涸れた泉の毒蠍
落日鎮の夜は、乾いた砂の匂いと、どこか冷ややかな死気につつまれていた。壊れかけた廃寺の奥、微かに差し込む月光の下で、蕭落行は静かに座していた。膝の上に横たえられているのは、昼間、隻腕の鍛冶屋・鉄大叔から受け取ったばかりの「残陽の特製鞘」である。漆黒の鈍い光を放つその鞘に、錆びた無銘の鉄剣が深く収まっていた。
落行は無言で己の右手を持ち上げた。黒い革の包帯が痛々しく巻き付けられたその腕。指先を動かそうと試みるが、薬指と小指はまるで冷たい石の彫刻のように、強硬に沈黙を守ったままだ。老医師・張大夫の言葉が、耳の奥で冷酷に蘇る。
『お前の右手の麻痺は、経絡が物理的に焼き切れた結果だ。二度と元には戻らん。次に剣を抜けば、その場で即死してもおかしくはないぞ』
寿命は残り一年、そして抜刀制限は十二回。まだ一回もその刃を抜いていないというのに、己の肉体はすでに滅びの坂を転がり落ち始めていた。落行は静かに息を吐き、左手で特製鞘のざらりとした鉄の肌を撫でた。確かに、この鞘に剣を収めている限り、心臓を焼き焦がすようなあの狂おしい熱気は、驚くほど静まり返っている。鉄大叔の鋳剣技術は本物だった。だが、それもただの引き延ばしに過ぎないことを、落行は誰よりも理解していた。
その時だった。廃寺の開け放たれた門口から、冷たい夜風が吹き込んできた。砂漠の夜風は常に乾燥しているはずだった。しかし、その風の中に、異質な「何か」が混じっているのを、落行の鼻腔が捉えた。
金属が腐食したような、鼻を刺す酸っぱい臭い。そして、どこか甘ったるい、腐肉のような死の香り。
「……!」
ドクン、と落行の胸の奥が不自然に跳ね上がった。心臓の鼓動が急激に速まり、全身の経絡を流れる血がにわかに沸き立つ。右腕の包帯の下で、消えかけていた熱毒が再び不気味に脈打ち始めた。皮膚が内側から焦げるような、あの鋭い激痛が走る。
これは「熱毒共鳴」だった。落行の心臓に宿る残陽の毒が、外部の極めて強力な毒素と微細に反応し、警鐘を鳴らしているのだ。この不快な疼き、そして風に乗って漂う独特の毒気――間違いない。鉄血沙門の副門主、狡猾極まりない「鬼眼の毒蠍・蠍三」が好んで使用する神経毒「五毒散」の臭いだ。
臭いの源流は、南の方角。そこには、落日鎮の住人たちが命を繋ぐ唯一の湧き水――「落日泉」がある。
「あの男……泉に毒を撒く気か」
落行の瞳に、極寒の氷のような殺意が宿った。蠍三は、落行をおびき出すために、この町の生命線である水源を汚染しようとしているのだ。もし住人たちが何も知らずにあの水を口にすれば、数呼吸のうちに全身を麻痺させられ、血を吐いて死に絶える。それだけではない。毒を盾に取り、住人たちを人質にして、落行に「錆びた鉄剣」を差し出せと要求するに違いない。
怒りが脳髄を駆け巡り、心臓の脈拍がさらに跳ね上がる。それに呼応するように、体内の「熱毒臨界点」が急速に近づいていく。視界がかすかに赤く染まり、喉の奥に熱い血の味が広がった。このまま走れば、目的地に着く前に熱毒が暴走し、己の経絡が自壊する。
落行は冷徹に自らの肉体を制御すべく、腰に下げていた渇水袋を左手でひったくった。中には、砂漠のオアシスの底から汲み上げた、氷のように冷たい湧き水が入っている。彼は一切の躊躇なく、その渇水袋の冷水を頭から浴びせた。
ジュゥゥッ……!
夜の闇の中に、かすかな水蒸気と白い霧が立ち上った。氷のような冷水が、熱を帯びた頭部と胸元を物理的に急激に冷却する。血管が収縮し、暴走しかけていた熱毒の気の流れが、強引に抑え込まれていく。激しい悪寒が全身を襲ったが、落行はその寒気を利用して「静心訣」の呼吸を整えた。
「小泥……待っていろ」
落行は低く呟くと、廃寺の影から飛び出した。右腕を包帯で体に固く固定し、最初から動かないものとして扱いながら、左手だけで黒い特製鞘を握りしめる。ぬかるんだ砂地を踏みしめ、彼は「砂海歩法」を起動した。足裏から微細な内力を放出し、砂との摩擦を極限まで減らす。彼の身体は、砂漠の夜闇の中を、まるで風に舞う木の葉のように音もなく滑り出していった。その速度は、常人の目を欺くほどに速く、不気味だった。
オアシスの水源「落日泉」の周辺は、不気味な松明の光によって赤黒く照らし出されていた。石造りの巨大な貯水池の周りには、すでに十数人の鉄血沙門の馬賊たちが、刃を光らせて陣取っている。住人たち――水を売り歩く少年の阿水や、怯える老人たちが、縄で縛られて冷たい地面に跪かされていた。
その中心に、背の低い、猫背の男が立っていた。片目が不気味に白濁し、全身から薬草と毒の匂いを漂わせる男。蠍三である。彼の右手には、蛇の皮と鉄の棘を編み込んだ黒い長鞭「毒蠍の鞭」が握られ、まるで生きている蛇のように地面の上でのたうち回っていた。
「おい、大人しくしろよ。この『五毒散』がこの泉にすべて溶ければ、お前たちの命の綱は完全に枯れる。あの錆びた剣を持つ小僧が、自分の命と引き換えにお前たちを救いに来るかどうか、試してやろうじゃないか」
蠍三は下卑た笑い声を上げ、左手に持った小さな粘土の器を、貯水池の真上に掲げた。中には、泉の水を一瞬にして猛毒の沼へと変える、五毒散の粉末が入っている。跪かされた阿水が、必死に声を枯らして叫んだ。
「やめろ! そんなことをしたら、この町の人はみんな死んじまう! 落行の兄貴は、お前たちなんかに負けない!」
「黙れ、泥棒猫の身内が」
馬賊の一人が阿水の頭を乱暴に踏みつけ、池の縁へと押し出そうとした。蠍三の指先が傾き、粘土の器から、黒緑色の不気味な粉末が泉の水面へとこぼれ落ちようとした、まさにその一瞬前――
ヒュッ、と風を切り裂く微かな音が闇を裂いた。
誰もがその音に気づく間もなかった。滑るような「砂走り」の足さばきで、灰色の影が松明の光の中に突如として出現した。蕭落行である。彼は右腕を体に固定したまま、左手だけで漆黒の「残陽の特製鞘」を逆手に握り、目にも留まらぬ速さで踏み込んだ。
ゴッ!
鈍い破裂音が響き、阿水を踏みつけていた馬賊の手首に、特製鞘の先端が正確無比に叩き込まれた。骨が砕ける嫌な音が響き、馬賊は悲鳴を上げる暇もなく、その場に崩れ落ちた。落行はすかさず左足で地を払い、阿水の縄を切って彼の身体を背後へと引き剥がした。
「なっ……! お前は!」
馬賊たちが一斉に色めき立ち、刀を引き抜いた。蠍三は白濁した左目を細め、落行の姿をじっと見つめた。その視線は、落行の腰に下げられた漆黒の鞘と、完全に固定されて動かない右腕へと向けられる。
「やはり来たか、蕭長風の忘れ形見め。……だが、その右腕はどうした? 包帯で固く縛り、一本の指も動かしていないようだがな」
蠍三の狡猾な声が、夜の空気の中に響き渡る。落行は無言のまま、左手で鞘を構え直した。心臓の奥で、毒が不気味に疼き続けている。空気中に充満する五毒散の気配が、彼の「熱毒共鳴」を刺激し、呼吸を徐々に苦しくさせていた。
「お前を殺すのに、右腕など必要ない」
落行の声は、砂漠の底に眠る氷のように冷たかった。彼は絶対に剣を抜かない。ここで抜刀すれば、目の前の蠍三を討ち取ることはできても、その代償として右腕の経絡は完全に死に絶え、心臓の毒は臨界点に達して自滅する。復讐の旅路は、まだ始まったばかりなのだ。
「ほお、大きく出たな、片腕の小僧が!」
蠍三の顔から笑みが消え、その右手が激しくしなった。シュッ、と闇を切り裂く鋭い音が響き、棘の付いた黒い長鞭が、生き物のように落行の死角へと襲いかかった。落日泉を舞台にした、命を削る死闘の幕が、今、切って落とされた。
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