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水銀を紡ぐ夜の工房

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灰色の雨が、夜の歌舞伎町のネオンを滲ませていた。新宿の喧騒から隔絶された路地裏に、ひっそりと佇む骨董品店『無明堂』。宵は、ずぶ濡れになった制服のフードを深く被り、周囲を走る警察のパトカーのサイレン音を背に受けながら、店の引き戸を静かに開けた。木と埃、そして仄かな線香の香りが、凍えきった宵の身体を包み込む。


 宵は懐から冷たい真鍮の鍵を取り出し、店の最奥にある、古びた黒曜石の装飾が施された隠し扉の鍵穴に差し込んだ。カチリ、と硬質な音が響き、結界が解除される。扉の向こうに広がるのは、螺旋状に地下へと続く暗い階段だ。一歩足を踏み入れるたびに、重苦しい金属の臭いと、微かに耳鳴りを誘発するような魔力の残響が強くなっていく。


 地下最深部に広がる『無明堂の地下工房』。そこは、巨大な銅製のパイプや鉛の蒸留器、そして怪しく明滅する魔力炉が複雑に絡み合う、極東の錬金術の心臓部だった。部屋の中央には、鈍い光を放つ巨大な『水銀の錬金釜』が鎮座し、その周囲には、高濃度の水銀蒸気を閉じ込めるための幾何学的な結界壁が展開されている。


「帰ったか、宵」


 釜の傍らに立つ影が、煙管から紫煙をゆったりと吐き出した。無明堂の店主であり、宵の師である草薙心蔵だ。細められた丸眼鏡の奥の瞳が、宵の痛々しい姿を冷徹に、しかしすべてを見透かすように捉える。


「放課後の教室で、月蝕会の『黒い薬』を喰らった半グレが暴れたそうだ。……お前の右目の曇り、また進行したな」


「……これのせいだ」


 宵は、自身の右半身の痛覚が消失した腕を動かし、制服のポケットから回収した琥珀色のカプセルの残骸を、木製の作業台の上に置いた。狂三が噛み砕いた『不老不死の薬・試作品』の結晶片だ。それは今もなお、禍々しい紫色の魔力波形を微かに放ち、周囲の空気を歪めていた。


 心蔵は煙管を置き、ピンセットでそのカプセルを拾い上げてモノクルで観察した。その表情が、いつになく険しく歪む。


「間違いない。拉致された人間の魂を錬金術で液状化し、魔術的に合成した泥薬だ。服用者の『未来の寿命』を強引に前借りして超人化させる……。月蝕会の新宿での生贄計画は、すでにこの段階まで進んでいるということか」


 心蔵はカプセルを作業台の上の硝子瓶に封印すると、宵の青白い顔を見つめた。宵の右目は、すでに半分が銀色の霧に覆われ、視界の右側は完全に闇に沈んでいる。さらに、先ほどの『シルバー・ヴェール』の使用による過負荷で、宵の肺は微かに焼けつくような痛みを訴えていた。


「お前がそのカプセルを回収できたのは、お前の不眠症がもたらす『不眠の観察眼』があったからこそだ。……だが宵、お前はなぜ、自分が生き返る前からあれほど重度の不眠症に悩まされていたか、考えたことがあるか?」


 心蔵の唐突な問いに、宵は左の魔眼を微かに見開いた。心蔵は作業台の引き出しから、古い手垢のついた革手帳――失踪した宵の父親である『零司の調査手記』を取り出し、特定のページを開いた。そこには、零司の神経質な筆跡で、黄泉国の波長に関する数式がびっしりと書き込まれていた。


「お前の祖父、鏡一が死の間際にお前に言ったはずだ。『夜の街には近づくな』とな。お前の一族の血は、生まれながらにして黄泉国の『眠らない夜(常夜)』の波長と、魂の深い領域で同期していたのだ。お前が夜、一睡もできなかったのは、病気などではない。お前の魂が、常に黄泉の門の向こう側を見つめ、引き合っていたからだ。だからこそ、お前の心臓は、事故の瞬間に『黒月の欠片』を完璧な器として受け入れた」


 宵は沈黙した。自身のこれまでの苦痛に満ちた不眠の夜が、すべて「怪物」となるための宿命の予行演習だったという真実。冷たい水銀が血管の中で、肯定するようにドクンと重く脈打った。


「感傷に浸っている時間はない。シルバー・ヴェールと水銀針の連発で、お前の体内の霊的水銀は限界まで枯渇している。今すぐ血液を補填しなければ、お前の肉体は内側から自己崩壊するぞ。……辰砂を釜に入れろ」


 心蔵の厳しい声に促され、宵は工房の隅にある鉛張りの保管庫から、深紅の輝きを放つ『辰砂の原石(しんしゃのげんせき)』を数塊、両手で抱え上げた。天然の水銀朱を豊富に含む赤い鉱石は、触れるだけで指先を赤く染める。


 宵は巨大な蒸留釜の蓋を開け、辰砂の原石を投入した。さらに、以前に蝕獣から回収していた禍々しい紫色の『蝕結晶』を触媒として投げ込む。魔力炉の着火ルーンが起動し、釜の底部から青白い錬金火炎が立ち上った。


 ゴオォォォ、と重低音が地下室を震わせる。釜の内部で、深紅の原石がドロドロのマグマのように融解し始めた。それと同時に、釜の隙間から、猛毒を孕んだ『水銀の蒸気』が、銀色の妖しい霧となって漏れ出し、結界壁の内側を満たしていく。常人が一呼吸でもすれば、肺胞が一瞬で金属化して窒息死する死の霧だ。


「『水銀流転の呼吸法』を維持しろ。釜の熱量と、お前の心臓の黒月の拍動を完全に同調させるんだ。焦って火加減を急ぐな。魔力波形が乱れれば、釜ごと吹き飛ぶぞ」


 心蔵の鋭い叱咤を受け、宵は釜の前に胡坐をかき、静かに息を吸い込んだ。肺の奥に、微量に漏れ出た水銀蒸気の熱風が侵入し、肺胞がジリジリと焼かれるような激痛が走る。だが、宵は「絶対零度の心」を起動し、その苦痛を脳の感情から完全にシャットアウトした。


 トクン、トクン、と心臓の黒月が、蒸留釜の沸騰する周期と同調していく。宵が呼気を吐き出すたびに、血管の中の霊的水銀が活性化し、釜の内部から滴り落ちる純銀の液体――精錬された『霊的水銀』が、接続されたカテーテルを通じて、宵の右腕の血管へと直接、脈打つように還流を開始した。


 冷たい。生身の人間には決して耐えられない、絶対零度の冷気が血管を通じて全身を駆け巡る。失われた血液が、冷たく煌めく銀の流体によって強制的に満たされていく。宵の皮膚の表面に、銀色の血管紋様が不気味に浮かび上がっては消えていった。


 数時間に及ぶ凄絶な製錬作業が終わり、炉の火が静かに消えた。宵は全身から銀色の汗を流し、激しく咳き込みながら、床に手をついた。口内から、どろりとした銀色の水銀の混ざった鮮血がアスファルトに滴り落ちる。


「終わったな。……これを喰え。体内の金属熱を一時的に冷ます」


 心蔵が、作業台の上から、茶色い乾いた丸薬――無明堂特製の生薬を宵に向かって放り投げた。宵はそれを口の中に放り込み、噛み砕いた。


 その瞬間、宵の全身が凍りついた。


 何も、感じない。塩味も、酸味も、薬草の独特の苦みさえも、一切の「味」が消失していた。口内にあるのは、ただの冷たい、硬い石のような異物の質感だけ。噛み砕くたびに、砂を咀嚼しているような無機質な感覚だけが脳に伝わる。


「味覚が……ない……」


 宵が掠れた声で呟いた。自身の指先を見つめる。指先は、以前よりもさらに青白く、血の通っていない大理石のようになっていた。


「それが、水銀の力を解放し、身体を金属化させていく等価交換の代償だ」


 心蔵は冷酷に、しかしどこか哀しげに煙管の灰を落とした。


「『水銀化に伴う五感喪失のルール』。お前が強くなり、水銀の血を増やすたびに、お前の人間としての機能は順番に黄泉に奪われていく。右目の視力に続き、今、お前の味覚が完全に消失した。……後悔するか?」


「……いいえ」


 宵は、感覚の消えた舌で、口内の水銀の味(それさえも、もう鉄の味すらしない)を確かめながら、静かに立ち上がった。


「凛を救い出せるなら、僕の身体がすべて無機物の彫像になっても構わない」


「ならば、次の段階へ進むぞ。夜の新宿を生き抜くために、お前の手足となる『使い魔』を精製する」


 心蔵は作業台の上に、粘土のような半固体状態の銀色の泥――『銀泥の粘土』を置いた。宵は自身の血液(霊的水銀)を手のひらの傷口から少量滴らせ、その泥に混ぜ合わせた。


 宵は地下工房の極細の錬金針を手に取り、自身の血液が混ざった粘土の表面に、心蔵から教わった極小の『自律行動ルーン』を刻み込んでいく。針先が銀の泥を削るたびに、チチ、と微弱な静電気のような火花が散る。宵は、自身の心臓の黒月の波動を、そのルーンの隙間へと、糸を紡ぐように丁寧に流し込んだ。


「『銀泥人形の自律鋳造術』……起動」


 宵が低く呟いた瞬間、泥のような水銀が、一瞬にして激しく蠢き始めた。流動する銀の液体は、気泡を弾けさせながら急速に凝固し、球体関節人形のような美しいシルエットを形作っていく。


 やがて、宵の手のひらの上で、それは静かに動きを止めた。手のひらサイズの、愛らしい水銀の人形。頭には、宵が無明堂の床から拾って載せてやった、小さな鉄のボルトの帽子がちょこんと乗っている。使い魔『銀泥・壱号(ぎんでい いちごう)』の誕生だった。


 壱号は、まだ言葉を話すことはできない。しかし、宵の無意識の「孤独」を投影したかのように、その小さな銀の頭を微かに傾けると、鏡のように滑らかな球体の手足を動かし、宵の冷え切った指先に向かって、よちよちと歩き始めた。


 そして、宵の感覚の消えかかった冷たい人差し指の先に、自身の銀色の頬を、まるで甘えるように、静かに、そして愛おしそうに擦り寄せたのだった。金属同士が触れ合う、微かな冷たい摩擦だけが、宵の魂へと伝わっていく。それは、人間性を失いゆく少年にとって、唯一の、そしてあまりにも切ない「夜の温もり」だった。

HẾT CHƯƠNG

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