白き剣、黒き影
砂嵐が去りかけた辺境の夜は、骨の芯まで凍みるような冷気を孕んでいた。落日鎮の境界線に位置する荒涼たる砂丘。急停車した馬車の軋み音が、静寂を破って不気味に響き渡る。
「ひっ……! あ、兄貴、前方に……!」
御手台で手綱を握る阿飛の声が、恐怖で引き攣っていた。馬たちは鼻息を荒くし、冷たい夜風の中で怯えたように足掻いている。
馬車の荷台から、蕭落行は静かに身を起こした。左肩の裂傷からは、黒ずんだ血が今も滲み出し、衣服を濡らしている。蠍三の毒鞭「五毒散」の麻痺は、自らの内に眠る「百毒免疫の法」によってかろうじて抑え込まれていたが、全身を襲う疲弊は限界に達していた。さらに、先ほど頭から被った冷水の効果は完全に失われ、心臓の奥底では「残陽の熱毒」が再び沸騰を始めようとしている。胸元の黒い日輪の痣が、衣服の裏で脈打つたびに、熱い火を吹き出すかのような激痛が走った。
落行は左手で黒い「残陽の特製鞘」を握り締め、ゆっくりと馬車の外へと足を踏み出した。砂丘の上に立つ彼の右腕は、何重にも巻かれた黒い革の包帯に縛られ、力なく垂れ下がっている。薬指と小指は完全に死に、腕全体の感覚は氷のように冷たく失われていた。
行く手を阻むように砂丘の頂に立っていたのは、月光を反射する白い長衣を纏った若者たちだった。その中心に立つ男、徐青風は、傲慢な笑みを浮かべながら落行を見下ろしている。彼の腰に佩かれた名剣「霜刃剣」からは、周囲の空気さえも凍らせるような、鋭く冷たい剣気が立ち上っていた。
「やはり、ただの馬賊の残党ではないな」
徐青風の声は、辺境の泥臭い響きとは無縁の、洗練された、しかし極めて冷酷な響きを帯びていた。
「全身から立ち上るその禍々しい赤い気のオーラ……。邪悪なる『魔教の残党』の邪法に違いない。落日鎮で悪逆を働いた殺人鬼め、崑崙派の徐青風が、その息の根を止めて我が門派の誉れとしてくれよう」
魔教の残党。邪悪なる魔功。正派のエリート特有の、自らの「正義」に一片の疑いも持たない独善的な眼差しが、落行の瞳に映った。彼らは名誉のために、この辺境の地で「手柄」を探していたのだ。目の前の瀕死の少年が、どのような怒りと哀しみを背負ってここに立っているのかなど、彼らにとっては知る価値もないことだった。
(正派の偽善者め……。俺を魔教と決めつけ、己の剣を飾り立てるための生贄にするか)
落行の胸の奥で、氷のような冷徹な怒りが静かに燃え上がった。心臓の脈拍が跳ね上がり、体内の熱毒が急激に活性化する。視界の端が真っ赤に染まり始め、喉の奥に熱い血の味が広がった。熱毒臨界点が近づいている。
ここで背中の「錆びた無銘の鉄剣」を抜けば、この傲慢な若者たちを一瞬にして切り裂くことができるだろう。だが、その瞬間に自らの寿命はさらに縮み、経絡は破裂する。そして何より、中原の名門である崑崙派を敵に回せば、十二人の仇敵を屠る前に、武林全体の包囲網に圧殺されることになる。
(抜いてはならない。抜かずに、この寒気を利用する)
落行は冷徹に計算していた。徐青風の「霜刃剣」から放たれる崑崙霜雪剣の寒気は、自らの沸騰する熱毒を物理的に冷却する格好の触媒となり得る。しかし、それは劇薬だ。寒気が経絡の深部に侵入すれば、体内の熱と衝突し、内側から肉体を破壊される。受け流しつつ、その冷気だけを右腕の冷却に利用せねばならない。
「阿飛、下がっていろ。馬車を守れ」
落行は低く呟き、左手一本で特製鞘を構えた。右腕は黒い革包帯に縛られたまま、完全に死に体として体に固定されている。
「片腕の障害者か。見くびられたものだな!」
徐青風は不快そうに眉をひそめると、一瞬にして砂丘を滑り降りた。彼の足さばきは洗練されており、泥濘む砂の上であっても一寸の乱れもない。霜刃剣が鞘から抜かれた瞬間、周囲の温度が急激に低下し、細かな雪の結晶が宙に舞った。
キィィィン!
徐青風の放った最初の突きは、落行の喉元を正確に狙っていた。冷たい寒気を帯びた鋭い突き。落行は「砂海歩法」を起動し、足裏から微細な内力を放出して砂の上を滑るように身をかわした。しかし、病み上がりの肉体と左半身のしびれゆえに、回避の角度がわずかに狂う。霜刃剣の刃先は落行の首筋をかすめ、放たれた寒気の剣気が、落行の灰色の衣服の袖を凍りつかせながら切り裂いた。
「ほう、避けたか。だが、崑崙の剣は一度交わせば逃れられぬ!」
徐青風は手首を鋭く返し、連続の斬撃を繰り出した。白く輝く剣気が、落行を包み込むように四方から襲いかかる。落行は左手だけで特製鞘を操り、必死の「風斬り」の防御を展開した。金属音が夜の砂漠に連続して響き渡る。
チィン! チィン! チィン!
徐青風の剣が落行の特製鞘に触れるたび、凄まじい寒気の内力が鞘を通じて落行の左腕へと伝わってきた。指先が凍りつくような激痛。だが、落行はその寒気を自らの意思で左肩の秘孔へと誘導し、体内の暴走する熱毒と衝突させた。ジュゥゥ、と落行の皮膚から白い水蒸気が立ち上る。熱と寒気の衝突は肉体を苛んだが、沸騰しかけていた心臓の熱は、奇跡的に一時冷却されていく。
「おのれ、なぜ倒れん! 我が寒気の内力を受けて、なぜ動きが鈍らない!?」
徐青風は焦燥を募らせていた。目の前の灰色衣の少年は、ボロボロで片腕が動かないはずなのに、自分の洗練された剣撃をすべて「鞘」だけで防ぎきっているのだ。しかも、その防御には一片の無駄もなく、自らの剛気を滑らせるようにして逸らしている。
これこそが、蕭長風が授けた武理「借力打力の理論」。
徐青風が焦りから大振りの一撃を放ったその瞬間、落行の瞳に冷たい光が宿った。彼は正面から寒気を受け止めるのを止め、鞘の角度をわずかに傾け、徐青風の剣身を鞘の表面で滑らせた。
ズザァッ!
徐青風の放った強力な寒気の剣撃は、落行の鞘を滑り、そのまま地面の赤土へと叩きつけられた。凍りついた赤土が一瞬にして破裂し、激しい砂煙が舞い上がる。その衝撃を利用し、落行は「砂走り」の足さばきで砂丘の影へと滑るように後退した。
「待て! 逃がすか、魔教の徒め!」
徐青風は怒声を上げ、再び剣を構えて追撃しようとした。しかし、その時、落行が逃げ込んだ先を見た崑崙派の弟子の一人が、悲鳴に近い声を上げた。
「し、徐兄上! あそこは……あそこから先は『蜃気楼の砂海』です! 生きて戻った者はいないという死の禁地です!」
徐青風は一瞬、足を止めた。目の前に広がるのは、夜の闇の中でも不気味に揺らめく、地形すらも歪んで見える異常な砂の海だった。極度の乾燥と熱気が渦巻き、侵入者の精神を破壊するという伝説の禁足地。
落行は馬車の荷台へと飛び乗り、阿飛に向けて低く命じた。
「走らせろ。砂海の中へ」
「ひっ……兄貴、正気か!? あそこは地獄だぞ!」
「正派の奴らに捕まるよりはましだ。行け!」
阿飛は悲鳴を上げながらも、激しく馬に鞭を当てた。馬車は猛然と、揺らめく蜃気楼の闇の中へと突入していく。
砂丘の上に取り残された徐青風は、名剣を握り締め、砂海へと消えていく馬車の影に向けて激しく叫んだ。
「魔教の徒め! どこまで逃げようと、崑崙の霜刃が地獄まで追い詰め、その首を撥ねてくれるわ!」
冷たい風が吹きすさぶ砂丘に、徐青風の傲慢な叫び声だけが虚しく響き渡っていた。落行を乗せた馬車は、大自然が作り出す最悪の試練「蜃気楼の砂海」の深部へと、音もなく吸い込まれていった。
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