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無光の地下迷宮

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深夜二時を告げる電子音が、誰もいない新宿駅の地下通路に寂しく響き渡った。


 昼間は数百万人の欲望と喧騒が渦巻くメトロプロムナードは、終電が去った今、冷たいコンクリートの墓標のように静まり返っている。黄色い点字ブロックの上に、長い影が一つ、音もなく滑り込んだ。黒いフードを目深に被り、右目に漆黒の眼帯をあてた少年――氷室宵は、冷え切った指先でスマートフォンの画面をスワイプした。


「……座標は、この先か」


 宵の声は、彼自身の体温と同じように冷たく、低かった。彼の体温は、あの月蝕の夜の事故以来、常時三十四度まで低下している。血管の中を流れるのは赤い血液ではなく、銀色に煌めく重金属――「霊的水銀」だ。数時間前、無明堂の地下工房で辰砂の精錬を終え、失われた血を補填したばかりだったが、その代償として、宵は「味覚」という日常の感覚を完全に失っていた。


 乾いた唇を舌で湿らせても、そこには鉄の味すら存在しない。ただ、無機質な粘土を噛んでいるかのような、おぞましい無感覚だけが口内に張り付いている。


 宵の左肩の上で、手のひらサイズの水銀人形「銀泥・壱号」が、ボルトの帽子を微かに揺らして身震いした。言葉は話せないが、主の神経質な焦燥を敏感に察知しているのだ。壱号を維持するために、宵の最大魔力リソースの二割が常時消費されている。全身にまとわりつく軽い倦怠感を振り払うように、宵は地下の暗闇を見つめた。


 スマホの画面に、無明堂の電脳ハッカー・誠から送られてきた緊急データが明滅する。


『宵、急いでくれ。都立新宿東高校の不登校生徒、千代田霧子が、新宿駅の廃線跡から「月蝕街」の領域に迷い込んだ。生体反応が急速に弱まっている。そこに巣食う蝕獣の領域だ』


 月蝕街――日没とともに現世の東京に重なり始める、黒曜石と銀の廃墟群。そして、深夜二時を過ぎたこのプロムナードの特定の柱の影こそが、異界へと繋がる「境界の裂け目」だった。


 宵が特定の太い円柱の影へと足を踏み入れた瞬間、耳の奥でキィンと高い金属音が鳴り響いた。空気が一瞬にして凍りつき、現世の湿った空気の匂いが、腐食した鉄と古い埃の臭いへと書き換えられる。視界の左側、かろうじて光を捉えていた左目の景色が、急速に色を失っていく。右目の視界はすでに銀色の霧に覆われて機能していない。


 現世の新宿駅は消え去り、そこには崩落した天井から太い鉄骨が肋骨のように突き出た、不気味な廃線トンネル――「無光の地下鉄線」が広がっていた。


「壱号、周囲を警戒しろ。僕の死角に入るな」


 宵は低く命じ、暗闇の奥へと歩を進めた。この領域には、現世の物理的な光が一切届かない。懐中電灯のスイッチを入れても、放たれた光は数センチ先で黒い霧に吸い込まれるようにして霧散してしまう。文字通りの絶対暗黒。視覚という最大の武器を完全に奪われた極限状態だった。


 カサリ、と頭上で不穏な摩擦音が響いた。


 宵が本能的に身をかわそうとした瞬間、暗闇の中から、粘着性を帯びた無数の糸が放たれた。それは宵の防寒コートの袖やジーンズの裾に絡みつき、冷酷な力で彼の身体をコンクリートの床へと縫い留めた。


「くっ……!」


 糸は黄泉の魔力を帯びており、触れた部分から宵の生体エネルギーを吸い取ろうと蠢いている。絡みついた繊維は蜘蛛の糸のように細いが、鉄線のように頑丈で、宵の筋力では引きちぎることができない。機動力を完全に制限された宵の焦燥を煽るように、闇の奥から湿った這行音が近づいてくる。


 宵は手のひらの傷口から「霊的水銀」を噴出させ、瞬時に銀色の日本刀「アザトース」を形成した。暗闇の中で、距離感が全く掴めない。宵は勘を頼りに、自身を縛る糸を切り裂こうとアザトースを大きく振り回した。


 ギィィィン!


 鋭い金属音がトンネル内に反響し、激しい火花が散った。しかし、アザトースの刃が裂いたのは糸ではなく、湿ったコンクリートの壁だった。火花が一瞬だけ闇を照らし、天井から無数に垂れ下がる不気味な黒い粘着糸の群れを浮かび上がらせたが、次の瞬間には、さらに深い暗黒が宵を包み込んだ。


(落ち着け。目に見える情報に頼るな。脳内のノイズを、魔力の受信機にしろ……!)


 宵は目を閉じた。不眠症による慢性的な偏頭痛が、こめかみの奥でドクドクと激しい鼓動を刻んでいる。彼はその脳の過剰覚醒状態を拒絶せず、むしろ歓迎した。心臓の「黒月の欠片」から冷気を脳へと逆流させ、左目の視神経へと魔力を集中させる。


「――『不眠の観察眼』」


 宵が左目を開いた瞬間、世界は劇的な相転移を遂げた。


 物理的な光が消え去った代わりに、宵の視界はサイケデリックなモノクロの陰影の世界へと変貌した。コンクリートの壁や鉄骨は灰色の濃淡で描かれ、そして、現世には存在しない「魔力の流れ」が、鮮やかな色彩を帯びて浮かび上がる。


 宵を縛り付けている粘着糸は、毒々しい紫色の光を放つ魔力の繊維として視覚化されていた。そして、トンネルの奥、天井の隅には、巨大な赤黒い熱源――「蜘蛛女」の不気味な輪郭が、獲物を見下ろすようにして蠢いているのが、魔眼の視界にはっきりと映し出された。


「見えたぞ、怪物の王」


 宵は「水銀の相転移制御」を起動した。自身の足元に絡みついている水銀の血液を、一瞬にして極限の「液体」へと相転移させる。重く流動性に優れた水銀の性質を利用し、自身の体温(三十四度)の冷気を糸の結節点へと流し込んだ。水銀の極低温と重金属としての毒性が、蜘蛛の糸の有機的な結合を内側から凍結させ、脆く砕け散らせる。宵の足元で、紫色の糸がガラスのようにパキパキと音を立てて崩壊した。


 自由を取り戻した宵は、さらに戦術を切り替えた。音を立てずに天井を這い寄る蜘蛛女に対し、宵は自身の水銀血を数滴、コンクリートの床へと薄く、広く同心円状に散布した。


 ――トクン。


 水銀の波紋が床を伝う。蜘蛛女が壁の鉄骨を這う微かな「振動」が、床の水銀膜を通じて、宵の痛覚を失った右半身、そして鋭敏な左半身の神経へとダイレクトに伝わってきた。音波ではなく、触覚の振動による逆探知。蜘蛛女が宵の死角である右側から、無音で落下してこようとしている軌道が、完璧に脳内で立体マッピングされる。


 宵はアザトースを構え直し、振動が臨界点に達した瞬間、真上に向けて銀色の刃を突き出した。


 キィン! と再び硬質な音が響き、蜘蛛女の鋭い脚の一本がアザトースの刃と激突した。しかし、魔眼の過剰使用は、宵の未熟な肉体に凄絶な負荷を与えていた。脳の神経が焼き切れるような激しい痛みがこめかみを貫き、宵のかろうじて機能している左目の端から、一筋の微かな鮮血が、青白い頬を伝って流れ落ちた。


「が、はっ……!」


 激痛に視界が歪む。だが、宵はアザトースを握る手を緩めなかった。魔眼の色彩の中に、トンネルの最奥、蜘蛛女の巣の核心部が映し出される。そこには、巨大な紫色の繭が天井から吊り下げられており、その内部で、儚い薄青色の光を放つ少女の魂――千代田霧子の生体反応が、風前の灯火のように揺らめいていた。


 霧子の繭の前に、宵はついに到達した。しかし、彼の頭上の暗闇が、急速に質量を増していく。


 暗闇の奥から、無数の細い脚がコンクリートを削る不気味な音が宵の鼓膜を震わせる。それは、獲物を追い詰めた蜘蛛女が、無数の糸をカーテンのように垂らしながら、霧子の繭を人質に取るようにして、宵の頭上へと落下してくる予兆だった。

HẾT CHƯƠNG

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