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大ガード下の銀刃

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新宿大ガード下。頭上を通過する山手線の轟音が、湿ったコンクリートの壁を激しく震わせる。その不気味な残響の中、氷室宵は、死の淵から蘇ったばかりの冷え切った身体で、その異形と対峙していた。


 暗闇から這い出てきたのは、全身をむき出しの白骨のような外骨格で覆われた、悍ましい獣――「骨喰い(ほねばみ)」だった。四肢が異常に長く伸びたその怪異は、カチ、カチと不快な関節音を立てながら、宵の胸元、正確には彼の心臓に埋め込まれた「黒月の欠片」を、飢えた濁った眼球で見つめている。その割れた顎からは、強酸性の唾液が滴り落ち、アスファルトをじゅっと音を立てて溶かしていた。


(くる――)


 宵の脳が警告を発するよりも早く、骨喰いが地を蹴った。その巨体からは想像もつかないほどの超高速の跳躍。大ガード下の狭い空間を、白い影が一瞬で切り裂く。獣の鋭い爪が、宵の右脇腹を容赦なく引き裂いた。


 ビリ、と衣服が破れる嫌な音が響く。だが、宵の脳には「苦痛」の信号が一切届かなかった。水銀の侵食が神経に達した「無痛の肉体」は、どれほど肉体を損壊されようとも、悲鳴を上げることすら忘れている。宵はただ、自身の脇腹から血の代わりに流れ出る、ネオンの光を冷たく反射する銀色の液体――水銀を、他人事のように見つめていた。


「痛く、ない……?」


 しかし、痛みは感じなくとも、衝撃は物理的に宵の身体を吹き飛ばした。大ガード下の濡れたコンクリート壁に背中を強打し、宵はよろめく。骨喰いは獲物の反応の薄さに一瞬戸惑うような素振りを見せたが、すぐにその狂暴性を剥き出しにし、再びその巨大な顎を開いて宵の頭部へと襲いかかってきた。


 生身のパンチで対抗しようと、宵は無意識に右拳を突き出した。だが、彼の拳は骨喰いの硬固な骨の鎧に虚しく弾かれ、逆に宵の指の骨が鈍い音を立てて砕けた。痛みはない。しかし、物理的な硬度の差は絶対的だった。このままでは、ただ一方的に肉体を削られ、心臓を喰らわれるだけだ。


(武器が、いる。こいつを貫く、もっと硬く、鋭い刃が――)


 その強い「生存への執着」に呼応するように、宵の心臓の奥にある「黒月の欠片」が、トクン、と重く冷たい拍動を刻んだ。血管の中を流れる霊的水銀が、沸騰するかのように激しく還流を始める。宵の体温はさらに低下し、右目のピントが急激に合いづらくなった。視界の半分が、凍りつくような銀色の霧に覆われていく。だが、その代償と引き換えに、宵の脳内に「始祖の錬金数式」のイメージが、光のように駆け巡った。


 手のひらの傷口から、銀色の水銀が噴出する。それは重力を無視して宙に舞い上がり、新宿の赤と青のネオンを乱反射させながら、一瞬にして一本の刀の形状へと凝固した。極限まで硬化し、鍛造された銀色の日本刀――「アザトース」。その刀身は、まるで夜の東京の光を閉じ込めた鏡のように、冷たく、そして狂おしいほどに美しかった。


「……これなら」


 宵は、アザトースの冷たい柄を握り締めた。骨喰いが再び、酸性唾液を撒き散らしながら突進してくる。その鋭い爪が宵の顔面に迫る瞬間、宵はアザトースの刀身をあえて「液体」へと相転移させ、流動する水銀の盾として眼前に展開した。骨喰いの爪が水銀の盾に突き刺さるが、液体はすべての衝撃を吸収し、その動きを完全に受け流す。


 そして次の瞬間、宵は脳内で再び数式を起動した。


「固まれ!」


 盾だった水銀が一瞬にして極限の硬度を取り戻し、骨喰いの爪を絡め取ったまま固定する。身動きの取れなくなった怪異に対し、宵はアザトースを鋭利な一閃へと戻し、骨喰いの白い骨の鎧に向けて、正確無比な「十文字斬り」を叩き込んだ。


 キィィィン――!


 金属と骨が激突する、鼓膜を劈くような高い音が大ガード下に響き渡る。アザトースの圧倒的な鋭さは、骨喰いの頑強な骨の鎧を紙のように切り裂き、その肉体深くまで十文字の傷を刻み込んだ。怪異が悲痛な咆哮を上げる。


 だが、骨喰いもただでは死ななかった。死に物狂いの力で宵の水銀の拘束を振り払い、最後の力を振り絞って宵の脳天を目掛けて突進してきた。その顎には、アスファルトさえ溶かす酸性唾液が溢れている。


 宵は冷静だった。アザトースを再び液体に戻して敵の突進を受け流すと同時に、瞬時に固体化させた鋭利な刃を、骨喰いの濁った眼球の奥――その「脳天」へと突き刺した。


 ドサリ、と重い音がして、骨喰いの巨体がアスファルトの上に倒れ伏した。その傷口から、銀色の水銀が侵入し、怪異の肉体を内側から急速に結晶化させていく。やがて、骨喰いの身体は崩れるように灰へと変わり、夜風に吹かれて消え去った。後に残されたのは、大ガード下の濡れた地面に妖しく光る、一粒の禍々しい紫色の結晶――「蝕結晶」だけだった。


「はぁ、はぁ……」


 戦闘が終わった瞬間、宵を凄まじい疲労感と貧血が襲った。アザトースを形成するために体内の「総血流量」を急激に消費したためだ。彼の右腕の皮膚には、微かに銀色の金属的な血管のような紋様が浮かび上がり、すぐに消えた。体温は、人間としての限界に近い三十四度まで低下し、不眠症の脳は割れるような頭痛を訴えている。


 宵は膝をつき、地面に落ちた紫色の結晶を拾い上げた。その冷たい感触だけが、今起きたことが現実であると告げていた。


「見事な水銀の扱いだな。だが、そんな無防備じゃ、夜の新宿じゃ一晩も持たないぜ」


 突如として、暗闇から冷ややかな声が響いた。


 宵がハッとして顔を上げた瞬間、彼の失明しかけている右目の死角から、漆黒の「影」が這い出てきた。その影は瞬時に鋭利な刃の形状を結び、宵の首元へと冷たく突きつけられた。身動き一つすれば、その影の刃が喉を掻き切るだろう。


 影の奥から歩み出てきたのは、黒いライダースジャケットを羽織った、鋭い眼光を持つ少年だった。彼の足元からは、大ガード下のネオンの光を吸い込むような、不自然に蠢く漆黒の影が伸びている。


「誰だ……」


 宵が掠れた声で問う。少年は不敵な笑みを浮かべ、宵の心臓の鼓動――水銀の流れる音を、楽しむように耳を澄ませていた。


「俺は蓮見駆(はすみ・かける)。お前と同じ、夜の新宿を狩る『夜行使』の一員だ」


 駆と名乗った少年は、宵の右腕の皮膚に走る銀色の痕跡と、その冷え切った体温をじっと見つめ、確信に満ちた声で囁いた。


「お前、その血……ただの人間じゃねえな。その心臓に宿る呪い、そしてその水銀の刃。一族の血筋か?」


 宵には、彼の言う「夜行使」も「一族」も、何のことか分からなかった。ただ、首元に突きつけられた影の刃の冷たさと、自身の身体が完全に「怪物」の領域へ足を踏み入れているという残酷な現実だけが、彼の胸を締め付けていた。


 駆は影の刃を静かに収めると、懐から古びた真鍮製の鍵を取り出し、宵の前に放り投げた。鍵には、奇妙な幾何学模様の刻印が施されていた。


「死にたくなきゃ、そしてその身体の秘密を知りたきゃ、新宿の裏路地にある骨董品店『無明堂』へ行け。そこに、お前の探している『答え』があるはずだ」


 駆の言葉が、宵の眠れない夜に、新たな運命の歯車を噛み合わせようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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