教室に這い寄る黒い薬
灰色の雨が、アスファルトを濡らす朝だった。都立新宿東高校の校舎は、重苦しい雲の下で沈黙している。傘を叩く雨音の向こうから、いつもの喧騒が聞こえてくるが、氷室宵にとってはそれさえも遠い異界の出来事のように感じられた。
教室の隅、窓際の席に座る宵は、自らの左手を見つめていた。指先は、まるで死人のように青白く、冷たい。彼の体温は常時、人間としての限界値に近い三十四度で固定されている。周囲のクラスメイトたちが放つ、健康で、無防備な体温が、この狭い教室の中で息苦しいほどの熱気となって漂っていた。彼らの「温もり」を感じるたびに、宵は自らが人間という枠組みから滑り落ちつつある現実を突きつけられる。
トクン、と胸の奥で、心臓に融合した『黒月の欠片』が冷たい鼓動を刻んだ。血管を流れる霊的水銀が、自律的な意志を持つかのように脈打つ。宵は密かにブレザーのポケットの中で、スマートフォンの画面を操作した。画面に表示されているのは、骨董品店『無明堂』の防衛結界の周波数を同期させた、特殊な隠蔽アプリだ。
(『魔力波形隠蔽術式(サイレント・パターン)』、起動……)
脳髄に、キィンと耳を劈くような高周波のノイズが走り抜ける。不眠症による慢性的な偏頭痛が、さらに一段階激しさを増した。だが、この術式を維持しなければ、心臓の黒月が放つ異端の魔力波動が周囲に漏れ出し、新宿を徘徊する『聖堂騎士団』の探知センサーに引っかかってしまう。普通の高校生としての仮面を維持するための、これが等価交換の代償だった。
「おい、氷室。また一睡もしてねえのかよ。目の下の隈、死人みたいだぞ」
声をかけてきたのは、前の席に座るクラスメイトの狂三(きょうざん)だった。普段は素行の悪い半グレ崩れの少年だが、今日の彼の様子は明らかに異様だった。額にはべっとりと冷や汗が浮き、瞳孔は不自然に散大している。狂三の身体からは、鉄錆と腐敗の混ざったような、不快な「黄泉の霧」の臭いが微かに漂っていた。
「……ただの不眠症だ」
宵は冷淡に、必要最小限の言葉だけを返した。狂三を『不眠の観察眼(インソムニア・アイ)』が機能している左目だけで凝視する。彼の右目は、すでに半分が銀色の霧に覆われ、光を失いかけている。左目の視界に映る狂三の体内では、ドロドロとした黒い魔力の澱みが、血管を逆流するように蠢いていた。
狂三は宵の冷たい態度に苛立ったように舌打ちをすると、ブレザーの内ポケットから、琥珀色の怪しげなカプセルを取り出した。月蝕会が新宿の裏社会で密売している「黒い薬」の試作品――一般人の寿命を前借りし、一時的な超人化をもたらす禁忌の泥薬だ。
「チッ、すましやがって。どいつもこいつも俺をコケにしやがって……。だが、これさえあれば、俺は神にだってなれるんだよ……!」
狂三は狂ったような笑みを浮かべ、宵の制止が届くよりも早く、そのカプセルを口の中に放り込み、噛み砕いた。
放課後のチャイムが鳴り響き、教師が教室を出て行った直後のことだった。数人の生徒が教室に残り、他愛のない雑談を交わしている平穏な日常。その静寂を、獣のような咆哮が引き裂いた。
「あ、が、あぁぁぁぁッ!!」
狂三が突然、自身の頭を両手で抱え込み、激しくのたうち回った。彼の肉体が不自然に膨張を始める。制服のシャツが引き裂かれ、皮膚の下から黒い血管が、まるで這い寄る蜘蛛の糸のように浮き上がっていく。瞳からは白目が消失し、完全な漆黒に染まった。
「キャァァァァッ!?」
窓際で雑談していた女子生徒が悲鳴を上げた。狂三は完全に理性を失った目で周囲を見回すと、近くにあった木製の椅子を片手で軽々と持ち上げ、恐怖に凍りつく彼女の脳天に向けて、凄まじい力で振り下ろした。
そのまま直撃すれば、頭蓋が砕け散る。教室中がパニックに陥り、生徒たちが悲鳴を上げて扉へと殺到する。その混沌の渦中で、宵の冷徹な理性が、極限の速度で演算を開始していた。
(ここで水銀の剣(アザトース)を使えば、僕の正体は一般人に暴かれる。社会的死は、凛を救う道を閉ざす。……表に出ずに、一瞬で処理する)
宵は身を翻し、激しく明滅する蛍光灯の死角、ロッカーの影へと滑り込んだ。人々の視線が狂三の暴挙に釘付けになっている一瞬の隙を突き、彼は脳内で錬金数式を展開した。
「『シルバー・ヴェール』、展開」
手のひらの傷口から滲み出た微量な霊的水銀が、薄い膜となって宵の全身を包み込んでいく。水銀の鏡面が周囲のネオンの光や景色の色彩を完璧に反射し、彼のシルエットを空気の中に完全に融解させた。光学迷彩による、完全な透明化。肺胞が水銀の膜によって圧迫され、息苦しさが胸を刺すが、維持できる限界の三分間で全てを終わらせる。
気配と姿を消した宵は、反転する重力のように滑らかな動作で、暴れる狂三の背後へと回り込んだ。
狂三が振り下ろそうとした椅子が、女子生徒の頭上わずか数センチのところで静止した。いや、静止させたのではない。宵が、痛覚の失われた自身の右手の指先から、無音の弾丸を放ったのだ。
――『マーキュリー・ニードル』。
宵の指先から、高圧で圧縮された極細の水銀の針が、無音で射出された。ネオンの光を反射して一瞬だけ銀色に煌めいた針は、狂三の右肩の関節、運動神経の結節点を正確に撃ち抜いた。
「ガ、あ……!?」
狂三の右腕の力が突如として抜け、重い椅子が床へと激しく落下した。何が起きたのか理解できず、狂三は漆黒の目で周囲を睨みつけ、今度は左腕で近くの机を掴んで投げ飛ばそうとする。だが、宵の冷徹な追撃は容赦がなかった。
シュッ、シュッ、と微かな空気の破裂音とともに、さらに三本の銀針が放たれる。狂三の左肩、そして両膝の関節に、目に見えないほどの極細の針が突き刺さった。水銀の針は体内に侵入した瞬間に相転移を起こし、一時的な局所麻痺を引き起こす毒液となって、狂三の運動神経を内側から完全に遮断した。
「あ、が……あ……」
狂三の巨体が、糸の切れた人形のように、濡れた床の上に崩れ落ちた。痙攣を繰り返しながら、彼は二度と立ち上がることができない。周囲の生徒たちには、狂三が薬物の過剰摂取による急激な発作を起こして自滅したようにしか見えなかった。
シルバー・ヴェールを解除し、ロッカーの影から静かに歩み出た宵は、激しい咳き込みを堪えながら、口元を制服の袖で拭った。袖には、微かに銀色の水銀の汚れが付着している。また一つ、人間としての肉体を削ってしまった。
だが、安堵する間はなかった。宵の左目の『不眠の観察眼』が、教室の入り口の不自然な魔力波形を捉えたのだ。騒然とする生徒たちの隙間、教室の扉の向こう側に、一人の女性が立っていた。
仕立ての良い黒いタイトスーツを纏い、冷たい美貌を眼鏡の奥に隠した女性――月蝕会幹部・織田龍臣の秘書である玲奈(れいな)だった。彼女の手には、ルビーが埋め込まれたマイク型のペンが握られている。
玲奈は、崩れ落ちた狂三の哀れな姿を見下ろすこともせず、ただ、宵が先ほどまで潜んでいた「空っぽの影」に向けて、蛇のように冷たく、そして愉悦に満ちた視線をじっと注いでいた。その口元が、微かに歪んだ笑みを形作る。
(見られていた……? いや、彼女は最初から、僕の正体をあぶり出すために――)
玲奈は静かに踵を返し、人混みの中に消えていった。彼女の背後に潜む、月蝕会の巨大な悪意の影が、宵の唯一の安らぎであるはずの学校生活を、静かに、そして確実に浸食し始めていた。
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