銀色の鼓動、夜を刻む
眠りという名の救済から見放されて、もうどれほどの夜が過ぎただろう。
氷室宵(ひむろ・よい)の瞳に映る深夜二時の新宿は、常に、乾ききらない油絵の具を雑に塗り潰したかのような、歪んだネオンの光に満ちていた。重度の不眠症。それが、医師から下された無味乾燥な診断名だった。しかし、宵自身は本能的に知っていた。この終わりのない覚醒は、単なる肉体のバグではない。彼の魂が、現世の裏側に潜む常夜の街――黄泉国の底冷えする波長と、生まれつき不気味なほど同期してしまっているがゆえの拒絶反応なのだと。幼い頃、今は亡き祖父が「夜、空に黒い月が見える」と怯える宵の頭を抱き締め、「影の街には近づくな」と震える声で囁いた、あの警告の意味を、宵は不眠の夜を重ねるたびに理解しつつあった。
アスファルトを踏むスニーカーの底が、深夜の冷気を吸い上げて足裏を冷やす。宵は、心臓の鼓動が不自然に遅いことに軽い目眩を覚えながら、新宿大ガード下へと向かって歩いていた。頭痛を和らげる薬を求めて、深夜営業の薬局を探すための、いつもの徘徊だった。大ガードの鉄骨が、上空を通過する電車の重低音に共鳴して、獣の唸り声のように微かに振動している。その不気味なノイズが、宵の張り詰めた神経を逆撫でした。
ふと、宵は立ち止まり、夜空を見上げた。大都会の不夜城の光に遮られているはずの空に、異質な影が見えた。満月を侵食するように、悍ましい漆黒の輪郭が、静かに、だが確実に天を蝕んでいる。黒い月――月蝕だ。
「……また、あの月か」
宵が呟いたその瞬間、大ガード下の淀んだ大気が、不自然に引き裂かれた。
突如として、西口のカーブから猛烈な速度で大ガード下へと突入してきた大型トラックがあった。ヘッドライトは消灯しており、不気味なほど無音のまま、狂ったように蛇行している。宵が危険を察知して身を翻そうとした時には、すでに遅かった。トラックのフロントグリルが、宵の視界を暴力的に埋め尽くす。金属が軋む絶叫のような音が鼓膜を突き刺し、次の瞬間、宵の身体は木の葉のように宙へと跳ね飛ばされた。
凄まじい衝撃。肉体が物理的に破壊される、乾いた音が大ガード下に響く。コンクリートの地面へと叩きつけられた宵の身体は、奇妙な角度に折れ曲がっていた。肋骨は砕けて肺を突き刺し、頭蓋からは温かい鮮血が、冷たいアスファルトの上へと急速に広がっていく。視界が急速に狭まり、光が失われていく。呼吸をしようとしても、気管に血が逆流して、ただ喘ぐことしかできない。死ぬのだ、と宵は思った。この眠れない、冷たい世界の片隅で、誰に看取られることもなく。
だが、運命は、宵がただの「死体」として眠ることを許さなかった。
衝突の衝撃で横転したトラックの荷台から、積み荷の木箱が激しく弾け飛んでいた。その中から転がり出たのは、禍々しい闇を放つ、巨大な黒い結晶――黄泉国の主が地上を侵食するために遺したとされる、「心臓の黒月の欠片」だった。結晶は、まるで意志を持つかのように、血の海に横たわる宵の身体へと滑り込み、その鋭利な先端が、宵の引き裂かれた胸口を貫いた。そして、躊躇うことなく、彼の停止しかけた心臓へと深く、深く突き刺さったのだ。
「あ、が――ッ!」
声にならない悲鳴が、宵の喉を焼いた。胸の奥から、絶対零度の冷気が爆発的に広がっていく。それは、生身の人間が耐えられる温度ではなかった。心臓に融合した黒月の欠片が、宵の体内の水分を、そして赤黒い血液を、凄まじい速度で「変生」させていく。熱を奪われ、凝固し、そして流動性を帯びた金属へと書き換えられていく生体プロセス。彼の血管を駆け巡り始めたのは、赤き血ではなく、冷たく煌めく「霊的水銀」だった。
その瞬間、宵の肉体を支配していた凄絶な苦痛が、嘘のように消え去った。水銀の侵食が脊髄の神経に達したことで、彼の右半身の痛覚が、完全にシャットアウトされたのだ。折れ曲がっていた骨が、体内の水銀の圧力によって強制的に再接合され、元の位置へと押し戻されていく。物理的な破壊に対し、霊的な再構成が超高速でカウンターを起動していた。
宵は、操り人形のように不自然な動きで、ゆっくりと立ち上がった。骨折していたはずの足は、痛みを感じることなく彼を支えている。ただ、呼吸をしようとしても、肺胞が冷え切っており、生身の血液循環が完全に機能していないことに気づいた。心臓は、ドクン、ドクンと、重く金属的な不自然な拍動を刻んでいる。生身の血液の代わりに、霊的水銀を体内で強制的に循環させ、半分死んだ肉体を維持する生命システム――「血液代替水銀循環法」が、彼の意思とは無関係に、強制的に起動していた。
「これは……僕の、血なのか?」
宵は自身の右腕を見つめた。深く裂けた皮膚の傷口から流れ出ているのは、赤い血ではない。ネオンの歪んだ光を冷たく反射する、ドロドロとした銀色の液体――水銀だった。水銀は傷口を塞ぐように一時的に凝固し、彼の肉体が崩壊するのを防いでいる。体温は、急速に低下し、常時三十四度付近まで下がっていた。さらに、右目の奥に、凍りつくような冷たい違和感が走る。世界が、半分だけ銀色の霧に覆われたかのように、不鮮明に歪んで見えた。水銀の覚醒者として、人外の領域へと足を踏み入れた代償だった。
宵が自身の異質な身体に戸惑い、冷たい水銀の血を凝視していた、その時だった。
大ガード下の暗闇から、カチ、カチと、乾いた骨が擦れ合うような、悍ましい音が響いてきた。宵の体から漂う、高純度の水銀血の甘く金属的な匂い――そして心臓に宿る黒月の魔力に引き寄せられたのだ。ネオンの届かない影の中から、全身を白骨のような外骨格に覆われ、四肢が異常に長く伸びた、中型の獣のような怪異が這い出てくる。人間の魂と絶望を貪り食う、黄泉の怪異「蝕獣」だった。
蝕獣の濁った眼球が、立ち尽くす宵の「心臓」をロックオンし、大ガード下の暗闇に、飢えた咆哮が響き渡った。
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