眠れぬ夜の銀の鈴
骨董品店『無明堂』の二階、埃と古書の匂いが立ち込める狭い一室で、氷室宵は机の上のノートを見つめていた。失踪した父・零司が遺した『零司の調査手記』。その白紙のページに、宵は自らの指先を微かに傷つけて絞り出した、銀色に光る水銀の血を一滴、静かに滴らせた。
ジュッ、と微かな音がして、水銀が紙の繊維に吸い込まれていく。直後、白紙だった紙面に、血の脈動に呼応するようにして幾何学的なルーンと古代黄泉文字が浮かび上がった。しかし、それを解読しようと目を凝らした瞬間、宵の脳髄を、割れるような激痛が突き刺した。
「が、あ……ッ!」
宵は思わず頭を抱え、机に突っ伏した。右半身の痛覚は失われているはずだった。肉体が物理的に引き裂かれても、彼は眉一つ動かさない。だが、この痛みは肉体のものではなかった。脳の奥、魂の領域から直接響き渡る、狂気的な「不眠のノイズ」だ。
心臓に埋め込まれた『黒月の欠片』が、氷のように冷たい脈動を刻んでいる。体温は三十四度。血管を流れる霊的水銀が、脳の睡眠神経をじわじわと金属の錆で侵食していくかのような、底冷えする焦燥感が彼を支配していた。生き返って以来、宵は一秒たりとも眠れていない。どれほど疲弊しても、意識は冴え渡り、脳は常夜の闇を彷徨い続ける。
「無駄だ……今は、これ以上読めない……」
宵は手記を閉じ、ふらつく身体を起こした。無明堂の地下から響く金属の拍動が、今の彼の耳には不快なノイズにしか聞こえない。このまま狭い部屋に閉じこもっていれば、脳が水銀の毒で焼き切れてしまう。彼は『惣右衛門の封印鞘』を黒い学生服の腰に帯び、夜の新宿へと逃れるように飛び出した。
深夜二時の新宿三丁目は、冷たい雨に煙っていた。大ガード下から靖国通りへと続くアスファルトは、赤や青、紫のネオンライトを反射して、まるで黄泉国を流れる三途の川のように妖しく揺らめいている。宵は傘も差さず、雨に濡れながら歩いた。冷たい雨粒が頬を打っても、三十四度の彼の肉体はそれを「温かい」とさえ錯覚するほど冷え切っていた。
右目の視界は、すでに半分が銀色の霧に覆われて機能していない。宵は、辛うじて光を捉えている左目だけで、ネオンの洪水を見つめていた。その時、彼の脳内で黒月の欠片が、ドクン、と重く不規則な拍動を刻んだ。水銀の血液が血管の壁を激しく叩き、右腕の皮膚に銀色の血管紋様が浮かび上がる。
「は、あ……あ、が……ッ」
壁に手を突き、宵は荒い息を吐いた。痛覚はない。だが、呼吸が機能していない肉体の中で、水銀の流動速度が急激に低下し、全身の細胞が「窒息」していくような、おぞましい感覚が彼を襲う。不眠症による偏頭痛が極限に達し、視界が激しく歪む。脳が、世界を拒絶している。
その極限の苦痛の中で、宵の左目が、無意識のうちに『不眠の観察眼(インソムニア・アイ)』を開眼させた。左目の瞳孔が銀色の同心円状に変色し、カラフルだった新宿のネオン街が一瞬にして白黒の陰影の世界へと反転する。その代わりに、路地の隙間やビルの谷間から染み出す、どろりとした黄泉の魔力の流れが、毒々しい紫色や銀色の光の帯となって宵の視界にマッピングされた。世界は、怪異の予兆に満ちていた。
限界だった。膝をつきそうになったその時、路地裏の奥、三日月のマークが描かれた小さな看板が宵の目に留まった。深夜営業のジャズ喫茶『月光(げっこう)』。そこから漏れ出る、くぐもったサックスの音色に混ざって、別の「音」が宵の耳に届いた。
――チリン。
それは、雨の音さえも一瞬で掻き消すほどに澄んだ、銀の鈴の音だった。
宵の心臓の黒月が、その音に激しく共鳴した。ドクン、と胸の奥で火花が散る。宵が驚愕して顔を上げると、喫茶『月光』の軒下に、一人の少女が立っていた。
夜行使の制服である、和洋折衷の黒いドレスを纏った少女。長い黒髪を濡れた夜風に揺らしながら、彼女は腰に下げた、細かな幾何学彫刻が施されたアンティークの銀の鈴――『黄泉の銀鈴』を手で静かに揺らしていた。
「あなたの水銀が、泣いているわ」
少女――神楽夜明(かぐらやめい)は、冷徹だがどこか憐れみを帯びた瞳で宵を見つめていた。彼女は一歩、宵に向かって足を踏み出し、再び銀の鈴を振った。
――チリン。
音波が、目に見える銀色の光の波紋となって雨の夜空に広がっていく。『黄泉の銀鈴共鳴術』。その神聖な波動が宵の肉体を包み込んだ瞬間、宵の脳を蝕んでいた激しい偏頭痛と、水銀の暴走による窒息感が、嘘のように引いていった。
「な……んだ、これは……」
宵は自身の胸を押さえた。黒月の拍動が、鈴の音の周期に合わせて、穏やかに、規則正しく調律されていく。脳内に溜まっていた黒い魔力の澱みが、毛穴から微かな銀色の霧となって雨の中に排出されていくのが見えた。初めて味わう、絶対的な「安らぎ」だった。生き返って以来、常に彼を苛んでいた、脳が焼き切れるような焦燥感が、静かに溶けていく。
「私は神楽夜明。あなたと同じ、夜の新宿を守る『夜行使』よ」
明は静かに鈴の音を止め、宵に歩み寄った。彼女の腰で、黄泉の銀鈴が微かに光を放っている。
「あなたの噂は駆から聞いているわ。心臓に黒月の欠片を宿し、自らの血を水銀に変えて戦う少年。……そんなに冷たい身体で、よく今まで耐えてこられたわね」
明は宵を促し、喫茶『月光』の軒下のベンチへと腰掛けさせた。店内から流れる静かなジャズの旋律が、雨音に溶けていく。明は懐から温かいココアの入った紙コップを取り出し、宵の手へと握らせた。
宵がそれを口に含む。味覚が失われつつある彼の舌には、それはただの「温かい、鉄の味がする液体」にしか感じられなかった。しかし、コップを通して伝わる微かな熱だけは、彼の凍りついた手のひらに、確かに「生」の感覚を呼び起こした。
「味は、わからないか」
明は寂しげに微笑んだ。その表情は、宵が人間を辞めつつある現実を、誰よりも理解しているようだった。
「私も同じよ。この『黄泉の銀鈴』を振るたびに、私の霊力は削られ、魂は黄泉の冷気に侵食されていく。怪異を鎮めるための鈴の音が、いつか私自身の声を奪う。……私たちはみんな、何かを削りながら、この眠れない夜を生きているの」
宵は、隣に座る明の横顔を見つめた。彼女の纏う空気は、無明堂の心蔵のような非情な錬金術師のそれとは異なっていた。彼女もまた、過酷な「呪い」を背負いながら、大切な何かを守るために戦っている。その孤独な佇まいに、宵の凍りついた心が、微かに揺れ動いた。
「僕は……凛を救いたいだけだ」
宵は、冷え切った声で、しかし確固たる意志を込めて呟いた。
「妹の魂が、あの鳥籠の塔に囚われている。そのためなら、僕の身体がどうなろうと構わない。味覚が消えても、右目が潰れても、僕は戦い続ける」
「知っているわ。あなたのその『執着』が、どれほど強いかも」
明は静かに手を伸ばし、宵の、銀色の血管が浮かび上がった冷たい右手に、自身の温かい手をそっと重ねた。彼女の手のひらは、三十四度の宵の肉体にとって、まるで燃える火波のように熱く、そして愛おしかった。
「でもね、宵。あなたが完全に冷たい水銀の彫像になってしまったら、救われた妹さんは、誰に向かって微笑めばいいの? ……人間でいることを、諦めないで」
明の言葉が、宵の胸の奥深くに、波紋のように広がっていく。他者との接触を拒み、怪物として孤独に死ぬことを受け入れようとしていた宵の心に、微かな「人間の温もり」への憧憬が芽生えようとしていた。
だが、運命は二人の束の間の安らぎを、嘲笑うかのように打ち砕いた。
重なり合った彼らの手を通じて、宵の心臓の『黒月の欠片』が、明の『黄泉の銀鈴』の神聖な魔力と、異常なまでの超高周波で共鳴を始めたのだ。
トクン、トクン、トクン――!
宵の胸の奥で、黒月が狂暴な速度で拍動を早める。同時に、明の腰の銀鈴が、誰の手も借りずに、激しく、不協和音を奏でるように鳴り響き始めた。
「きゃっ……!? 鈴が、暴走している……?」
明が驚愕して手を引こうとしたが、宵の手のひらから滲み出た微量な霊的水銀が、まるで磁石のように彼女の銀鈴を引き寄せ、離さない。ネオンの光が急激に歪み、新宿三丁目の路地裏の空気が、凍りつくような冷気へと一瞬で書き換えられていく。
アスファルトの微かな亀裂から、現世のものではない、黒黒とした「黄泉の霧」が、どろりと染み出し始めた。二人の共鳴が、新宿の境界の結界を内側から引き裂き、異界の門を強制的に抉り開けようとしていたのだ――。
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