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黒き痣の警鐘

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肺の腑を焼き焦がすような熱気が、喉元までせり上がっていた。ゴフッと短い咳と共に吐き出されたのは、赤黒く濁り、石畳の上でジュッと微かな音を立てて蒸発する高熱の血だった。


「……お兄ちゃん、起きて。お願いだから、目を覚まして……!」


 耳元で泣きじゃくる少女の声が、遠い霧の向こうから響く。蕭落行が静かに目を開けたとき、視界を覆っていたのは、落日鎮の廃寺の崩れかけた天井と、薄汚れた泥仏の冷たい横顔だった。体中が、万斤の鉄槌で叩きのめされたように重く、軋んでいる。


「気がついたか、落行」


 低い、掠れた声がした。廃寺の管理人である老道安が、静かに薬湯の器を差し出している。その傍らでは、小泥が赤く腫らした目で落行の顔を覗き込み、細い指先で彼の灰色の衣の袖をぎゅっと握りしめていた。


「小泥……宋大媽は……」


「宋大媽なら無事じゃ。近所の住人たちが介抱して、今は安全な場所に隠れておる。お前が飢狼の奴らを抜刀もせずに叩き伏せたおかげでな。だが、お前自身の身体は……限界を超えておるぞ」


 道安の言葉に、落行は無言で己の右腕を見つめた。黒い革の包帯が何重にも巻き付けられた右腕。その包帯の隙間から覗く皮膚には、まるで黒い蛇が這い回ったかのような不気味な経絡の痣が、手首から肘の近くにまで急激に拡大していた。熱毒の暴走が、確実に彼の肉体を蝕んでいる証拠だった。


 落行は左手で右手の指先に触れてみた。人差し指と親指は辛うじて動く。しかし、薬指と小指は、氷のように冷たく硬直したまま、ピクリとも動かなかった。完全に感覚が消失している。飢狼の一味を相手に、抜刀を避けるために「千斤墜」と「借力打力」を無理に駆動した代償は、彼の右手の機能を物理的に奪い去り始めていた。


「……少し、出かけてくる」


「お兄ちゃん、その身体じゃ動いちゃダメ!」


 小泥が必死に引き止めようとするが、落行は冷たい眼差しで彼女の手をそっと払い、立ち上がった。背中には、錆びた無銘の鉄剣が静かに佇んでいる。抜刀制限は残り十二回。まだ一回も抜いていないというのに、肉体はすでに崩壊の予兆を告げていた。このままでは、最初の仇敵に届く前に己の命が尽きる。落行は夜闇に紛れ、落日鎮で唯一の医療館へと向かった。


 街の片隅にひっそりと佇む「回春堂」は、安価な薬草の苦い匂いと、行き場を失った貧民たちの死気が立ち込める薄暗い診療所だった。奥の部屋で待っていたのは、白い髭を長く伸ばし、煤けた眼鏡をかけた老医師、張大夫だった。


「また来たか、厄介な小僧め」


 張大夫は落行の顔を見るなり溜息をついたが、そのただならぬ血の匂いと、右腕から立ち上る熱気に表情を強張らせた。落行が黙って黒い包帯を解くと、張大夫は息を呑み、その老いた指先を落行の手首の脈所に当てた。


「……これは、何という熱さだ。脈打つ血が、まるで沸騰した油のようではないか」


 張大夫は急いで、棚から奇跡的な冷却効果を持つという「解毒の湿布薬」を取り出し、落行の黒く変色した経絡の上に貼り付けた。しかし、湿布が皮膚に触れた瞬間――


 ジュゥゥッ!


 激しい水蒸気と共に、湿布薬は一瞬にして乾燥し、黒い炭となってボロボロと崩れ落ちた。落行の体内に宿る「残陽の熱毒」は、凡庸な医術が立ち向かえるシロモノではなかったのだ。


「無駄じゃな。お前の心臓に宿るその毒火は、五臓六腑を内側から焼き尽くそうとしておる」


 張大夫は眼鏡を外し、冷酷な、しかし真実を語る医師の目で落行を凝視した。


「宣告してやろう。お前の右手の薬指と小指の麻痺は、経絡が物理的に焼き切れた結果だ。これは二度と元には戻らん。これ以上の抜刀、あるいは無理な内力の使用は、右腕全体の完全な壊死を招き、最後には心臓が耐えかねて破裂する。……お前の命は、持ってあと一年。もし次に剣を抜けば、その場で即死してもおかしくはないぞ」


 死の宣告。回春堂の薄暗い天井を見上げながら、落行はただ静かに、再び黒い包帯を右腕に巻き直した。その表情には、恐怖も、絶望も浮かんでいなかった。あるのは、ただ氷のような冷徹な執念だけだった。


「……死ぬ前に、十二人を屠る。それだけだ」


「狂ったか。蕭長風殿はお前がそんな生ける屍になることを望んではいなかったはずだぞ!」


 張大夫の悲痛な叫びを背中に受けながら、落行は回春堂を後にした。身体が崩壊に向かっているのなら、その崩壊を物理的に遅らせる「器」が必要だった。落行が向かったのは、街の外れで火花を散らす「鉄骨鍛冶屋」だった。


 カン、カン、カン!


 夜の静寂を切り裂く金属音が響く。隻腕の鍛冶屋、鉄大叔が、飛び散る火花の中で黙々と槌を振るっていた。かつて高名な鋳剣師であり、蕭長風を庇って片腕を失った男。彼だけが、落行の錆びた鉄剣の特異な性質を理解していた。


 炉の熱気が、落行の体内の熱毒と共鳴し、彼の皮膚を焦がすような激痛をもたらす。落行は左手で胸元を押さえ、壁に寄りかかった。


「来たか、落行。……その右腕、やはり始まったな」


 鉄大叔は槌を止め、隻腕で汗を拭った。彼の鋭い眼光が、落行の動かない右手の指先と、不気味に黒ずんだ腕を捉えていた。


「お前が飢狼を倒した噂は聞いた。抜刀せずにあれだけの剛力を受け流せば、衝撃がお前の崩壊しかけた経絡にすべて逆流する。長風殿の剣は、人を守るためのものだが、お前の修めた『残陽十二剣』は己を滅ぼす魔道だ。これを使え」


 鉄大叔が、炉の奥から取り出したのは、漆黒の鈍い光を放つ重厚な鉄の鞘だった。辺境の熱裂地帯から採掘された「熔岩石」を用い、内側に熱を吸収する砂漠の特殊な木材を張り巡らせて鍛造された「残陽の特製鞘」である。


「この鞘は、お前の鉄剣が放出する熱毒を一時的に吸収し、お前の右腕や心臓への逆流を防ぐ。これに剣を収めている限り、熱毒の侵食は極限まで抑えられるはずだ」


 落行は左手でその黒い鞘を受け取った。ずっしりとした質量が、左腕に伝わる。背中から錆びた無銘の鉄剣を引き抜き、新たな鞘へとゆっくりと収めた。


 スゥゥ……。


 剣が完全に収まった瞬間、落行の右腕を襲っていた激しい脈動と、心臓を焼き焦がすような熱気が、嘘のようにスッと鎮まっていった。特製の鞘が、物理的な熱シールドとして機能し、熱の伝導を完全に遮断したのだ。落行は、数日ぶりに深い呼吸をすることができた。


「……感謝する、鉄大叔」


「礼には及ばん。私は長風殿に命を救われた身だ。お前の復讐を止めることはできんが、その命を一日でも長く繋ぎ止めることならできる。だが、忘れるな。これは一時しのぎに過ぎん。剣を抜けば、蓄積された熱毒はさらに牙を剥くぞ」


 鉄大叔の重い警告が、火花の散る鍛冶屋の中に響く。落行は、新しく手に入れた鞘を腰に固定し、自らの新たな戦術を脳裏に描いていた。


(右腕はこれ以上使えない。通常の戦闘では、徹底して左手での鞘防御と、『砂海歩法』による回避に特化する。抜刀は、本当の仇敵を屠るその一瞬まで、絶対に封印する)


 その時だった。鍛冶屋の薄暗い扉が乱暴に押し開けられ、息を切らした少年――水を売り歩く阿水が、泥まみれになって転がり込んできた。


「落行の兄貴! 大変だ! 鉄血沙門の、副門主の蠍三の部下たちが……廃寺を取り囲んだ!」


 落行の瞳が、一瞬にして極寒の氷へと変わった。心臓がドクリと跳ねる。


「小泥はどうした」


「小泥ちゃんが……奴らに捕まった! 蠍三の奴、『錆びた剣を持つ灰色衣のガキを連れてこい。さもなければ、この餓鬼を万蛇窟の毒蛇の餌にする』って……!」


 落日鎮の夜風が、冷たい雨の予兆を孕んで激しく吹き荒れ始める。落行は左手で、腰の「残陽の特製鞘」を強く握り締めた。動かない黒い右腕を抱えた少年の前に、容赦なき宿命の警鐘が、今、最大の大音響で鳴り響いていた。

HẾT CHƯƠNG

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