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影沙の夜襲

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不気味なほどの静寂が、落日鎮の境界に佇む廃屋を支配していた。砂海を脱出し、どうにかこの荒れ果てた泥土の地に帰還した蕭落行を待ち受けていたのは、安息などという生温いものではなかった。


 一週間――実に七日七晩の間、彼は眠りというものを奪われていた。目を閉じ、呼吸を緩めようとしたその刹那、闇のどこからか無音の刃や毒針が飛来する。鉄血沙門の副門主「蠍三」が放った、砂漠随一の暗殺結社「影沙」の刺客たちによる、執拗極まりない精神的拷問。それは落行の肉体と精神を、確実に泥濘の底へと引きずり込みつつあった。


「はあ、はあ……」


 落行の呼吸は荒く、その瞳は赤く充血していた。視界の端は常に不快な赤みを帯び、耳の奥ではキィンと高い金属音が鳴り響いている。極限の睡眠不足。右腕は黒い革包帯に縛り付けられたまま、完全に感覚を失い、冷たい氷の塊のように垂れ下がっている。左肩の毒鞭による裂傷も、冷たい夜風に晒されて鈍く疼いていた。心臓の奥に宿る「残陽の熱毒」は、疲弊した経絡を内側から焼き尽くそうと、今にも暴走の臨界点に達しかけている。


 今、彼は崩れかけた土壁の隅に背を預け、錆びた無銘の鉄剣を抱え込んでいた。抜刀制限は残り十二回。だが、ここで剣を抜けば、その瞬間に心臓の毒が爆発し、己の命が尽きる。抜かずに、この夜を生き延びねばならない。


 落行は、あえてゆっくりと瞼を閉じた。五感を欺く闇の中で、目に見えるものに頼ることは死を意味する。彼は自らの意識を、耳と、泥床に触れている足裏の感覚へと完全に移行させた。


 ――砂塵聴音。


 ヒュウ、と廃屋の隙間から吹き込む風の音が、砂粒を運んで床に散らす。サラサラと流れる砂の音。その無数の雑音のなかに、落行の研ぎ澄まされた聴覚は、不自然な「沈み込み」を捉えた。床下の赤土が、自重以外の何かによって物理的に圧迫され、砂粒同士が微細に擦れ合う音だ。それは風の音でも、ネズミの這い回る音でもない。


(地中、十五歩――来る)


 ドッ!


 次の瞬間、落行が座っていた泥床が弾け飛び、地中から一本の無音の槍が突き出された。漆黒の穂先が、夜光を浴びて冷たく光る。影沙の暗殺者「冷骨」が操る「砂潜りの術」の奇襲だった。


 落行は目を開けることなく、身を紙一重で横へと滑らせた。彼の足裏は「砂海歩法」の極意により、泥の上を滑るように無音で移動する。突き出された槍先は、落行の灰色の衣服の袖を正確に切り裂いたが、肉体には届かなかった。


 冷骨は一撃が外れたことを悟るや、追撃を繰り出すことなく、再び泥床の中へと吸い込まれるように消え去った。砂が波立ち、一瞬にして気配が完全に遮断される。死人のように体温を下げ、呼吸を極限まで抑える「寒骨功」の技術。完全に闇と砂と同化した敵に対し、常人であれば周囲を見回してパニックに陥るだろう。


 だが、落行は動じなかった。彼の「三十歩の殺気感知範囲」は、廃屋の狭い空間を網の目のように覆い尽くしている。目を閉じ、呼吸を極限まで細くしながら、彼は足裏から伝わる大地の微細な振動を待った。さらに、彼の心臓の熱毒は、冷骨が地中で僅かに発する内力の「熱」と微細に共鳴していた。熱毒共鳴――これこそが、暗闇の中で敵の位置を特定する無形の目だった。


 ザッ、と左斜め後方の砂がかすかに鳴った。


(いや、それは偽りの砂流だ。本物は――)


 背後。


 頭上の崩れかけた梁の影から、冷骨が音もなく舞い降りていた。感情の一切ない死人のような眼。その手には、五毒散の猛毒が塗られた短刀が握られ、落行の無防備な頸椎へと真っ直ぐに突き下ろされる。


「風斬り――!」


 落行は振り返ることなく、左手で抱えていた鉄剣の「残陽の特製鞘」を、背後へと鋭く振り抜いた。抜刀はしない。鞘に収まったままの重い鉄塊が、空気の壁を切り裂き、半円の軌道を描く。


 ギィン!


 激しい金属音が廃屋に響き渡り、火花が暗闇を赤く照らした。特製鞘の厚い鉄面が、冷骨の短刀の刃先を正確に叩き落とした。借力打力の理論――冷骨が放った突進の威力を、落行は鞘の滑りを利用してそのまま冷骨の腕へと弾き返したのだ。冷骨の体勢が大きく崩れる。


 しかし、一週間に及ぶ睡眠不足は、落行の肉体に決定的な「遅れ」を生じさせていた。体勢を崩しながらも、冷骨は左手の袖口から、極細のバネ仕掛けで一発の微細な毒針を放った。


 チッ、と微かな音がした瞬間、落行は身を翻そうとしたが、疲弊した左脚が泥濘に一瞬だけ捕らえられた。避ききれない。


 ちくり、と右太ももに冷たい衝撃が走った。


「ぐっ……!」


 毒針が肉を貫いた瞬間、五毒散の神経毒が血流に混ざり、強烈な麻痺と激痛が走った。毒自体は「百毒免疫の法」によって即死を免れたものの、毒素の侵入は落行の心臓の熱毒を最悪の形で活性化させた。胸元の黒い痣が黄金色に脈打ち、肺腑が燃えるような熱さに包まれる。


「ガハッ……!」


 落行の口から、真っ黒な熱い血が激しく吐き出され、泥床を赤黒く染めた。熱毒臨界点が目の前に迫り、全身の経絡が物理的に焼き切れそうになる感覚。視界が真っ赤に染まり、意識が急速に遠のいていく。


(ここで、倒れるわけにはいかない……!)


 落行は震える手で内衣の裏を探り、一本の細く長い「保命銀針」をひったくった。そして、自らの頭部の秘孔へと躊躇なく突き刺した。痛覚遮断の強制起動。脳神経が激しい電気を帯びたように活性化し、全身を支配していた麻痺と激痛が一瞬にして遮断された。感覚を失った肉体は、一時的に機械のような冷酷な正確さを取り戻す。


 冷骨が再び短刀を構え、とどめを刺そうと踏み込んできた。その踏み込みの瞬間、落行は目をカッと見開いた。血走った瞳が、闇の中で異様な光を放つ。


 落行は「砂海歩法」で泥の上を滑るように前に出ると、冷骨の短刀を左手の鞘で受け流し、その勢いを利用して、特製鞘の柄頭を冷骨の喉元へと正確に叩き込んだ。


 ゴッ、と鈍い骨折音が響き、冷骨は血を吐いて数丈後ろへと吹き飛んだ。喉を潰された冷骨は、落行の底知れぬ死気に本能的な恐怖を感じたのか、懐から砂煙の爆薬を投げつけ、煙に紛れて地中へと逃亡していった。


「はあ……はあ……はあ……」


 刺客は去った。しかし、落行の肉体はすでに限界を超えていた。保命銀針による強制覚醒の代償として、全身の骨が軋み、喉の奥から絶え間なく血が競り上がってくる。彼は錆びた鉄剣を杖代わりにし、どうにかその場に立ち尽くしていた。


 その時、廃屋の壊れた扉から、血まみれの影が這いずり込んできた。


「あ、兄貴……!」


 それは、落日鎮に残してきたはずの阿飛だった。全身に無数の刀傷を負い、衣服は引き裂かれ、息も絶え絶えの状態で落行の足元へと縋り付く。


「阿飛……何があった」


 落行の冷たい声に、阿飛は涙と血にまみれた顔を上げ、絶望的な言葉を吐き出した。


「小泥が……小泥が、蠍三の奴らに拉致されたんだ……! 奴ら、兄貴をおびき出すために、あの子を砦の地下にある『万蛇窟』へ連行していきやがった……!」


 万蛇窟。無数の猛毒蛇が蠢き、一度落ちれば骨も残らないという、鉄血沙門の最悪の処刑場。


「蠍三が……伝言を遺していきやがった……。『蕭長風の錆びた鉄剣を持って、一人で万蛇窟に来い。さもなければ、あの餓鬼を蛇の餌にする』って……!」


 その言葉を聞いた瞬間、落行の脳裏で何かが完全に千切れ去った。睡眠不足による疲労も、右腕の麻痺も、全身を焼く熱毒の苦痛も、すべてが一瞬にして凍りつくような冷徹な怒りへと塗りつぶされていく。


 小泥。自らを「お兄ちゃん」と呼び、廃寺で不器用に身の回りの世話を焼いてくれた、あの健気な少女。養父を失った落行にとって、この世に遺された唯一の「家族」の温もりの残滓。


「……蠍三」


 落行の口から漏れた声は、地獄の底から響く風のようだった。彼は震える左手で、錆びた無銘の鉄剣を固く握りしめた。右腕は完全に死に体となり、体内の熱毒は今にも爆発寸前。だが、彼の瞳に宿る復讐の炎は、これまでになく静かに、そして凄絶に燃え上がっていた。


 小泥を救うため、満身創痍の死神は、毒蛇の蠢く奈落へと歩みを進める決意を固めるのだった。

HẾT CHƯƠNG

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