暗黒に咲く水銀の棘
カサ、カサ、カサ――。
無光の地下鉄線、その絶対暗黒の深奥に、無数の硬質な肢がコンクリートを削る音が響き渡る。音は天井から壁、そして宵のすぐ頭上へと、三次元的な軌跡を描いて急速に接近していた。
宵の左目――『不眠の観察眼』が捉えるモノクロームの世界において、その怪物の輪郭は、どろりとした毒々しい赤黒い熱源として脈打っていた。天井の隅、コンクリートの亀裂から這い出た「蜘蛛女」は、その悍ましい肥大化した腹部で、一本の巨大な紫色の繭を抱え込んでいる。
繭の内部で揺らめく、儚く薄青い光。それは、千代田霧子の生命の残滓だった。彼女の魂は、蜘蛛女の胃袋へと注がれる直前の、風前の灯火としてそこにあった。
キィィィン――!
蜘蛛女が天井から無数の粘着糸を垂らしながら、自重を乗せて落下してくる。その鋭利な八本の脚は、宵を切り裂くためではなく、霧子の繭を盾にするようにして宵の眼前に突き出された。宵が水銀の刀「アザトース」を振るえば、その刃は確実に霧子の繭ごと怪物を両断することになる。人質を盾にした、邪悪な知性による肉薄だった。
「卑劣な……!」
宵の喉から、掠れた声が漏れる。過剰に魔力を酷使した左目の端から、熱い鮮血がまた一筋、頬を伝って流れ落ちた。脳髄を直接針で抉られるような偏頭痛が、彼の視界を白黒のノイズで明滅させる。右目はすでに銀色の霧に閉ざされ、世界は左半分しか見えない。だが、宵の心臓に宿る「黒月の欠片」は、その絶望を燃料とするように、ドクンと冷たく、重い拍動を刻んだ。体温はさらに低下し、呼吸をするたびに胸の奥が凍りつくように軋む。
正面から切り込めば、霧子の命はない。ならば、取るべき戦術は一つだけだ。宵はアザトースを構えたまま、自身の左手の手のひらに深く刃を引いた。痛覚を失った右半身とは異なり、左手には鋭い痛みが走るはずだったが、その感覚さえも、冷たい水銀の侵食によって酷く鈍麻していた。流れるのは赤き血ではない。ネオンの届かない暗闇で、妖しく煌めく霊的水銀だ。
「――銀泥、四号」
宵の影から染み出た水銀の液体が、彼の意志に従って急速に再構成されていく。極限まで流動性を高められたそれは、蜘蛛のように細くしなやかな手足を持つ、美しい流線型の銀色の人形――『銀泥・四号』へと変生した。
行け、四号。宵の無音の命令を受け、銀泥・四号は液体のように滑らかな動きで壁を駆け上がり、蜘蛛女が天井に張り巡らせた紫色の糸の結節点へと侵入した。四号の極細の指先が、極小の水銀針へと相転移する。それは蜘蛛女の魔力の鍵穴へと滑り込み、糸を吊り下げている術式ノードを、内側から精密に解錠し、切断していった。
パツン、と魔力の糸が弾ける音が暗闇に響く。蜘蛛女の抱えていた霧子の繭が、重力を取り戻して落下した。
「ギシャァァァッ!?」
盾を失った蜘蛛女が、驚愕と怒りの咆哮を上げる。その隙を逃さず、宵は落下する繭の軌道へと滑り込んだ。だが、蜘蛛女の無数の脚が、猛烈な速度で宵の脳天へと突き下ろされる。避ければ繭が潰れる。
「――相転移・身代わり」
直撃の瞬間、宵は懐の『水銀の身代わり人形』に意識を同期させた。グシャリと不気味な音がして、蜘蛛女の脚が宵の肉体を貫いた――かに見えた。しかし、貫かれた宵の身体は、ジャリッと音を立てて冷たい液体水銀へと崩れ落ち、アスファルトの上を流れて霧散した。本物の宵は、数メートル先の影の中から、霧子の繭を両腕でしっかりと抱きかかえた状態で再構成されていた。
ドクン! と、宵の胸の奥で黒月の欠片が狂ったように脈打つ。身代わり人形の代償として、体内の魔力リソースが半分近く急速に吸い取られ、肺が焼けつくような窒息感が襲う。だが、腕の中の繭は無傷だった。宵は繭を安全なコンクリートの瓦礫の陰へと滑らせ、すぐさまアザトースを構え直した。
「次は、お前の番だ」
視界の左半分で、蜘蛛女の全身の魔力波形が、激しい怒りによって赤黒く燃え上がっているのが見える。怪物は八本の脚を槍のように突き出し、全方位から宵を包囲するように襲いかかってきた。その突進は、暗闇を物理的に切り裂くほどの質量と速度を持っていた。
キィン! キィン! キィン!
宵はアザトースを振るい、迫り来る脚を弾き返した。だが、右目の死角から放たれた一本の脚が、宵の右肩の防寒コートを切り裂き、その肉体へと深く突き刺さった。痛覚を失った「無痛の肉体」は、その致命的な裂傷に対しても苦痛の悲鳴を上げない。血の代わりに傷口から溢れ出た銀色の水銀が、怪物の脚に絡みつき、その流動性を奪うための障壁となる。
(痛まない……だが、肉体は確実に壊れている。時間が、ない)
自身の右腕の感覚が、冷たく麻痺していくのを宵は冷静に感じていた。視界が完全に消え去る前に、この怪物を屠らねばならない。宵はアザトースを握る左手に力を込め、踏み込んだ。怪物の脚が宵の肉体を拘束しているその一瞬、彼はアザトースを全力で振り下ろし、蜘蛛女の硬い外骨格の胸部に、微かな、しかし決定的な「亀裂」を刻み込んだ。
火花が散り、怪物の殻が割れる。その傷口に向けて、宵は自身の左手から溢れる水銀血を、直接流し込んだ。
「――アマルガム・バースト」
宵の脳内で、始祖アルベルトの冷酷な錬金数式が起動する。注入された霊的水銀が、蜘蛛女の体内の骨組織や魔力経路と瞬時に同化(アマルガム化)し、その還流速度を爆発的に高めていく。怪物の体表の下で、銀色の血管のような紋様が、毒々しく発光を始めた。
「ギ、ギギ――ッ!?」
蜘蛛女が、自身の体内で起きている異常な変生に気づき、恐怖に身悶えした。だが、すでに遅い。
「弾けろ」
宵が冷徹に呟いた瞬間、蜘蛛女の体内から、無数の巨大な銀色の水銀の棘が、肉体を突き破って爆発的に噴出した。それは、内側から咲き誇る、残酷で美しい金属の薔薇のようだった。怪物の肉体は一瞬にして硬質な銀色の結晶へと書き換えられ、その悍ましい輪郭のまま、凍りついた彫像と化した。
そして、パキンと高い音を立てて、銀の彫像は無数の塵へと砕け散り、廃線トンネルの暗闇の中に消え去った。後に残されたのは、濡れた地面に妖しく光る、紫色の小さな「蝕結晶」だけだった。
「はぁ、はぁ、がはっ……!」
戦闘が終了した瞬間、宵は膝から崩れ落ちた。凄絶な魔力の逆流が、彼の脳神経を内側から焼き尽くしていく。アザトースは液体に戻ることすらできず、床に突き刺さったままドロドロと融解していった。
等価交換の非情なルールが、宵の肉体に冷酷な牙を剥く。彼の右目の奥で、凍りつくような冷たい違和感が、決定的な破滅の音を立てて完了した。右目の視界を覆っていた銀色の霧が、完全に光を遮断する絶対の闇へと変わる。
宵は、右目の眼帯の下を指で触れた。そこには、生身の眼球の温もりはもう存在しなかった。彼の右目は、永久に光を失い、冷たい無機質な銀色のガラス球へと変色していた。世界は、完全に半分だけの暗闇に沈んだのだ。
体温は三十三度まで低下し、呼吸をするたびに胸の奥で骨が軋むような激痛が定着していた。味覚を失い、右目を失い、それでも、彼は生きている。
カサリ、と瓦礫の陰で音がした。切り裂かれた紫色の繭の中から、短い黒髪を揺らした少女――千代田霧子が、ゆっくりと這い出てきたのだ。
彼女は自身を襲った悪夢から覚醒し、怯えた瞳で周囲を見回した。絶対暗黒の地下鉄の廃線跡。そこに立っているのは、片目から一筋の血を流し、もう片方の目を不気味な銀色のガラスへと変色させた、死神のような美しさを持つ少年だった。
「あ……、あなた、は……」
霧子の声が震える。だが、その瞳に宿ったのは、恐怖ではなかった。それは、暗闇の底で自分を救い出してくれた、人外の存在に対する、狂信的な憧れと救済の光だった。
「救って……くれたの? わたしの、王子様……」
霧子は宵の冷たい足元に這い寄り、その銀色の瞳を、恍惚とした表情で見上げた。宵は彼女に言葉を返すことなく、ただ冷たい左目で、その狂信の始まりを静かに見つめ返していた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!