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蜃気楼の亡霊

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馬車が「蜃気楼の砂海」へと突入した瞬間、世界から一切の色彩が失われ、不気味な黄砂の霧がすべてを覆い尽くした。辺境の夜が持っていた極寒の冷気は一瞬にして消え去り、代わりに肌を刺すような、異常なまでの乾燥と熱気が立ち込める。大気が揺らめき、地平線はまるで歪んだ鏡のように波打っていた。


「ひっ……! あ、兄貴、前が見えねえ! 馬が、馬が怯えてやがる!」


 御手台で手綱を握る阿飛の悲鳴が、砂風の轟音に掻き消されそうになる。車輪が砂に深く沈み込み、馬車は激しく揺れながら、進路を失いつつあった。


 荷台の中で、蕭落行は激しい目眩に襲われ、壁に背を預けた。体内では今、凄まじい嵐が吹き荒れていた。先ほど崑崙派の徐青風から受けた「霜刃剣」の極寒の寒気――それは一時的に落行の心臓の熱毒を冷却したものの、今や彼の経絡の深部で凍りつき、氷の針となって五臓六腑を突き刺していた。それに対し、この砂海が持つ異常な乾燥と熱気が、体内の熱毒を再び急速に活性化させようとしている。


「ぐっ……はあッ!」


 落行は口元を押さえたが、指の隙間からどす黒い血が溢れ出た。右腕は黒い革包帯で体に固定され、完全に感覚を失っている。しかし、剣の鞘を握る左手までもが、寒気と熱毒の激しい衝突によるしびれで、木の枝のように震えていた。


 落行は懐から「渇水袋の冷水」を取り出し、乾ききった喉に流し込んだ。だが、水は喉を通過した瞬間に蒸発するかのように、渇きを癒やすことはなかった。それどころか、心臓の鼓動は早鐘のように高鳴り、胸元の黒い日輪の痣――「残陽の寿命刻印」が、衣服の裏で不気味な熱を帯びて脈打ち始める。


「阿飛……馬車を止めろ。これ以上は、馬が死ぬ」


 落行はかすれた声で命じた。阿飛が必死に手綱を引くと、馬車は砂丘の傾斜の途中で力なく停止した。阿飛は御手台から転がり落ちるようにして荷台を覗き込んだが、その顔は熱中症による極度の疲労で青ざめていた。


「兄貴……俺、もう、頭が割れそうだ……」


「そこで休んでいろ。動くな」


 落行は左手だけで「残陽の特製鞘」を握り締め、ふらつく足取りで馬車の外へと出た。一歩、砂を踏みしめるたびに、足裏から灼熱の熱気が伝わってくる。視界が急速に赤く染まり始めていた。熱毒臨界点が近づいている。このままでは、脳が沸騰して死に至る。


 落行は砂丘の頂へと這い上がり、胡坐をかこうとした。だが、膝を突いた瞬間、凄まじい幻覚が彼の精神を襲った。


 砂嵐が不自然に静まり返り、目の前の砂丘が赤黒い血の海へと変貌していく。その血の海の中から、一人の壮年が静かに姿を現した。白髪交じりの髪を無造作に結い、幾多の死線をくぐり抜けた深い皺を持つ男。その濁りのない眼光が、落行の魂を見透かすように向けられる。


「……義父上……?」


 落行の喉から、掠れた声が漏れた。そこに立っていたのは、二年前、自らの目の前で惨殺されたはずの養父、蕭長風だった。蕭長風は生前と変わらぬ厳格な佇まいで、落行の背負う「錆びた無銘の鉄剣」を優しく指差した。その声は、砂風の囁きのように落行の脳裏に直接響いてくる。


『落行よ。なぜお前は、その呪われた剣を抜こうとするのだ』


「義父上……私は、あなたを裏切り、惨殺した十二人の仇を討つために……」


『復讐の果てに何が残る。その錆びた鉄剣は、人を守るためのものではない。お前の生命力を吸い尽くし、周囲のすべてを焼き尽くす魔道の刃だ。復讐を捨てよ。この砂漠に剣を埋め、平穏に生きるのだ』


 蕭長風の言葉は、落行の心の奥底に眠る、最も柔らかく、最も恐れていた部分を容赦なく突き刺した。抜刀するたびに寿命が縮む恐怖。死が確実に近づく焦燥。そして、「生きて平穏に暮らしたい」という、復讐者としては決して抱いてはならない人間らしい生への執着。


「いや……私は誓った。あなたの無念を晴らすと……!」


『お前の命を犠牲にした復讐など、私は望んでいない。お前はただ、己の死の恐怖から逃れるために、復讐という大義名分にしがみついているだけではないのか?』


 幻影の長風の顔が、急激に醜く歪み始めた。彼の皮膚はひび割れ、目から真っ赤な炎が噴き出す。周囲の砂が生き物のようにうねり、巨大な炎の蛇となって落行の身体に絡みついた。心臓の熱毒が激しく疼き、全身の経絡が物理的に焼き焦げるような激痛が走る。


「うおおおッ!」


 落行は叫び、左手で鉄剣の特製鞘を掴むと、目の前の炎の蛇に向けて狂ったように振り回した。しかし、鞘は虚しく空を切り、物理的な実体のない幻影を切り裂くことはできなかった。無駄な運動はただでさえ枯渇しかけていた体力を激しく消耗させ、落行は砂丘の上に激しく転倒した。口から吐き出された黒い血が、灼熱の砂に触れて一瞬で蒸発する。


(違う……義父上は、そんなことは言わない……!)


 砂に顔を伏せながら、落行は必死に理性を繋ぎ止めた。蕭長風は寡黙で厳格な男だったが、落行に剣を教える際、常に「不義を許すな、弱者を守れ」と説いていた。復讐を捨てて逃げろなどと、あの高潔な将軍が言うはずがない。


(これは蜃気楼の幻覚だ。俺の心の中に眠る『死への恐怖』と『生への未練』が、義父の姿を借りて俺の復讐の意志を挫こうとしているのだ!)


 敵は外にはいない。己の内にいるのだ。物理的な攻撃も、内力の放出も、この幻覚に対しては自滅を早めるだけの無駄な足掻きに過ぎない。


 落行は錆びた鉄剣を砂に突き立て、それを支えにしてゆっくりと上体を起こした。彼は目を閉じた。視界を遮る赤い世界を、自らの意思で完全に遮断する。そして、砂の上に端座し、左手を丹田の上に置いた。


 彼は、かつて落日鎮の廃墟で出会った無名の老道士、虚無道人から伝授された呼吸法「静心訣」を起動した。


「心平らかに、気静かに、万物帰一……」


 深い呼吸を一つ。喉を焼くような乾燥した空気が肺に侵入するが、落行はその熱を無視し、意識を体内の気の巡りだけに集中させた。徐青風から受けた寒気の残滓と、体内の熱毒。二つの相反するエネルギーを、静心訣の正しい軌道へと強引に誘導し、丹田の中で静かに融合させていく。


 炎の蛇が彼の耳元で激しく咆哮し、幻影の蕭長風が冷酷な言葉を投げかけてくる。だが、落行はそれらすべてを「雑音」として切り捨てた。自らの存在を、世界の中心にある絶対的な「静寂」へと置いていく。


 呼吸が静まり、心臓の鼓動が徐々に低下していくにつれ、全身の白熱していた皮膚の赤みが引いていった。耳元を支配していた炎の轟音は、次第にただの乾いた風の音へと戻っていく。


 落行が再び目を開けたとき、血の海も、炎の蛇も、蕭長風の幻影も、すべて消え去っていた。そこにあるのは、月光に照らされた、ただの静かで過酷な砂の海だけだった。


「はあ……はあ……」


 落行は激しい虚脱感に襲われ、その場に倒れ込んだ。極度の脱水症状と精神的な極限疲労により、指一本動かす体力すら残されていない。このまま冷たい夜風に晒されれば、体温を失って死に至るだろう。


 その時、静まり返った砂丘の向こうから、かすかな足音が近づいてきた。砂を踏みしめる、四つの足音。


 落行は微かな意識の中で、残された五感を研ぎ澄ませた。現れたのは、馬賊の刺客でも、正派の追跡者でもなかった。雪のように白い毛並みと、星のように輝く青い瞳を持つ、巨大で威厳のある老いた白い狼だった。


「……お前は……」


 老狼は落行に近づくと、その濡れた鼻先を落行の動かない右腕に優しく押し当てた。その瞬間、落行の脳裏に、かつて蕭長風が軍人時代に語っていた古い戦場の記憶が蘇った。長風が戦場で救い、共に辺境を駆け抜けたという忠実な「砂漠の白狼」。その老狼が、落行の体から漂う蕭長風と同じ鉄と松脂の匂いを感じ取り、彼を助けるために現れたのだ。


 白狼は一度低く唸ると、ゆっくりと歩き出し、落行を振り返った。「ついて来い」と、言葉なき意思が伝わってくる。


 落行は最後の力を振り絞り、砂の上を這うようにして白狼の後に従った。白狼は、砂丘の影に隠された、奇妙な冷気が漏れ出す狭い岩の裂け目へと彼を導いた。そこは、砂漠の地下深く、外部の熱を完全に遮断する「砂漠の隠し氷穴」だった。


 氷穴の中に入った瞬間、奇跡的に溶けずに残っている古い氷の冷気が、落行のボロボロの肉体を優しく包み込んだ。暴走しかけていた熱毒が物理的に急速に冷却され、心臓の不快な疼きが静まっていく。


 落行は氷の床の上に横たわり、左手で背中の錆びた鉄剣を引き寄せた。絶対的な静寂と冷気の中で、彼の意識は驚くほど澄み渡っていく。


 彼は、蕭長風の遺品から発見した「残陽剣譜」の呼吸法の記述を、脳裏で静かに反芻した。これまでは、単に命を削るための呪われた呼吸だと思っていた。だが、この極限の寒気の中で、熱毒が静まり返った自らの経絡の気の流れを観察した瞬間、落行の脳裏に、一筋の電撃のような閃きが走った。


(待てよ……。義父上が遺したこの呼吸法は、単に熱毒を爆発させるためのものではない。この毒の熱量を、ある特定の軌道へと誘導すれば……)


 それは、失われた剣譜の真の意図に触れる、最初の直感的な閃きだった。蕭長風が、自らを単なる復讐の兵器にするためにこの剣法を遺したのではないという、大いなる真実の片鱗。だが、その閃きを深く追究する時間は、彼には残されていなかった。氷穴の外から、冷たい風に乗って、不穏な金属の擦れ合う音がかすかに響いてきたのだ。

HẾT CHƯƠNG

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