたまま、俺はビルの谷間の暗いスリットを駆け抜ける。


 だが、その行く手を阻むように、路地の出口の空間が、突如として不自然な「歪み」を見せた。


 アスファルトに落ちる雨粒が、一瞬にして蒸発していく。路地を支配していた深い闇が、物理的に引き裂かれるようにして消滅し、上空から圧倒的な、神聖極まる「金色の光」が降り注いだ。その光は、俺が纏う影の外套の遮光性能を力ずくで無効化し、俺たちの輪郭を冷酷にあぶり出していく。


 光の光源に、一人の少年が静かに立っていた。


 冷たい月光を背に浴び、純白の騎士団のコートを完璧に着こなした少年。その金髪が夜風に揺れ、手にした純銀の十字架が、邪悪を許さない絶対の破邪の輝きを放っている。その透き通った瞳が、眼帯をした俺の姿を、冷酷にロックオンした。


「そこまでだ、不浄なる魔物。その銀の血、僕の光で蒸発させてあげる」


 聖堂騎士団の若き神童、一ノ瀬聖。その正義の光が、俺の冷たい水銀の皮膚を、内側から激しく焦がし始めた――。

HẾT CHƯƠNG

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