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泥にまみれた義侠

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漆黒の闇を切り裂き、うねる黒蛇のごとき長鞭が蕭落行の死角へと這い寄る。空気を切り裂くその不気味な風切り音は、ただの打撃ではない。鞭の表面に編み込まれた無数の鉄の棘が、松明の赤黒い光を浴びて冷たく鈍い光を放っていた。


「死ね、蕭家の生き残りめ!」


 蠍三の歪んだ叫びと共に、放たれた「毒蠍の鞭」は物理的な軌道を無視するかのように、空中で急激に折れ曲がった。これこそが辺境を震撼させる鞭術「蛇蠍鞭法」の真髄。直線の動きに慣れた並の剣客であれば、この変則的なうねりを見切れず、一撃で肉を削ぎ落とされるだろう。


 落行は右腕を黒い革の包帯で体に固く固定したまま、一歩も退かなかった。動くのは左手のみ。逆手に握った漆黒の「残陽の特製鞘」が、闇の中でかすかに風を切る。


 キィィィン!


 鋭い金属音が夜の落日泉に響き渡った。落行は左手一本で鞘を操り、鞭の最初の打撃を正確に弾き落とした。しかし、蠍三の鞭は一度弾かれた程度で勢いを失うものではなかった。蛇が獲物に絡みつくように、跳ね返った鞭の先端が不気味に旋回し、落行の左肩へと襲いかかる。


 鋭い棘が灰色の布衣を破り、落行の左肩の肉を深く切り裂いた。激しい激痛と共に、傷口から不気味な紫色の血が滲み出る。鞭の先端に塗布された神経毒「五毒散」が、瞬時に傷口から体内へと侵入したのだ。


「ひゃはは! かかったな! 我が五毒散の麻痺からは、いかなる達人も逃れられん!」


 蠍三は勝ち誇ったように鬼眼を剥いた。だが、その笑みはすぐに凍りつくことになる。


 落行の皮膚が一瞬にして青ざめ、傷口から黒い毒血が押し出されたが、彼の動きは止まらなかった。幼少期、養父・蕭長風によって施された過酷な「百毒免疫の法」が、体内で自動的に機能し、毒素の急速な分解を始めていたのだ。かすり傷程度であれば、落行の強靭な抗体がその麻痺を一時的に無効化する。


 しかし、問題は外部の毒ではなく、体内の「熱」だった。


 周囲の空気に充満する五毒散の酸っぱい甘い臭いが、落行の心臓に宿る「残陽の熱毒」と不気味に共鳴していた。ドクン、ドクンと、胸の奥で黒い日輪の痣が狂ったように脈打ち始める。さらに、先ほど頭から被った「渇水袋の冷水」による冷却効果が、砂漠の熱気と激しい運動によって急速に蒸発し、失われつつあった。


(熱が……戻ってくる)


 視界の端が赤く染まり始める。体内の「熱毒臨界点」が急速に近づいている。内力が暴走し、経絡が物理的に焼き切れそうになる恐怖が、落行の脳髄を支配しかけた。このままでは、剣を抜く前に自滅する。


「……静まれ」


 落行は歯を食いしばり、左手の親指で自らの首筋と左肩の秘孔を深く突き刺した。応急技術「痛覚遮断」の発動である。


 一瞬にして、左肩の裂傷から伝わる燃えるような激痛と、毒素による微細なしびれが脳から遮断された。感覚を失った左腕は、まるで機械のように正確で冷酷な動きを取り戻す。落行の表情から一切の苦痛の歪みが消え、底なしの氷のような静寂がその瞳に宿った。


「なに……!? 毒が効いていないのか!?」


 蠍三は信じられないものを見る目で落行を凝視した。麻痺して倒れるはずの少年が、血を流しながらも、一切の動揺を見せずに自分を見つめ返しているのだ。その異様な死気に、周囲の馬賊たちも本能的な恐怖を感じて一歩後退した。


「蠍三、お前の首を獲るまで、俺の身体は止まらない」


 落行は「砂海歩法」を起動した。足裏から微細な内力を放出し、ぬかるんだ泉の周囲の泥を滑るように移動する。その踏み込みは無音であり、残像すら残すほどの速度だった。


「調子に乗るな、小僧がぁ!」


 蠍三は焦燥に駆られ、蛇蠍鞭法の奥義「蠍尾針」を繰り出した。長鞭の先端が、まるで獲物を刺す蠍の尾のように鋭角に折れ曲がり、落行の両目をピンポイントで貫こうと迫る。回避不可能な速度と軌道。


 だが、落行の脳裏には、蕭長風が遺した武理が冷徹に響いていた。


『強風は太木を折るが、柳の枝は受け流す。剛なる力を、剛で受けてはならぬ』


 落行は「借力打力の極限」に達した精神で、迫り来る鞭の先端を見据えた。彼は避けるのではなく、自ら一歩踏み込み、左手の特製鞘の先端を鞭の軌道上へと滑らせるように配置した。


 チィン!


 鞘の滑らかな鉄の表面が、鞭の「蠍尾針」の物理的な質量と衝突した。落行は自らの内力を消費せず、相手の放った剛力を、鞘の角度をミリ単位で傾けることでそのまま別の方向へと受け流した。力が反転する。


「なっ……!?」


 軌道を逸らされた鞭の先端は、落行の真横を通り抜け、背後に控えていた鉄血沙門の馬賊の胸元へと突き刺さった。棘に塗られた五毒散がその男の体内に一瞬で注入され、男は悲鳴を上げる間もなく、口から泡を吹いてその場に崩れ落ちた。


「おのれ、他人の力で我が部下を殺すとは……!」


 蠍三は激怒し、鞭を手元に引き戻そうとした。その一瞬の引きの動作に、わずかな隙が生じる。落行はその隙を見逃さず、一気に間合いを詰め、蠍三の喉元に向けて特製鞘を突き出した。鞘の先端が、蠍三の気管を物理的に粉砕しようと迫る。


 しかし、狡猾な副門主はただでは倒れなかった。蠍三は懐から数本の毒針を左手で放ち、落行の顔面を狙った。落行は「風斬り」の高速防御で鞘を横に振り、金属音と共に毒針をすべて叩き落としたが、その隙に蠍三は数丈後ろへと飛び退き、再び鞭の間合いを確保してしまった。


 激しい運動により、落行の「痛覚遮断」の裏で蓄積されていたダメージが一気に噴き出した。ゴフッ、と落行の口から黒い熱い血が吐き出され、泉の水面を赤黒く染める。膝が激しく震え、視界が急激に暗くなり始めた。熱毒臨界点がすぐ目の前に迫っている。


「ははは! やはり限界ではないか! そのボロボロの体で、これ以上の戦いは無理だ。者ども、あの小僧を囲んでなぶり殺しにしろ!」


 蠍三の命令を受け、残った馬賊たちが一斉に刀を構えて落行を包囲し始めた。落行は地面に鞘を突き立て、辛うじて身体を支えていた。右腕は完全に感覚を失い、左腕も毒の残滓としびれで言うことを聞かなくなっている。もはや、ここで剣を抜くしかないのか。抜刀制限を破れば、復讐の旅はここで終わる。だが、抜かねばここで死ぬ。凄絶な葛藤が落行の胸を締め付けた。


 その時、包囲する馬賊の列の後方で、一人の若い男が激しい葛藤の表情を浮かべていた。


 阿飛である。


 彼は鉄血沙門の下っ端として、これまで多くの残虐な略奪を見てきた。しかし、目の前にいる灰色衣の少年は違った。少年は自らの命が崩壊しかけているにもかかわらず、捕らえられた住人を救い、阿水を庇い、無駄な殺生を避けるために剣すら抜かずに戦っている。その姿は、阿飛が幼い頃に憧れた、泥にまみれながらも正義を貫く「真の侠客」そのものだった。


(俺は……こんな腐った組織で、このまま犬死にするのか? それとも、あの人のために……!)


 阿飛の胸の中で、長年眠っていた男の意気が、ついに爆発した。


「うわあああ!」


 阿飛は突然叫び声を上げると、地面の乾燥した砂塵を両手で掴み、周囲の松明に向けて力任せに投げつけた。火花と砂埃が爆発するように舞い上がり、落日泉の貯水池周辺は一瞬にして視界ゼロの黄色い闇に包まれた。


「な、何事だ!? 阿飛、貴様、裏切ったか!」


 蠍三の怒号が響く。砂嵐のなか、阿飛は落行のもとへと駆け寄り、彼の動かない身体をその細い肩で必死に支え上げた。


「兄貴! 俺についてきてくれ! 裏口に馬車を用意してある!」


「……お前、なぜ……」


「能書きは後だ! 死にたくなければ、走れ!」


 落行は阿飛の肩を借り、残された最後の内力を「砂海歩法」に注ぎ込んで、砂塵の闇の中を滑るように駆け抜けた。背後から蠍三の鞭が風を切り裂いて迫ったが、阿飛が投げた煙幕の前に軌道が狂い、二人の足元をかすめるに留まった。


 二人は馬賊たちの混乱を突き抜け、落日泉の裏手に隠されていた粗末な馬車へと飛び乗った。阿飛が激しく鞭を当てると、馬は砂漠の夜闇に向けて猛然と走り出した。遠ざかる落日泉から、蠍三の呪わしい咆哮が響いていたが、それもやがて乾いた風音にかき消されていった。


 馬車の荷台に倒れ込み、落行は「静心訣」の呼吸を必死に整えようとした。胸元の寿命刻印が不気味に熱を発し、右腕は氷のように冷たくなっている。なんとか生き延びたが、自らの肉体は確実に崩壊の一歩手前まで進んでいた。阿飛は馬車の御手台から、不安そうに荷台を振り返った。


「兄貴、大丈夫か? ……街の外れまで来れば、ひとまずは安全のはずだ」


 だが、阿飛の言葉が終わりきる前に、馬車が急激に制動をかけ、不気味な金属音と共に停止した。馬が恐怖に怯えたように嘶く。


「な、なんだお前たちは……!?」


 阿飛の悲鳴に近い声が響いた。落行は重い身体を引きずり、左手で鞘を握り直して馬車の外へと視線を向けた。


 落日鎮の境界線、冷たい夜風が吹きすさぶ砂丘の上に、白い衣服を身に纏った数人の影が静かに立ちはだかっていた。その中心に立つ若い男の腰には、名門の証である洗練された「霜刃剣」が佩かれている。崑崙派のエリート、徐青風である。


 徐青風は落行の身体から立ち上る、熱毒による禍々しい赤い気のオーラをじっと凝視し、軽蔑に満ちた冷たい笑みを浮かべた。


「やはりここにいたか。全身からこれほどの禍々しい邪気を放つとは……。魔教の残党め、ついに見つけたぞ。崑崙の霜刃が、お前を地獄へと送ってやる」


 正派の傲慢な剣士たちが、落行の「熱毒」を魔功と誤解し、名誉のために剣を抜く。最悪の遭遇が、瀕死の落行の前に立ち塞がった。

HẾT CHƯƠNG

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