無明堂の居候
アスファルトを叩く雨は、深夜の新宿を冷たい銀色に染め上げていた。
氷室宵は、右目の半分を覆う銀色の霧と戦いながら、歌舞伎町のビル街の隙間に広がる細い路地を彷徨っていた。右脇腹を引き裂いた骨喰いの爪跡からは、赤い血ではなく、粘り気のある銀色の液体――水銀が微かに滲み出ている。砕けた右手の指先も、痛みを感じない「無痛の肉体」のせいで、ただ感覚のない無機質な棒のようにぶら下がっているだけだった。体温は三十四度。己の血管を巡る冷たい水銀の拍動だけが、彼が「まだ動いている死体」であることを証明していた。
宵の左手には、先ほど影の中に消えた少年、蓮見駆から渡された古びた真鍮の鍵が握られていた。表面に奇妙な幾何学模様が刻まれたその鍵は、雨に濡れて冷たく拒絶するように凍りついている。
「無明堂……」
掠れた声で呟きながら、宵は路地の突き当たりに立つ、周囲の超高層ビルに押し潰されるように佇む古びた木造店舗を見上げた。看板には、辛うじて読める掠れた文字で『無明堂』と刻まれている。霊感を持たない一般人にはただの空き地にしか見えないはずのその場所が、宵の銀色に歪んだ右目には、歪んだ魔力の波紋を放つ明確な「境界」として映し出されていた。
宵が懐から取り出した真鍮の鍵を古びた格子戸の鍵穴に差し込むと、カチリ、と重い金属音が響いた。同時に、肌を刺すような冷たい魔力の障壁が、水に溶けるように霧散していく。宵は戸を押し開け、薄暗い店内へと足を踏み入れた。
一歩踏み入れた瞬間、宵を包み込んだのは、乾燥した古い紙と、香、そして微かな硫黄の混ざり合った、退廃的で重苦しい匂いだった。店内には、時を刻む速度がすべて異なる無数の懐中時計が壁を埋め尽くし、ひび割れたアンティークの鏡や、怪しげな薬瓶、剥製のカラスが、ネオンの残光を浴びて妖しく浮かび上がっている。まるで世界から取り残された、ゴシックな黄泉国の前哨基地のようだった。
「――お目覚めか、水銀の小僧」
暗闇の奥から、乾いた、しかし地を這うような低い声が響いた。
宵は息を呑み、即座に身構えた。本能的な恐怖が心臓を叩き、手のひらの傷口から再び「霊的水銀」が噴出し始める。銀色の液体は蛇のように蠢き、鋭利な刃――アザトースの形状を結ぼうと質量を増していく。
「動くな。それ以上近づいたら、切り裂く」
「威勢だけはいいな。だが、その刃の向きが間違っている」
揺らめく影の奥から姿を現したのは、ルーズに着崩した着物を羽織り、丸眼鏡の奥からすべてを見透かすような細い目を向ける白髪交じりの男――草薙心蔵だった。手には、手垢のついた古い煙管を握り、そこから紫煙がゆったりと立ち上っている。
宵はアザトースを構え、心蔵の喉元を目掛けて踏み込もうとした。しかし、次の瞬間、心蔵の姿が宵の視界から完全に消失した。右目の失明しかけている死角から、気配さえも消え去っていた。
「言ったはずだ。無防備だとな」
冷ややかな声が、宵のすぐ耳元で響いた。いつの間にか背後に回り込んだ心蔵の、温かいが鉄のように重い手が、宵の右肩に置かれていた。その瞬間、宵の手のひらから伸びかけていた液体水銀が、強制的に相転移を阻害されたかのように、一瞬でドロドロの泥となって床へと崩れ落ちた。
「な……ッ!?」
「騒ぐな。お前の心臓の『黒月の欠片』が、今にも暴走しかけている」
心蔵は宵の身体を強引に振り返らせると、その丸眼鏡の奥の鋭い目で、宵の胸元を凝視した。心蔵の手が宵の冷え切った胸口を強く圧迫する。その瞬間、宵の胸の奥で、氷の棘が突き刺さるような激しい「拒絶反応」が起きた。心臓の黒月が狂ったように拍動を早め、体内の水銀血が沸騰するように血管を焼き始める。激痛にのたうち回りそうになる宵の前に、心蔵は迷うことなく一本の漆黒の木鞘を突き出した。
「『惣右衛門の封印鞘(そうえもんのふういんざや)』――我が一族の先祖が遺した、暴走のブレーキだ」
心蔵が鞘の表面に刻まれた黄金の錬金ルーンに触れると、鞘から銀色の光の波紋が放たれ、宵の心臓の鼓動と同調した。暴れ狂っていた水銀血が、まるで主の命令に従う従順な僕のように、一瞬にして宵の体内へと回収され、静まり返っていく。
宵は膝をつき、激しい呼吸を繰り返した。肺胞が凍りつくような冷たさの中で、己の肉体が二度と「普通の人間」には戻れないという残酷な現実を、骨の髄まで自覚させられていた。
「お前は……何者なんだ? 僕の身体を、どうした……!」
「俺は草薙心蔵。この無明堂の店主であり、かつてお前の父親、氷室零司と共に世界の歪みを調査していた錬金術師だ」
心蔵は煙管を灰皿に叩きつけ、冷徹な目を宵に向けた。
「お前の心臓にあるのは、黄泉国の主が遺した『黒月の欠片』。それがお前の血液を『霊的水銀』へと変生させ、命を繋ぎ止めている。だが、それは等価交換の呪いだ。力を使うたびに、お前の体温は失われ、五感は奪われ、最後には冷たい金属の彫像となって死ぬ。お前の右目の曇りは、その最初の代償に過ぎん」
冷酷な宣告が、薄暗い店内に響く。宵は自身の銀色に濁った右目を手で覆い、歯を食いしばった。化け物になっていく恐怖。しかし、彼には立ち止まることは許されなかった。
「そんなことはどうでもいい……。凛は、僕の妹はどこにいる!? あいつは、生きているのか!?」
心蔵は静かに頷き、しかしその表情に深い哀愁を湛えた。
「肉体はな。都立聖蹟病院の特別病棟で、生命維持装置に繋がれて眠っている。だが、その魂はここにはない。月蝕の夜に新宿御苑の跡地に出現する、黒曜石と銀のイバラの異界――『鳥籠の塔(とりかごのとう)』。その最上階に、塔を維持するための『魔力の楔』として幽閉されている」
「凛の、魂が……」
宵の頭に、激しい衝撃が走った。妹の魂が、怪異たちの巣窟の核心に囚われている。救い出すためには、あの骨喰いのような怪物が跋扈する夜の異界へ、自ら乗り込まなければならないのだ。
「救い出す方法は一つ。月蝕街へ侵入し、塔の主である新宿の蝕王『百眼鬼(ひゃくめき)』を討伐し、凛の魂の欠片を奪還することだ。だが、今の未熟なお前では、塔の門に近づく前に水銀の毒で自滅する」
心蔵は宵の胸元を指差した。
「取引だ、氷室宵。お前が夜行使として、新宿の街に現れる歪み――『蝕獣(しょくじゅう)』を狩り、境界の安定に協力するなら、俺がお前に水銀の制御法を教えてやる。妹を救うための、本物の錬金術をな」
宵は、自身の冷え切った手のひらを見つめた。流れ出る水銀の血、失われゆく体温。人間としての生を捨ててでも、冷たい闇の底から、あの温かい妹の笑顔を取り戻す。その「執着」だけが、彼の凍りついた心臓を動かす唯一のエネルギーだった。
「……わかった。僕は、夜行使になる。凛を救えるなら、悪魔にだって魂を売る」
「いい眼だ。人間を辞める覚悟ができたようだな」
心蔵は自嘲気味に微笑むと、店の奥の埃を被った書棚へと歩み寄った。そして、一冊の古びた、黒い革張りのノートを取り出し、宵の前に放り投げた。
「受け取れ。お前の親父、氷室零司が失踪直前まで書き残していた調査手記だ」
宵は、受け取った手記を震える手で開いた。しかし、その紙面に並んでいたのは、通常の文字ではなかった。幾何学的な紋様と、奇怪な数式、そして解読不能な暗号が、白紙のページを埋め尽くしていたのだ――。
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